第8話 『帰省』
7月はあっという間にその姿を消した。
期末試験は想像通りに散々な結果で終わり、ただそれでも、俺はなんとか、「次こそは」と思えるようになっていた。
その間、ウミは発作を一度だけ起こした。
やはり、1日のほとんどを身動きも取れずに過ごすウミ。それを見て、俺は、早々にツキに会いに行くべきだろうかと何度も思った。
しかし、俺のスマートフォンにはツキの連絡先など記されておらず、かといって、彼の実家に電話をかける勇気もなく、時間は過ぎていった。だいたい、俺はツキの大学の場所さえ把握していないのだ。
あれだけ仲が良かったのに、今は気軽に会うことさえできない。
それが少し、悔しかった。
ただ、8月に入ってしまえば、そんな期間も終わる。
ツキは、昔から体が弱いこともあって、両親がやや過保護なところがある。
だからかは知らないが、彼は、夏休みに入るとすぐに実家に戻ってくるのだ。もちろん、それにはウミのことも影響しているのだろう。俺は数えるほどしか訪れたことはないが、ツキはかなりの頻度で、彼女の墓参りをしているらしい。
徐々に地元を離れつつある俺とは、まさに正反対だな。
それが今回は好機となるわけだ。
地元に戻ってくるならば、接触は不可能ではない。
俺は、8月に入るとすぐに、久々に地元へ戻ることにした。スーパーマーケットで軽食を買い込み、ATMで必要な分の金を引き出しと、準備にも時間を要したので、結局、最寄駅から電車に乗り込んだのは昼過ぎになった。
あの街に、俺が夜を過ごす場所はない。
いくら不登校を脱したとはいえ、一切結果を残していない以上は実家に戻ろうとは思えないし、他の友人たちとも連絡を絶っていた。近所にホテルなど存在しないため、夜を越す必要があるなら、唯一存在する漫画喫茶に長居する、ということになるだろう。
しかし俺が乗り込んだのは、昼過ぎの電車だ。
それは、尻込みしてしまう前に、ということである。
俺は、この5年で自分でも驚くほどに臆病になってしまっていたらしく、いざツキに会いに行こうと思うと、奇妙な躊躇いを覚えるようになっていた。それは、引き伸ばせば引き伸ばすほど肥大化するものに思えたので、できるだけその日の内に、街を出ておきたかったのだ。
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先月の一件でも利用した上り線を、しかし3駅目では降車せずに、電車に揺られている。
この数週間でさらに暑さを増した空気は強烈に不快だったが、電車の中はむしろ涼しさを増していた。軽く肌寒いほどだ。
隣にはウミが腰掛けていて、その膝には、やはり財布を乗せて(すり抜けたけど)いる。
最初はツキに会いたがらなかったウミだが、俺の説得を受けて、一応は納得してくれた。
これが、一層ウミを傷つける結果に終わる可能性を孕んでいることは、俺だって分かっている。でも、今回は、そういったことを考慮する必要性は一切なかった。
これは仕返しなのだから、ウミが傷つくことを恐れる必要など、無いのだ。
「ツキ、元気かな〜」
足をパタパタさせながら、ウミが言う。
「まあ、アイツなら、大丈夫だろ」
ツキのことなど何も知らないくせに、俺は安心させるような言葉を返した。
俺は、気を遣われるのは嫌いだけど、気を遣うことは大好きだからな。
だけど当然、ツキも相応に傷を負って、この5年を生きてきたことは確かだ。俺は、自分の分で精一杯で、一人で歩むことを選んだが、ツキは、最後まで俺のことを気にしてくれていたような気もする。
そう考えると結局、俺はあの時から、気を遣われる側になったのだろう。気付いていなかっただけで。
買ってきていた栄養食を一齧りした。ポロリと食べこぼしが落ちて、座席の隙間に入り込み、見えなくなった。
なんとなく、こんな感じだったんだろう、と思った。
一時間ほど電車に揺られた後、背中が停止の振動を感じる。
車内アナウンスで、終点を教える放送が流れた。
乗り換えか、と俺はウミと共に席を立つ。
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10分ほど何もない駅にて時間を潰すと、放送が流れて、特急の到着を知らせてくれた。階段を降りた先にある専用のホームから、先ほどまでの電車よりも二回りは長いそれに、乗り込んだ。
