第3話 『フユカ先輩』
チャイムが鳴った。
一限目終了の合図だ。
俺はレモンティを一本買うと、ショップを出、講義棟Bへと向かう。
いよいよ講義が始まる。
2限目は心理学で、3階の大講義室に多くの人が集まる、人気の講義だったはずだ。
受講人数が多く、人でごった返しているくらいの方が、聴衆に気楽に紛れることができて良い。
少人数の講義だったりに、いきなり顔を出すよりは随分マシだろう。
今日が、偶然そういう講義ばかり入れている日で、助かった。ウミは多分、こっちの都合なんてまともに考えてくれないだろうからな。
「言っとくけど、多分、講義なんて面白くもなんともないぞ。小難しいし、長いし、つまらない。大学生の俺にだってチンプンカンプンだ」
念のため、あらかじめウミに釘を刺しておく。
「大丈夫大丈夫。わからなくても、ちゃんと大人しく聞いてるから」
「まあ、それでいいならいいんだけど」
「うん」
講義棟に入って、3階まで階段で上がる。
エレベータを使っても良かったが、同じく講義に向かう者たちで混み合っていたので、止めた。
階段を上るだけで太腿が引きつったが、他人と閉鎖空間に閉じ込められるよりはマシだ。3階までくれば、もう講義室は目の前。広間は講義開始までの時間を潰す学生で賑わっている。
俺は人ごみを避ける意味も込めて、便所に向かうことにした。
ふわふわと、癖で人を避けながら、ウミが憑いてくる。
…………一言、行き先を告げるのを忘れていた。
一人でいるのに慣れすぎると、つい気遣いを忘れてしまう。必要がない能力だと、頭が勝手に判断してしまっているのだろうか。
とにかく、他人に見えないとはいえ、男子便所にウミを連れていくわけにはいかない。
「その辺で待っててくれないか? トイレに行ってくるから」
「ああ、どこに行くのかなーって思ってたら、トイレかぁ。うん、分かった」
意外にも、素直に言うことを聞いてくれた。
まあ、ウミも、進んで男子便所に入り込みたくはないだろうしな。
思いながら、ウミを待たせている手前、素早く用を足す。手を洗って、ドライヤーで乾かし、外に出る。
広間からは人が消えていた。俺も講義室へ入ろう。
入り口横にいたウミと一緒に、後ろから2番目の席に着いた。
その際に、無意識に右側の席を空けてしまう。
ウミはそこに腰掛ける(浮いてるけど)が、周囲からは通路側の席が一つ分空いているようにしか見えないはずだ。
「危ない危ない。隣いいかい、ヨウくん?」
故に、時間寸前に見覚えのある顔が滑り込んできたのにも、悪意はない、はず。
ウミよりやや長い黒髪は途中でマフラーに遮られていて、なんでか息は白く、肌は上気している。おおよそ晩春の様相には思えなかった。
彼女は、俺が大学に入学した頃に出会った先輩で、校内にいる数少ない知り合いだ。
本来俺などに関心を抱くような人間ではないのだろうが、体が弱く、まともに学校に通えない時期があって孤立していたらしく、俺との交流を図ってきた。
いつもいつも寒そうにしているのが印象的な、目の大きな女性だ。
「あ、」そこにはウミが。
言いかけるが、その前にすでに、勝手に尻を滑り込ませて座っている。ふわふわとしたコートが、俺の肩にぶつかった。冬の匂いがする。
「ふぅ、ふぅ、はぁ。危うく遅刻しちゃうとこだったよ」
「今日は2限からですか」
「うん」
社交辞令的に返す俺だが、内心では、隣に吸い寄せられる瞳を必死に自制していた。
「フユカ先輩も、この講義取ってたんですね」
「一回落としちゃったから、取り直し〜」
寒がりながらカイロで手を擦る先輩は、ついさっきまでウミが座っていた席に腰掛けている。つまりは、今、二人はちょうど重なっているはずなのだ。
思わず首を向けてしまいそうになるのも、仕方ないと思う。
「あれ、キミって」
「はい?」
先輩が驚いたような声で言う。
「そんなにカッコ良かったかな? いや、前々から悪くないとは思ってたけどさ。久しぶりだからそう感じるのかな」
