第4話 『言い訳』
2階の講義室に入って10分ほど携帯を弄っていると、講義が始まった。
席は半分ほど埋まっていて、俺は後ろ側に座っている。
前方に座る者と、後方に座る者とがくっきりと分かれていて、奇妙だ。
ウミは、今度は俺の左側で透けている。これで、隣に誰かが滑り込んでくるようなこともないだろう。
俺は頬杖を突いたまま、持ってきていたテキストを開く。
これでも、入学から数ヶ月は大学に足を運んでいた。講義にも、積極的とは言えないものの、出席していたのだ。
その中で、唯一理解が容易かったのが経営学で、この講義はその発展にあたる。もしかしたら、分かる部分があるのではと思った。
事実、薄れた記憶の中に、それらしい単語がいくつか残っている。
ただ、内容がはっきりと理解できるというわけではなく、あくまでも、テキストを辞書無しに読み進められる程度。
それでも、少しだけ安心した。
すると、気分が乗ってくる。俺はテキストに向かった。教授の言うことにも、かろうじて付いていくことができた。
俺は、一度集中力が高まると、それを継続することには長けている。他のことは目にも入らなくなり、心地よく体が熱を帯びる感覚。久しぶりだ。
高校に入ってからは、ほとんど味わっていないものだった。
ウミは驚いた表情になった。何か話しかけてくるかと思ったが、俺の様子から察して、黙っている。
そういえば、ウミは、俺の特徴を覚えているんだったな。
勉強は大抵、つまらないものである。が、久々に訪れる集中は、清々しいものだ。
『俺が勉強している』という珍しい事実に、酔っているだけなのかもしれないけど。
講義が終わった。熱は無いのだろうが、頭が熱い。
しばらく考え事は出来そうになかった。
「いよいよ、次の授業は厳しくなってきたか」
なんて物憂げな表情で呟いてみると、
「はいはい行くよ〜」
パンパンと手拍子で急かされた。
講義室からは人が流出し始めて、特に後方の席の人間の動きは早い。周囲を見渡してみると、ゆっくりと席に着いているのは俺くらいのものだ。
彼らは無気力で、無関心で、それでも学校には足を運んでいる。俺と似ているようで、異なっている。それは何故なんだ?
そんなことをのんびりと考察していると、前方連中までも講義室を去りそうな気配があったので、一先ず捨て置く。
立ち上がった。
今日の講義は次で最後だ。
この棟の一階に向かわなくてはいけない。
「…………ん」
今の思考には違和感があったな。
俺はなんで、素直に講義に赴く気分になっているんだろう。
……まあ、コイツの所為なんだろうけど。
俺は、左隣のウミを見て、階段をペタペタと降りていく。
ウミとフユカ先輩。どちらも、俺を連れ出そうとしてくれる存在であることに間違いは無い。
でも、フユカ先輩ではこうはならない。
……二人の違いと言えば、そうだな。
「ヨウ、さっきはちょっと大学生ぽかったねぇ」
「勉強していたのを大学生らしいと言ってるなら、それは誤解だぞ。むしろ最も大学生らしくない行動と言って良い」
「でも、私は、頑張ってるヨウの方が好きだな」
「俺もだよ」
他人事のように同意しておく。
おそらくは、『事態』を遠ざけようとしているのだ。身近にあるから、怖い。他人事なら、怖くはない。
さて、ここで一階の講義室前に到着したわけだが、俺は一つ、良い言い訳を思いついていた。
同期たちと俺の違いはハッキリしなかったが、ウミとフユカ先輩の違いは分かった。
ウミが『見えない』ことに掛ければ、それは『目に見える違い』だ。
あとは、授業中に、自分への言い訳を考えておくだけだな。
ずっと一人で、自分の腐った性根と相対してきた俺は、人一倍、自分の『無意識』に詳しいように思う。
それが良くも悪くも、思わぬ副産物だった、ってことだ。
講義が終わって外にでる。