ここからは三時間ほど、乗り換えはない。
ウミは特急に乗るのも初めてらしいので、またも、足をパタパタとさせてはしゃいでいた。指定席なので、席を二人分買う必要があり、なんだか損した気分だった。
足が座席と重なって嫌なので、足を振るうのも止めてほしい。
「なんか、新幹線とは違って、おっきい電車って感じだね!」
「まあ、おっきい電車なんだけどな。ていうか、新幹線は乗ったことあるのか」
「うん、あるよ。あ、もしかしてヨウくん、乗ったことないんですか!」
思い出そうとしてみるが、確かに、新幹線に乗ったことは無いようだ。
「じゃあ、わたしの勝ち〜」
「なんでだよ」
俺はムッとして言い返した。そんなことで勝負にされても困る。
「だって、新幹線と特急だったら、新幹線の方が強そうじゃん!」
「む、それには納得できる……」
「でしょ? そゆことー」
「どういうことだよ……」
俺は反論を諦めた。こうなった以上、ウミは自分の勝利を決して譲らないだろう。
『あっち向いてホイ』で負け続きな所為か、ウミはやけに、負けず嫌いなところがあるのだ。そういうところは、俺に似ているかもしれない。
「あ、綺麗」
しばらくのんびりと、広い座席に背中を委ねていると、ウミが窓の外に目を向けて呟いた。そこには海が広がっていて、白い波を立てていた。
確かに綺麗だと思った。
その景色は、姿を変えながらも20分ほど続いた。
短時間だが、海水浴場らしき場所が覗けるときもあり、その時は、両親とウミと行った海水浴の思い出が湧き上がってきた。思わず、もう一度行きたいと思ってしまう。
そういえば、教授が言うには、相談者の中には、成仏させる気でいながら、結局最後まで未練の解消を果たそうとしなかった人もいたらしい。成仏して欲しいと願いながら、そのための行動を取ることができなかったのだ。
その人たちの気持ちも、わかる気がした。
海の景色を抜けると、山に入った。
山を抜けると、やや都会的な街並みが見えるようになった。
それが終わると、辺りは徐々に牧歌的な雰囲気を帯びるようになった。
そのあたりで、アナウンスとともに特急が停車する。
気がつけば三時間が過ぎ、乗り換えの時間がきたようだ。
ここからは、森が深まっていくだけの景色が、一時間ほど続く。
そして、それが開けた時、少しだけ覗ける小さな街が、俺とウミの故郷だ。
時間は午後6時を回っている。
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停車時はキイイイイィイと鳴き、運転時はギシギシと鳴る、錆が目立つ頼りない電車を降りると、辺りはすっかり夕陽に呑まれていた。
駅に自動改札は無く、ボロボロの窓口に一人、駅員がいた。老人だ。彼に切符を渡して、駅を出る。
「はああ、懐かし、い?」
ウミが感嘆の声を上げようとして、首を傾げた。
「どうしよう」と慌て始める。
「なにが?」
「なんか、懐かしいって感じもあって、でも、わたしが意識を取り戻したのってつい最近のことだから、全然5年ぶりって感じでは無くて…………」
「まあ、懐かしいでいいんじゃないか?」
「そうかな」
「たぶん」
「じゃあ、懐かしい!」
改めて、ウミは感嘆の声を上げる。
本当に久しぶりに、ウミが街に戻ってきた。
街のほうが、「懐かしい!」と叫びたい気分だろうな。
俺たちは、駅に背を向けて、街を歩き始める。ここから、ツキの家があるところまでは、それでも30分ほどかかるのだが。となると、辿り着くまでに7時は過ぎることになってしまう。
まあ、今日は会えなくても仕方ないか。
明日が勝負だな。
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ツキの家の周辺に到着した。が、その頃にはもう、すっかり日は落ちてしまっていた。しばらく探索したのだが、やはり路地には人気はなく、ツキも現れることはなさそうだった。
俺は、街唯一の娯楽施設である、漫画喫茶に足を向けた。
店舗は古く、並んだ漫画の趣味も悪く、そのくせ料金は割高という、田舎を舐めすぎているんじゃないかと不安になるような店だが、今回は有難く利用しようと思う。