「は、はあ」
何を言い出すかと思えば、突拍子もなく俺の容姿を褒め称えてきた。
「あはは、ヨウ、照れてる〜」
仕方がないだろ。女の人に無邪気に好意的な視線を向けられるのなんて、もうしばらくは無かったんだから。
あと、いつまで重なっているつもりなんだよ。
そうこうしているうちに、講義が始まった。
講師は学校の教授で、教壇のスクリーンに図を表示して「前回に引き続き〜」とか言っている。ほら、もう分からん。
「いやあ。久しぶりといえば、ヨウくん、全然学校来てないじゃない。先輩は寂しいぞ〜。寒さが2倍増しだよまったく」
先輩が肘で小突いてきた。
俺が学校にこないことに関して、責めるような調子だ。講義が始まっているから、声のトーンは落としてある。
「2割増しじゃなくてですか」
「キミの存在が、私にとって、それだけ大きいということさ」
「ありがとうございます」
それにしても、会うのは本当に久しぶりだった。下手をすれば一年以上会っていなかったかもしれない。いや、4月に一度見かけていたか?
…………まあ、あれは『会った』とは言えないか。本当に見かけただけだし。
それにしても、入学時の友人と同じように、とっくに俺のことなど忘れて新しい友人でも作っているかと思っていたが、少なくとも、髪が伸びきった俺でも遠目で見つけてくれる程度には、記憶に残してくれていたらしい。
ウミが、「やっぱり気持ち悪い」と言って席から浮かび上がった。それを尻目に、俺はホッと息を吐く。
ウミと同様に、俺も、人間二人が重なっている光景は気持ちが悪いと思っていた。
やっぱり、なんというか、なんとなく気持ち悪いのだ。
「あれ」
ウミが離れると同時に、先輩が疑問の声をあげた。
「いつも通りのキミだ」
目を何回か擦って、首を傾げている。
「俺はいつでもいつも通りですよ」
「いつも通りに、格好付けのヨウくんだ」
「先輩の前ですから」
「本当にキミは、素直じゃないねえ」
「すみません」
わかっている。
俺はいつも通りを意識しすぎて、却って挙動不審になっている。そもそも、他人と話すということ自体が、いつも通りを逸脱しているのだ。自然体で、人前で『いつも通り』を貫けるのなら、端から独りぼっちになどなっていない。
ウミ相手なら、割と大丈夫なんだけどな。
それは、ウミが中学生の姿のままだからか、幽霊特有の存在感の希薄さがあるからか。
「ふふ、仲良しさんだねぇ。意外と、しっかりやってるんだ」
そのウミは、隣で何やらしみじみとしている。
学校に来て、誰からも声をかけられることなく顔を伏せて歩いていた俺に、まともな知り合いがいて安堵しているのだろう。
こんな俺に落胆しないでいてくれるのは、素直に有り難かった。
ただ、先輩の手前、俺はウミには反応しない。ウミも、それを理解しているのか、語りかけてくるというよりは、独り言に近い口調を繰り返している。
いや、先輩がいなくたって、ウミに直接心中を打ち明けるなんてことはしたくないんだけどさ。
フユカ先輩は講義を真面目に聞きながら、偶に、小声で俺に話しかけてくる。静謐な空間で交わす小声の会話というのが俺は結構好きで、少しだけくすぐったい。
入学当初は、こういう大学生活を夢見ていたんだったか。
ただ、と俺は思う。
先輩も、この調子だと、今年度いっぱいで卒業しちゃうんだな。
「もうお昼だねぇ」
ウミがお腹を押さえている。
腹減らないだろ、と俺は無視した。
「もうお昼だねぇ」
「そうですねぇ」
フユカ先輩も同じことを言った。
俺はすかさず同意した。
「学食行きます?」
「学食!」ウミが飛び跳ねた。
とことん大学というものが新鮮らしい。
「そうだね、じゃあ、一緒に行こっか」
先輩が肩を抱えながら、早足で階段を降りていく。
どうにも本当に寒いらしい。講義中もどこか落ち着きがなかったし、一体どんな体質をしているのやら。
いや、息が白んでいるのを見ると、本当に体質で済ませていい問題なのか?
