第2話 『半透明の背中、薄れた温度』
結局、俺たちはアパートを出た。
ウミがうるさくて、眠ろうにも眠れなかったからだ。
大学には行きたくはないが、このまま部屋にいてやることもない。とりあえず、朝食を摂りに近所のファミレスに入った。
窓際の席に座ると、隣に、ついてきたウミが腰掛けた。
…………ように見えたが、ウミの腰は、少しだけソファと重なった。そこでようやく止まる。
一体、どういう感覚でやっているのだろうか?
そんな疑問はあったが、店員がやってきたので、朝食用に用意された、鮭をメインとした定食を注文する。
「ドリンクバーもつけて下さい」
「かしこまりました。ドリンクは、あちらでご自由にお取りください」
店の前方に見える機械を示した後、頭を軽く下げて、店員は去った。
俺は席を立ち、ホットコーヒーをカップに注ぎ、再び腰を落ち着ける。ウミはそれにも付いてきた。おそらくジュースも飲めやしないのに。
しかし何故か楽しそうだ。
「ファミレスも久しぶりだな〜」
と笑いながら、宙に浮かんで厨房のほうにまで入り込んだりしている。
これくらいはまあ、と俺は見て見ぬ振りをした。
ウミの姿は周囲には見えていない。それを考えると、人目のあるところでの会話などは避けたほうがいいだろう。それに、幽霊になってまで社会のルールに縛られるのも、嫌だしな。
俺は手元のカップを傾ける。
コーヒーの苦味が口に広がった。味は平凡だが香りは良い。ファミレスのドリンクバーで飲めるものとしてはまずまずだ。
ゆっくりと半分ほど飲み進んだところで、鮭の定食が運ばれてきた。
白米、鮭の塩焼きとキャベツ、味噌汁、お新香。シンプルで、しかし、これ以上並べようの無いような、完璧な朝食だ。
立ち上る湯気がいい香りを運んでくる。
俺は、味噌汁から箸を伸ばしていく。鮭の身を一口、白米を一口、どんどん食べる。
途中、戻ってきたウミがつまみ食いを図ってくるが、無視した。どうせ食べられまい。
しかし、ウミの手と鮭が重なっているのはなんだか気味が悪いな。
「ごちそうさま〜」
「お前は何も食ってないだろうに」
食事を終えたところで時計を見るが、まだ7時だ。
もう一度コーヒーを、と思ったが、止めた。俺にとっては、朝から何杯も飲みたいものではないからだ。
代わりにオレンジジュースを汲んでくる。
席に肘をついて、ボーっとストローを吸う。
「それで、何で学校に行かなきゃならないんだよ」
「え、だってヨウ、大学生なんでしょ? 今日は平日だし、学校あるじゃん」
対面にいるウミは当然のように言う。
学校があるから、行く。そんな、理由にもならないようなものを理由として信じていた時期が、俺にもあった。
俺は気怠い姿勢を崩さない。
「がっかりさせるだろうけど、俺はほとんど学校なんて行ってないんだよ」
「え?」
「不登校、とか引きこもりとか、そういう奴だ」
ウミは驚くだろうか。
昔の俺は、三人組の中でもリーダー的な存在だった。スポーツ、勉強、様々なことを器用にこなし、明るく、話し上手で。
今の俺とは似ても似つかない。まるで別人だ。
ウミの死からどんどんと落ちぶれていった俺だが、その過程をウミに見られることがなかったのは、皮肉だが、少しだけ幸運だったのかもしれない。
「じゃあ」
ウミは気合を入れるように飛び上がった。
「やることリスト『1』! ヨウの不登校脱出!」
どうやら、消えてしまうまでにやりたいことに追加されてしまったらしい。
「おいおい、俺は学校なんて行きたくないんだ。勝手に決めるな」
「消えちゃう前のささやかな願いなんだし、聞いてくれてもいいじゃん」
目を吊り上げてそんなことを言われると、さすがに気持ちが揺らいでしまう。
俺には詳しいことはわからないが、きっと、ウミは夏の終わりには消えてしまうのだろう。
体がテーブルを透過している光景を見るだけで、それなりの説得力がある。
でも、今更学校に行くのも気が引けた。
入学当初には何人か話しかけてくる者もいたが、そういう奴らも、俺が内心で見下していることを嗅ぎ取ったのか、すぐに離れていった。今はもう、とっくに別グループで頑張っているのだろう。
俺は本当に、繋がりを切り離すことに関してだけは、天才的だ。俺が見下す権利のある人間などそうそういないだろうに。
結局、まだ、俺は自分を優れた人間だと信じたいのだ。
「わたし、ヨウの学校どんなのか見てみたいな。高校もそうだったけど、大学にだって、行ってみたかったし」
俺の弱い部分をじわりじわりと突いてくる。
「見えないから、授業だって受けられちゃうしね」
ウミは心底楽しみにしているようだった。
何にも食べられない、触れない、そして俺以外とは会話もできない彼女。
そんな彼女が、楽しそうに、あったはずの未来のことを夢見ている。