外は4時を回って陽が傾いていた。やや日差しが強く、夏に近づいているのを感じる。
嫌がらせ階段(仮名)を降りて、学食の前を通り、学校を後にする。
校門は、人がまばらに入り混じっていた。出て行く者や、入ってくる者。
俺は大学前をまっすぐ伸びた通り、その脇に置かれた自販機で缶コーヒーを購入し、それを片手に歩いていく。手の平が温かくなった。
こんな時期でも、コーヒーは温かいのが良い。
しばらく温度を楽しみながら、左折して大通りに出る。右に行けば昨日のショッピングモール、すぐ左には牛丼屋がある。コンビニや居酒屋、回転寿司に焼肉の食べ放題まであって、夜には大層賑わうものだ。
今はまだ、学生の集団が散見されるくらいだけど。
まあ、まだ飯にも早い時間だし、とりあえずはスルーだ。食事に関しては、夜になったその時に考えればいいだろう。
横断歩道を渡って、細道に入る。
高校生風数人とすれ違いながら、コーヒーを開けて半分ほど飲んだ。
ウミが頻繁に話しかけてくるので、それに適当に答えながら。
ウミも、気紛れで話しかけていただけだったのか、そんな俺の態度にも特に反応は示さない。
しかし、公園の前まで来て、周囲から人気が消えると、今度は真面目なトーンになる。
「ヨウ。やっぱり学校には行った方がいいよ」
どうやらお説教をしたいようだ。
公園を見れば、幼稚園か、小学生くらいの年頃の子供達が、数人で集まっている。
俺は、公園に入って、今朝も座ったベンチに腰掛けた。
「お前もしつこいな。そんな心配そうな顔するなよ」
空を仰ぎながら、言う。
ウミとフユカ先輩の違い。そんなものは、考えるのがアホらしくなるくらいに、分かりやすいものだ。
そして、俺は、また自分に嘘を吐く。
……俺は、どうしても、ウミに弱いんだよなぁ。
うん、良い言い訳だ。半分くらい事実を混ぜてあるのが、非常に効果的。
問題を、恐怖を、できる限り本心から遠ざけて、守って。
それでようやく、俺は自分に素直になれる。
楽しむこと、期待すること、悲しむこと、傷つくこと。
全部が怖いから、それでようやく。
「要するに、俺が学校に行くためには、誰かが連れ出してくれることが必要なわけだ。
そして、その『誰か』が、周囲からの注目を集めるような人間であってはならない」
俺は言い訳を始めた。
俺が学校に詳しい理由。
学校に行かない理由。
そのくせ、履修登録はきっちり済ませていた理由。
入学時の心境。
去った友人たちへの思い。
フユカ先輩への思い。
そんなことを考えたら、とっくに答えは出ていた筈なんだ。
「そう」と俺は続ける。
「例えるなら、透明人間の美少女なんかが理想だな」
「そんなのいるわけないじゃん……」
「ああ、いるわけないよな」
ウミは呆れたような目になった。
俺も、それには概ね同意である。
「でも、今は、そんな心当たりが一つあったりもする」
ウミはハッとなって笑った。
「あはは。素敵で、怠け者の言い訳だ」
どうやら、ウミには俺の考えが分かったらしい。
何年も会ってなくて、おまけに、すっかり変わってしまった俺の考えが。
いや、きっと、根本的な部分は変わっていないんだろうな。
感情との付き合い方が変わっただけだ。
そうして、俺は『消えてしまうウミへの同情に押し切られて』、不登校を止めることにした。
どうか、三日坊主に終わりませんように。
▼
ウミの存在は、俺の日常を大きく変えていく。
二日目にして、俺は不登校を止めたのだった。
次の話は、そうだな。
ウミが成仏しなかった理由、なんてどうだ?
ウミの未練の正体の話。
またまた、下らない話になるけどな。
第1章 終わり
これで第1章は終わりです。
次章からは、大きく話を動かすことになるかと思います。
この章では、キャラクターを知ってもらえれば、それでいいです。
感想等、お待ちしております。