「ほら、何してんの〜」
「遅いぞコラー」
先輩とウミに急かされて、俺もペースを上げる。
二人が並んで、俺を先導する形だ。
それにしても、二人は意外と息が合っている。
それを素直に喜ぶべきか、気の合う二人が、永遠に真の邂逅の機会を失っていることを悲しむべきか、それが俺には分からない。
▼
学食で食事をとると、フユカ先輩はそのまま次の授業に向かっていった。
俺はその講義を履修しておらず、三限目は別教室ということになる。先輩はA棟、俺はB棟だ。
俺は、フユカ先輩が去ったことで、心の安息を得ることができた。あの人と、というよりは、他人といることはやはり精神的に疲れる。
とにかく、俺は、精神的疲労と、長時間座っていたことによる身体的疲労に苛まれているのだ。果たして、真面目に最後まで講義を受けていく必要があるだろうか、と思い始めている。
「なに言ってるの。最後まで頑張るのー」
「はいはい」
しかし、ウミが隣にいるせいで帰ろうにも帰れない。
結局、俺は講義室へ足を向けるほか無かった。
学食前の広場を通って、嫌がらせとして作られたのかと疑いたくなるほどに歩幅の合わない階段を上って、B棟に入った。
エレベータは当然のように混み合っているので、また階段だ。お前ら、足が退化しても知らないぞ、と自分のことを棚に上げて考えてしまう。
それにしても、とウミが言う。
「フユカ先輩、綺麗な人だねぇ」
心なしか目が輝いている。すっかり『年上の女性』に憧れてしまっているようだ。
「そうだな」
彼女が人目を惹く容姿をしていることに反論の余地はないので、軽く頷いた。
「あんな人が待っててくれるんだから、きちんと学校に行けばいいのに」
「あんな人と対面するのは、俺としては、かなり疲れるんだよ。やたらと注目も集めるし」
「だとしても、見られてるのはフユカ先輩じゃん」
「そんなことは分かってるよ」
そんなことは分かっているのだが、俺は視線に過敏なんだ。誰かが、常に自分を観察しているように思えて、常に、ある程度行動を制限されている。
問題なのは、フユカ先輩と行動を共にすることで、その思い込みが強まることだ。
例えば、フユカ先輩と行動を共にするようになって、俺の不登校が解消したとしよう。
すると俺は、周囲から『女が出来た途端に、学校に来るようになった』と見られている、と錯覚するはずだ。実際には、そこまで俺を気にする奴はいないだろうことは、俺にだって分かっている。しかし癖のようなものだ。
そして、錯覚から生まれた他者の視点は、俺にこう思わせるだろう。
『俺の価値が落ちているぞ』と。
俺は、俺自身が、平凡で、他者と変わらない存在として語られることが嫌だった。
自分で勝手に見られていると妄想しておいて、と我ながら呆れる。
俺は本来、注目を浴びたい人間なのだろう。しかし、その注目に耐えられるほどには、自分に自信がない。
注目の妄想、それに対する嫌悪。
それらが堂々巡りを繰り返す現状の根幹には、そういう感情がある。
もう塵芥ほどしか残っていない俺の価値を、守ることで必死なんだ。
とりあえずは、その塵芥の価値すら、俺の幻想でないことを願おう。
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