第6話 『できること、ただ一つ』
「ああ、汚いところではあるが、まあ、掛けてくれ」
俺よりも一層陰険な雰囲気を纏った中年に案内されて薄暗い部屋に入ると、まずは席を勧められた。
といっても、埃の積もった床に無造作に放られた座布団だ。座って、軽く体を揺らすと、座布団からも埃が湧き立ちそうな塩梅だった。
部屋には、見たこともないような動物の骨や、十字架、カードや石などが並んでいる。
六芒星の刻まれた壁が緑青の光を放っていて、そこに浮かぶ中年の影がどこか不気味だ。部屋の中は奇妙な静けさに満ちていて、俺を濡らす汗が乾いていく。
男の名はササクレ。
俺が通う大学の教授で、オカルト好きで有名な、謎多き人物である。
出来るなら、こんな怪しいところには来たくなかった。
でも、他に頼る場所などないのも事実だった。
「ここにいるのか?」
ササクレ教授は、俺の隣に横たわるウミに向かって、まるでその姿が見えているかのように、手を伸ばす。
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アパートを飛び出した俺は、まず駅を目指した。
大学とは反対の方角に向けて、走っていく。距離はそこまでではないはずだ。とにかく、電車に乗ってしまえば、小休止ができる。
俺が走っている間にも、脇に挟んだウミの頭部はゆっくりと回転しながら、呪詛のように「あっち向いてホイ」を繰り返していた。落とさないようにそれなりに固定しているつもりなのだが、それでもゆっくりと回るのだ。正直、ウミが透明で助かった。
背負った体の方は、相変わらずピクリとも動かない。ただ、そこまで重たくもないし、温度も無いので、なんとか夏の路地を駆けることが出来ている。
これが生身の人間であれば、背中が洪水を起こしているところだ。
足が引き攣る思いをしながら、度々息を整えながら10分も走っていると、右側前方に駅の錆色の屋根が見えた。
俺は、椅子と自販機と改札と切符売り場だけがある狭い構内に飛び込むと、一枚の切符を購入し、改札を通る。その際に時刻表に目をやると、もう、次の上り列車の時刻が迫っていた。
黄ばんだコンクリートの階段を上って、一番奥のホームを目指す。
どうして、一番乗車人数の多いであろう上り線が、最奥なんだ。思わず嘆きそうになる。
昔の俺であれば、もっと軽快に足を動かしたのだろう。
こういう時でさえ、考えるのはあの頃のことだ。
人間は未来を夢見るものであると思う。
でも、俺が夢見るのは過去だった。
ちょうど滑り込んできた電車に乗り、荒い息を吐きながら、扉横の座席に腰掛ける。空調が効いていて、なんとか外の暑さは誤魔化せた。
二人掛けの座席の左隣には、ウミの体と頭がある。そこに誰かが座らないように、財布を置いておく。財布で一人分の場所を取るのは、他の乗客には好ましくない行動だろうが、仕方がないだろう。
たったの3駅だから、我慢してほしい。
ガタンガタンと跳ねる体をしっかりと涼めながら、俺は進んでいく。
この電車は、俺を未来へ運ぶのだろうか。
ウミの頭部がいつ飛び上がるかも分からないので、さりげなく抑えながら、駅二つ分の時間を過ごして、三つ目の駅で下車する。
電車に乗り込んだ、大学最寄りの駅よりもさらに寂れていて、小さな駅だ。
それでも、日中だからか、利用者はちらほらと見える。
再び階段を上って、改札を通り、駅を後にする。駅前には、バス停と駐輪場駐車場、小さな個人経営の商店がいくつかあった。
俺は、そんな光景を見ながらスマートフォンを取り出し、マップのアプリケーションを起動した。現在地を表示して、検索窓に、教えられた住所を打ち込む。すぐに結果が表示され、最適ルートまで教えてくれた。
そのままスマホをポケットに突っ込み、再び走り出す。
距離はかなりある。
が、これは急を要する事態なのかもしれない。そう考えると、足を緩めるわけにはいかなかった。
今ウミがいなくなったら、俺はきっと、不登校に逆戻りしてしまうからな。
10分ほど、小休止を挟みながらも、走った。
足は動かず、ウミを背負った上半身も、いくら軽いとはいえ、悲鳴を上げている。
ただ、そんな鈍足でも、歩くよりは確かに速いのだ。
右側を流れる車の流れに逆らって、進む。
通り過ぎるコンビニや病院は、道が間違っていないことを表していた。
セルフのガソリンスタンド、ディスカウントストア、ファミリーレストラン。
もう、10分程度の距離に迫っている。
横断歩道を渡る。
個別指導の塾、左手には、どこか上品な民家が3つ、広がる水田。
小さなトンネルを過ぎると、コンクリートの坂の上に、公園の金網が見えた。立ち止まって、スマホを見る。教えられた団地で間違いはない。
俺は、目の前に聳えた、かなり傾斜の強い坂を登り始めた。
日中だからか、駅とは逆に、ほとんど人気がない。公園には、滑り台と鉄棒があるだけだし、建物からも、物音ひとつ感じられない。