「わかったよ。行くだけ行って、お前は適当に授業でも覗いてみればいい。今日だけだからな」
ため息混じりに、俺はそう言って、席を立つ。
「やった!」
喜ぶウミの声を無視して、金を払って、店を出た。
7時半。まだまだ、学校に行くには早いか。
俺は一度アパート前の道まで戻って、昨日の公園まで歩いた。
ベンチに座って、春の風を浴びる。
俺は、あっち向いてホイ同様、神様の指先から顔をそらし続けて生きてきた。
でも、ウミは違う。
なら、なんでウミは交通事故になんて遭ってしまったのだろうか。コイツは、見るべきところを、ちゃんと見ることができる人間なのに。
そんな疑問があった。
だから、訪ねてみた。
「それなら簡単!」
ウミは声を大きくした。
「私は、道路の向こう側にいたツキを見ていたんだよ。ちゃんと、わたしにとって、見るべきところは見ていたってこと。
絶対に、ぼーっとしていて、それで死んだとか、そういうことじゃないから」
ウミは、自分の死よりもむしろ、そこに念を押した。
俺にはその心情を理解することは難しかったが、
「ウミは、やっぱり、消えちゃう前にツキに会いに行くべきだと思うよ」そのことだけは分かった。
ツキはウミを見ることはできないが、それでも。
でも、ウミがツキのところに行きたがらないワケも、分かってしまう。
「わたしも、そうしたいんだけどね…………」
ウミは、憂いを含んだ目を一瞬見せて、そして顔を伏せる。
髪も重力の作用の外にいるようで、背中まで伸びた黒髪は垂れてこない。
「…………まあ、今は忘れよう。ほら、学校、楽しみだったんだろ?」
細い肩をたたく。
感触も妙に薄い。温度がない。
…………今、コイツに触れられるのは、俺だけなんだよな。
悲しいが、それが慰めにもなってしまう。いや、なってくれていると、信じたい。
すっかり変わってしまった、こんな俺でも。少しだけでも。
「うん、そうだね」
ウミはすぐに暗い雰囲気を払拭し、軽やかに立ち上がった。
透明な少女に先導されての登校は、現実味に欠けていて、ただ学校に向かっているようには思えない。
だからこそ、俺は落ち着いて歩を進めることができた。
隣に誰かいてくれているという安心感もある。
細道を出て、横断歩道を一つ渡り、居酒屋が立ち並ぶ大学前の通りを歩くと、まもなく校門に到着する。入ると、右はグラウンド、左は体育館、正面が本館だ。今のところ用はないので、体育館前を横切って歩く。
学食、学友会館、図書館、講義棟A、B。あまり大きな学校ではないらしいが、俺からすれば十分広い。
入学時には、さすがに、少し胸が弾んだものだ。まあ、期待したようなイベントは、全て俺の方からスキップしてしまったが。
「うわぁあ、広っ! スゴ! これが大学かぁ」
ウミも、大学というものには満足してくれたようで、喜んでいる。
「こんな良い学校に不登校だなんて、もったいない」
「うるせーよ」
俺だって、最初からなりたくてなったわけじゃないんだ。
そんな会話を交わしながら歩く。
校内には、まだほとんど人はいない。
ウミと話す分には、そのほうが良かった。
「授業は何時から?」
「1限目が9時。まだ1時間弱ある」
「9時からとは、大学生は朝がゆったりで羨ましいですな〜」
「確かに、中学はもう少し早かったかもな。さすがは怠惰の代表、大学生」
「その中でも特に怠惰なのが」
「だからうるせえって」
「何も言ってないのにー。自意識過剰だよ、ヨウは」
「引きこもりの大半は、自意識過剰から生じる何かだからな。当然だ」
「なんでわたしには言わせないクセに、自分は平然と言っちゃうのさ」
「俺は良いんだよ」
「ヨウ、なんか意地悪なったー!」
俺の口から『引きこもり』が出てくる時には、ちゃんと諦念や開き直りが篭ってくれてるから、良いんだよ。
そんな呟きは呑み下す。
「さて、それで、どこに行きたい? まだ授業は始まらないけど」
「と言っても、どこが開いててどこが閉まってるのかなんて、わたし知らないし」
「学食、生協ショップ、図書館くらいかな。この時間となると」
体育館も開いているかも知れなかったが、何も触れないのに連れて行っても傷つくだけだろうと思って、黙っておいた。
ウミはもともとスポーツが得意ではないし、図書館だったら、俺が本を開いてあげることもできるからな。
「じゃあ、図書館に行こう!」
ウミは俺の手を引いて速度を上げる。俺は前のめりになって、足をもたつかせた。
きっと、端から見れば奇妙な姿だろう。
でも、まあいいか。
俺はそのまま引っ張られた。
「大学の図書館って、こうドッカーン! ってイメージある!」
「言っとくけど、うちのは、そんなに大それたモンじゃないぞ」
「チョー楽しみ!」
全然人の話を聞いていない。
