第7話 『目には目を、歯には歯を』
空が茜色を映し始めた頃、俺とウミは、アパートの最寄駅付近まで戻ってきていた。
教授の話を聞きながら二時間もするとウミが目を覚ましたので、あの一室を後にした。今度はゆっくりと歩いて駅まで行き、電車に乗って、学生の街へと戻ったのだ。
朝、昼と食事を抜いた挙句、かなりの肉体労働まで負わされた俺の体はフラフラだったので、一先ず食事を取るべきだと考えて、今は、ウミが来てからは行きつけとなったいつものファミレスに入っていた。
席について、料理が届くのを待っている。
ウミは、教授に聞いた通り、すっかりいつもの調子に戻ったようで、対面の席でのんびりとしている。それは結構なのだが、俺は、ウミにかなり苛立っていた。
まあ、話は料理が来てからだ。
「お待たせいたしました」
と思ったらすぐ来たので、話を始めよう。
「なあウミ」
「なに?」
「お前があんな状態になったのは、未練を放置しすぎて、高まって、暴走を起こしたからなんだよな?」
「教授の話では、そうらしいね」
わたしも、そんなことになるなんて知らなかったもん。ウミはやや怯えているようだ。痛いのか苦しいのかは分からないが、良い状態でなかったのは、俺にだって理解できた。
俺もウミも、『未練』というものを、甘く見ていたのだろう。
思えば確かに、ウミをここに繋ぎ止めているのは『未練』だし、呼び戻したのも『未練』なのだ。何より重要視すべきものだっただろう。
それこそ、先延ばしになんてするべきではなかった。
豚丼に生卵をかけたものを掻き込みながら、俺は考えた。
教授の話と、先のウミの状態を考えるなら、これまで『猶予』と考えていた時間はぐっと減る。本来なら今にも、ウミを成仏させてやるべきなのだろう。
その鍵を俺が握っているのは、間違いなかった。
「でも変なんだよ。教授が言うには、『発作』は様々な異常行動として表れるらしいんだが、お前のは、ただくるくる回って、あっち向いてホイって言ってただけじゃないか」
俺は、ウミに非難の目を向けながら、言う。
実のところ、もうとっくに、ウミの未練については予想がついていた。
ただ、少々苛めてやらなければならないと思った。
「いいや、それはそれで、正しいんだよ」
案の定、ウミは気まずそうな表情で視線を逸らした。
俺は、「へえ」とも「はあ」とも取れない相槌を打ちながら、その様子をじっと見つめる。
「つまり」
俺の予想が正しければ、ウミの未練は。
「つまり、私の未練は、『あっち向いてホイでヨウに勝てなかったこと』だったというわけ!」
「…………」俺は心底呆れていた。
そんなことのために、幽霊にまでなって俺のところに戻ってくるとは。コイツはやっぱり、どうしようも無いほどに、バカなんだな。
だけど、少しだけ安心もしていた。
幽霊の『未練』というのは、その人が生きているうちに達成できなかったことというのが大半で、その難易度は、幽霊になって戻ってきたところで変わらない。つまり、解消が困難な物の方が多いのだ。
しかし、ウミの場合は『あっち向いてホイ』である。今すぐにでも挑戦して、どうにかして、俺が負けてやればいい。もちろん、ウミは真剣な俺に勝ちたいのだろうから、上手く演技でもしよう。
これ以上、ウミが『こちら側』に留まる理由はない。
「あ。今、手を抜こうとか考えてたでしょ!」
「そんなことはない」
俺は、内心がウミに悟られないよう、無表情を意識して首を横に振る。
しかし、その挙動が逆に不審で、あっさりと勘付かれてしまったようだ。
ウミは、分かりやすく頬を膨らませた。
「私は『あの日』、ヨウに勝てる方法を思いついたんだから! だから、ツキに報告しようとしてたんだよ」
『あの日』というのは、ウミが交通事故にあった日のことだろう。
言っていることが本当かどうかは分からないが、もし本当だとしたら、コイツは最期の時まで『あっち向いてホイ』で頭が一杯だったことになる。
「そんなにも、そんなことが大切なのか?」
「大切だよ! だから戻ってきたの!」
「そうか」
だったら、なおさら早く勝負をしてやるべきなのだろう。