半分林の中にあるような立地のためか、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
そんな中を、汗を滴らせながら、指示された棟へと向かう。団地内でも、かなり奥の方だ。
コンコン、とノックの音を立て「すみません」と言うとすぐに、扉が内側から開かれて、中年が現れた。
「おう。入ってくれ」
サングラスをかけて、黒のローブに身を包んだ奇妙な姿は、知ってはいても、どこか躊躇いを覚えさせる。
「し、失礼します」
ただ、アパートまで引き返すのも癪だった。
▼
「ここにいるのか?」
あまりに自然に、ウミに向かって手を伸ばすササクレ教授に、俺は驚くほかなかった。
「わ、分かるんですか?」
「いいや、分からん」
ササクレ教授はそのままウミに手を触れそうになるが、彼の手は、そのままウミをすり抜けて、暗い床に触れた。
「見ての通りだ」
見えないし、触れることもできない、と言いたいのだろうか。
しかし、教授がウミに向かってまっすぐと手を伸ばしたのは事実だし、もしかしたら、ウミを助けることも可能なのかもしれない。
こんなことなら、もっと早く相談しておけば良かった、と思う。
実のところ、不登校をやめて一週間後には、俺は、ササクレ教授のことを知っていたのだ。幽霊という超常現象に触れた俺が、それに関する研究を専門にしている教授の存在に、気がつかないわけが無かった。何せ、大学にやってくるときも格好は今のままだし、会員数0という謎のサークル、『オカルト研究会』の顧問を受け持っているらしいし。
もう、『それらしさ』の塊のような男なのだ。
ただ、その風貌の怪しさ、評判の悪さから、俺は、ウミを任せていいものかと躊躇っていた。
簡単に人を頼ることができないのは、もうずっと前からそうだ。
人に弱みを見せるのを恐れているのか。それとも、人に頼るよりも、自分の方がうまくやれると信じているのか。
あるいは、自分に見栄を張りたいのか。
「やはりこのあたりにいるのか」
「電話でお話しした通りの状態なんですけど、そこにはちょうど体が」
床につけた手で探るように円を描くと、実感が無さそうに首を傾げる。やっぱり、ただの偶然だったのだろうか。
「おっと、知らぬ間とはいえ、女性の体を」
これは失礼した、と教授は手を離す。意外にも紳士的だ。
正確には、触ってはいないのだけど。
今までだって、ウミの存在に気が付くような人はいなかった。
幽霊なんかの研究をしているらしいササクレ教授だって、つまり、見えないからこそ不思議に思って研究しているわけであって、果たして、本当に頼りになるのか疑問は尽きない。
「それで、何か、わかることはありますか?」
「実は似たようなケースを受け持った経験はあるのだが、もう少し見てみないことには……」
言いながら、部屋の奥から双眼鏡や数枚の写真、カメラを取り出してくる教授。ローブが床を擦って、埃を巻き上げた。その胸元から、薄紫の玉を引っ張り出して、それをウミの体のある場所に置く。
「それは」
「世界で最も美しい宝石だ。その割には安価だがな」
宝石の価値なんてものは分からないが、仮にも教授が用いるものなのだから、それなりの効果を持っているのかもしれない。
ウミの体と宝石が重なっているのは未だに慣れず気持ちが悪いが、確かに、その玉は奇妙な美しさを放っているような気がした。
教授は、双眼鏡でその様子を細かく観察しながら、手元の写真数枚と見比べている。
「この女性…………年齢は小学生といったところか?」
そうだとしたら、女性というよりは、少女になるのか。
観察を続けながら、ササクレ教授が訪ねてきた。
「いえ。中学3年生、でした」
「なるほど」
宝石と同じく胸元から取り出した手帳に、「やはり個人差は……」呟きながら書き付けた。
続いて、古めかしい大型のカメラを構えて、写真を数枚撮影する。また手帳に何かを書き込んだ。
「幽霊というものについて、少女からは何を聞いている?」
さて、何か手がかりになりそうなことは聞いていないとは思うが、一応思い返してみよう。ウミは、再会の時から昨日まで、少しではあるが、『幽霊』について話してくれていたはずだ。
「まず、透明で、僕以外の人間には見えないこと」
「ふむ」
教授は手帳をペラペラとめくって、首を縦にふる。
「僕以外のものには触れることができないこと。今も、よく見ると、床からは少し浮いているように見えます」
「ふむふむ」
「あとは、何か未練があってここに戻ってきたらしいこと。消えるのは、未練を晴らした時か、8月の終わりらしいです。聞いたのは、それくらいですね」
「そうか、ありがとう」
ポツポツと思い出しながら答えると、教授は手帳に書き込みながら礼を言い、そのまましばらくの間、手帳を覗いた。
しかしアイツ、本当に大したこと言ってないな。
放っといても、自力で気付けるようなことばかりだ。いや、未練の話と、8月いっぱいの期限については、言われなかったら気が付かなかったか?