店に入ると、タバコの匂いが鼻をついて、俺はタバコの匂いが大嫌いなのだが、それでも懐かしさに頬が緩みそうになった。街唯一の娯楽施設ということで、俺も何度か訪れたことがあるのだ。
しかしウミは初めてだったようで、キョロキョロと辺りを観察していた。
ウミがそうしている間に、俺は料金を支払った。そして、階段を上って、二階のやや広い個室席を目指した。ウミは、踊り場に出たあたりで気が付いて、追いかけてきた。
広い個室席を利用するのは初めてだった。広い分料金も上がるが、機能としては、従来の個室席とそう大差はない。ただ、従来の個室席は、二人で入るには狭いのだ。
二階の右奥の部屋に入ると、俺はソファにぐったりと横たわった。せっかく広いのだから精一杯利用しよう。
けどやっぱり、夜中の漫画喫茶に泊まるなら、狭い個室が一番だなと思った。あの狭くて暗い空間は、けれど、友人の家に泊まるよりも魅力あるものだと思う。なぜなんだろうか。
いや、この数年、友人の家に泊まったことなんて無いんだけどさ。
しばらく体の力を抜くと、漫画棚から数冊のマンガ本を抜き取ってきた。
ページを開くと、背中側からウミが覗き込んでくる。
表情にはやや疲れが見えていたが、マンガには興味津々なようだ。
俺はウミに見えやすいように角度を調整しながら、ページを、気持ちゆっくりとめくるようにした。
夜の帳が下りて、街の物音がほとんどなくなっても、部屋の中は無言の時間で満たされていた。
二人で過ごす漫画喫茶の夜も、なんだ、悪くないじゃないか、と俺は思った。
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昨日は、静かにゆっくりと眠りに落ちていたようだ。
しかし、深い眠りだった。
朝、9時に店を出ると、スーパーマーケットで買っておいた栄養食品(特売価格だった)を齧りながら、街を歩いた。今日こそ、ツキを見つけ出そうと思う。
今日も見つからなければ、ツキの実家を訪ねる羽目になる。
それは嫌だった。
ツキの家の前に到着すると、塀を背にして、張り込む。この時間なら、間違いなく家にいるのだ。それならば、出てくるところを捕まえるのが最も容易い。
朝の時間は瞬く間に過ぎ去って、昼間になった。
ただ、朝から栄養食品を度々食しているからか、腹はそこそこ満たされている。
もうしばらく待ってみようと思った。
陽が傾き始めても、ツキが出てくる気配はなかった。
張り込みに疲労した俺は、近所の公園に移動して、ベンチに座り込んだ。
ウミも、幽霊のくせに、足をさすったりしている。
「ツキ、いないね」
「そうだな……やっぱり、家を訪ねるしかないか」
「うーん……」
鬼ごっこなどで遊んでいた子供達が公園を去り、さらに時間が経っても、俺たちはベンチに腰掛けていた。
陽光は徐々に掠れてきていた。
そんな時である。
「あ」
公園の向かい側、金網の向こうの坂に、一人の人影が浮かび上がった。
最初、俺はぼーっとそれを見ていた。この数年の不健康な生活で、視力も低下しているのだ。ただ、ウミはすぐに気付いた。
「ツキだ!」
言って、まっすぐ指をさす。その声には、隠しきれない感動があった。
俺は、数年ぶりに、親友の姿を目にする。遠目からは、あまり変わりないように見えた。細身で、いかにも気の弱い優男といった風貌だ。
服装は大人びたものに変容していて、歩き方は軽やかである。
さて、ツキが現れたなら、あとは俺の出番だな。
ツキにはウミが見えないだろう。でも、俺が仲介役になれば、二人の会話は実現できる。
俺が立ち上がって公園の金網に近寄ると、坂を上ってくるツキも、こちらの姿を認めた。
そして、その服装が似合わないほどに、必死になって駆け寄ってくる。
公園に入ってきたツキは、興奮冷めやらぬ表情で言った。
「ヨウくん、ヨウくんじゃないか!」
よかった。
どうやら、案外変わっていないようだ。
彼の接しやすい雰囲気は、緊張で凝り固まっていた俺の心を、少しだけ解してくれた。
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