引っ張られるままに、講義棟Bの前を通り、隣の大きめの建物に入っていく。
そこが図書館だ。
しかし、1階は図書館という趣ではない。本はなく、新聞記事を読むコーナーになっている。その隣が自習スペースで、右側の別室にラーニングコモンズ。
学内で『図書館』と呼ばれる空間は二階からだ。
一見立派で結構ムダで、いかにも大学らしい建造物だと言える。
「らーにんぐこもんず。なんだかカッコイイねぇ」
語感の良いカタカナ語を聞いて目を輝かせるウミ。
確かに、俺たちの地元では見かけなかった施設だ。まして、ウミはまだ中学生。興奮するのも無理はないかもしれない。
「ここで勉強したりするのかな」
「仲間で集まって、話し合ったりするんだろうな」
しかし、今の時間では、まだ誰もいない。
大きな丸テーブルとディスプレイだけが、部屋に並んでいる。
俺たちは、二階の図書館に向かった。
うちの大学の図書館の開館時刻は8時だ。もう入れるだろう。
学生証を機械に通して、図書館に踏み入れる。
大学関係者以外は入ってこれないシステムになっているのだ。
もちろん、ウミは機械に気付かれることなく、すり抜けた。
入り口横のカウンターには、眠そうな顔の女性司書が二人座っている。
その前には人気図書のコーナーがあった。
「あ、この本、まだ人気あるんだ」
ウミはその棚に近づいていく。
「この本も」
昔読んだことがあるのだろう。いくつかの本を懐かしそうに、眺めている。
手が伸びそうになっているが、本を取ろうとはしなかった。
ウミが死んでからの5年で、残った本もあれば、廃れた本もある。
俺は、そういった実感を、おそらくはウミ以上に持ち合わせていなかった。5年を、まともに生きてなどいなかったからだ。それが、ウミの前にいると、途端に恥ずかしく思えてくる。
ウミは、悲しそうな顔をしながらも、その現実をしっかりと受け止めようとしていた。
中学生から成長していないウミと、中学生から堕落の一途を辿る俺。
それを見るのは辛くもあったが、なぜか落ち着く。
俺は、こういうワケのわからない現象に、一方的に否定されたかったのかもしれない。
反論が無駄だと分かっていれば、それなりに素直になれるものだからな。
それから、俺たちは図書館で本を読んだ。
ウミが何冊か興味を示した児童文学のうちの一冊を、最後まで。
俺がページを開いて固定して、ウミがそれを覗き見るという形で。
もちろんそれなりに時間はかかった。
俺たちは結局、一限目の授業には向かわなかった。
今までしてきたのと同じ『サボり』であるはずなのに、全くと言っていいほど虚しさを感じなかったのが不思議だ。
前向きにサボるというのも妙だが、言葉にするなら、ちょうどそんな感じだった。
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本を読み終えると俺たちは図書館から出て、学食の上の階にある、生協ショップに来た。
小さなコンビニのようなもので、しかし、学生に向けて新書や話題の小説まで揃えている。サービスカウンターでは、自動車学校の申し込みからパソコン関連の相談まで行っており、様々な面で頼りになるのがこの場所だ。
校内にコンビニ(のようなもの)があるというと、ウミが興味を示し、足を運ぶこととなったのだ。
確かに、小学校も中学校も、校内に店など無かったからな。
しかし、来たはいいものの、ウミは食べ物にも手をつけられないし、自分だけでは本も読めない。大学生向けの新書は彼女にはハードルが高いし、パソコンサポートも自動車学校も無縁だ。
それに気付いた彼女はこう言って笑う。
「そうだった、また忘れてた」
今は気丈に笑っているが、好奇心を一つ満たすたびに一つ傷を負うような現状は、やはり辛いものがあるのだろう。
俺はウミの頭を撫でてやった。
一限目も終盤に差し掛かっている時間帯だ。周囲にもいくらかの人気はある。
俺の行動は、周囲には滑稽な奇行として映るに違いない。
だが、もともと俺の中には、変人でありたいという妙な願望もあった。自意識だけが肥大化した人間にありがちな願いではあるが、とにかく俺には、意図的に周囲の裏をかこうとする悪癖がある。
その悪癖が出たのだ。
「あはは、いいって、大丈夫だって」
気恥ずかしそうに、くすぐったそうにウミは笑った。
後ろ向きなものが前向きな結果をもたらす。
それは、捻くれ者の俺にとっては、かなり嬉しい出来事だった。
前向きなものが前向きな結果を出すよりも、よっぽど難しいことだからだ。
少なくとも俺は今、この最悪の5年間を、それによって培われた唾棄すべき感性を、少しだけ笑って受け止めている。
たまには、そんなことがあったっていいじゃないか。そうだろ?
感想等、お待ちしております。