少なくとも猶予があると知れたことは、俺の気をいくらか楽にしてくれたし、それはウミに感謝してもいいだろう。
「まず、話を聞く限りでは、これは、今まで俺が対処してきたケースそのものだと思っていいはずだ。『幽霊』というのは一見意味不明な現象だが、決してデタラメなわけではない」
沈黙が少し続いて、手帳をめくる音まで無くなったのちに、教授が口を開いた。
その研究者らしい口調に感心しかけるが、平日の日中から薄暗い部屋でこんな格好をしていることを考えれば、また、信用は微妙なところに隠れてしまった。
俺が言えることではないけど、今日、大学はどうしたのだろう?
そんな教授はウミの胸のあたりから宝石を抜き取ると、ローブの内へとしまう。写真やカメラを奥の机へと放って、双眼鏡と手帳は手に持ったままだ。
そして、「この件について俺が言いたいのは一つだ」と続ける。
「キミたちは、未練というものを少しばかり、甘く見過ぎているのではないか?」
「未練」
解消したら、成仏する。
解消せずとも、8月の末にウミは消滅する。
そういうものだったはずだ。
「未練というのは、もっと強力な感情であるはずだろう? なにせ、存在を『この世』に引きずり戻すほどのものなのだから」
言葉は止まらない。
「それを、解消を先延ばしにして、他にやりたいことを探す? 8月まで猶予がある?」
他に、ウミのやりたいことを探しているというのは、ササクレ教授には言っていないはずだ。つまり、今までの相談者たちの多くも、俺たちと同じだったということだろう。
俺は、これを、とても特別な現象だと考えていた。思考や常識の外側にある問題であると。
でも、教授は、似たような相談を繰り返して、経験を積んで、『研究』の範囲内で、ある程度の答えを見出しているようだ。
そう考えると、やっぱり俺は、特別な人間では無いのかもしれなかった。
凄い人間なんてものは、そこら中に、たくさん潜んでいるものだ。
「いいか、『幽霊』にとって、『未練』は全てだ。つまり、押し隠すことも、先延ばしにすることも、強力な毒になり得るということだ」
ようやく、俺にも話が分かってきた。
つまり、まだ詳しい理由は不明だが、俺たちが「時間はまだある」と油断して、即座に未練の解消に当たらなかったことが、逆に、ウミを苦しめていたと。
「幽霊を送り返す手段は、確かに二つある。成仏させることと、こちら側で3、4ヶ月を送らせること。後者を『猶予』と捉える人間は、当然といえば当然だが、相談者の中にも多かった。
しかしそれは違うのだよ。未練を晴らせずに送るこちら側での数ヶ月は、幽霊にとって、地獄と大差ないほどに、苦痛に満ちている。『猶予』などとは、とても言い表せない程にね」
それからの教授の言葉は、これまでの俺とウミの甘い考えを、痛烈に否定してかかるものばかりだった。
最後に教授は言った。
「この件、俺にできることはほとんど皆無だ。少女はじきに目を醒ますだろう。
…………できることは、キミにしかない」
————できるだけ早く、成仏させてやることだね。
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