未練を晴らして、苦しみというやつから解放してやるべきなのだろう。
しかし、俺はそうはしないことに決めた。
なんでかというと、やっぱり俺は、少し怒っているんだ。
「なあ、本当に、未練の放置が自分に悪影響を及ぼすってことを、知らなかったのか?」
今まで、ウミに聞いてきた『幽霊の性質』は、一見大したことのないものばかりだった。でも、教授に話を聞いて、自分でも考えてみれば、それが案外、幽霊にとって重要なところであることがわかる。
透明で、俺以外には見えないこと。
未練があって、それを解消すれば成仏すること。
8月末までの存在期間。
ウミは、幽霊について、知っておくべきことは知っていた。
「うん。知らなかった」
ウミが目を覚ますまでに交わした、教授の言葉を思い出す。
彼が今までに関わってきた幽霊たちは、後になって相談者に聞いてみると、みんな、それが猶予期間などではないことを知っていたらしい。知っていて、その苦痛の時間を、親しい者のために使おうと考えたのだ。
透明で、誰からも認識されることのない存在が『ただ一人』を見つけると、その一人のために、尽くしてみたくなるのではないだろうか。
ササクレ教授はそう語った。
ウミはその会話を知らない。
俺が『知っていること』を知らない。
そして、あんな目に遭ってなお、まだ、俺に気を遣おうとしている。
俺は、人に気を遣われるのが、大嫌いなんだよ。
ウミは、公園で俺と再会した。アパートに移動して、現状を掻い摘んで話した。俺があまりにもダメ人間に見えたので、8月末までの期間を『猶予』ということにして、その時間をフルに使って、俺の生活を改善しようとした。
つまり、自身の苦しみよりも、俺のダメさ加減のほうが、大事に見えたということだ。
お前がそうまでして助けなければならないほどに、俺はダメに見えたのか?
繰り返し言うが、俺は気を遣われるのが大嫌いだ。
人に見下されるのが耐えられない。それは、どちらかというと昔は見下す側の人間だったことが影響しているんだと思う。そしてそれ以上に、今は、もうそちら側の人間でないことを自覚してしまっていることもあるだろう。
とにかく、俺はまだ、自分が優れた人間だと思いたいのだ。
そして、ウミの気遣いを知ったいま、俺は、そう言った拠り所を、根本から逆撫でされる感覚を覚えている。
よりにもよってウミに、というのもある。
これは今気づいたのだが、俺は、ウミを親友としてみているようで、どこか見下している部分もあったんだと思う。
面倒を見るのはいつだって自分。
責任を取るのはいつだって自分。
それが、今はどうだ。
完全に、逆転されているのだ。
でも、ウミはあの時から一切成長していない。俺にはわかる。本当に、なにも変わってはいないのだ。
それでも逆転されているということはつまり、俺が、この5年間でとんでもないマイナス成長を遂げていたということに他ならない。
俺が信じたくなかったことが全て、おおっぴらにされたわけだ。
よりにもよって、ウミに。
だから、俺はこんなにも苛立っているのだと思う。
さて、俺はどうするべきだろうか?
答えはとっくに出ていた。
「なあ、ウミ」
「なに?」
『目には目を歯には歯を』という言葉がある。自分が害を受けたら、それと同じ手段でもって、相手に仕返しをする、ということのたとえだ。
俺は今回、気を遣われることで、大変気分を害した。
であれば、気を遣い返してやればいいのだ。
幸いにも、8月はもうすぐやってくる。
『発作』は、いましばらくは落ち着きを見せている。
これが最後のチャンスになるかもしれなかった。
「俺はお前を成仏させる前に、ツキに会わせようと決めたよ」
あっち向いてホイを我慢した時間で、俺の悩みを解決されちゃあ堪らない。
ウミがそんなことのために苦しんでるのも、納得がいかない。
だから、せめて、その時間はウミ自身のために向けるべきだろう?
これにて第2章は終了となります。
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