竜の写本の物語 :報われない鳥の見る夢
「竜の写本の物語」のPR短編となります。
本編に記載はありませんが、イリダルは淡い水色の髪をした、人間が思う天使らしい綺麗な青年です。
「イリダル、新しい汽車が参りますよ」
雪原を切り裂くように汽車が走ってくる。
振りさばく煙は銀水晶、時折車窓には奇妙な姿の乗客の姿が見えた。
「向こう側で厄介な商売が横行しているようですね。写本の蒐集家が増えるとは世も末だ」
隣に降り立った苔羽は、黒い瞳に微かな焦燥感を覗かせる。
若いが優秀な部下で、珍しい苔色の風切羽がその呼び名の由来だ。
基本的に、鳥の羽は全て白く瞳は黒い。
確かに由々しき事態だろう。
何しろ、向こう側とこちら側を繋ぐ線路はこの1本限り。
汽車の行き来は1日に片道が1本走るだけ。
けれどもそこから、時間だけは持て余している向こう側の貴族たちが入り込んでくるのだ。
まったくもって、困ったコレクター達なのである。
「本来、この汽車を使うのは、王命でこちらや向こう側に行くものの往復のみ。そう制定されていた筈なんだけれどな」
呆れが滲むイリダルの呟きに、
苔羽が苦く笑う。
「ここは元々、竜があちら側に戻れるように、王が作った道ですからね」
向こう側とこちら側は、本来交わることのない別々の国だった。
こちら側の人間達は、向こう側の国の存在をそもそも知らない。
それを覆したのは、数百年前に向こう側に訪れた、一人の魔法使いだった。
「僕達が文句を言うのは今更なんだろうねぇ。だって、あの魔法使いを連れ込んでしまったのは、僕達、鳥だから」
“鳥”
そうイリダル達に新しい名前を与えたのは、魔法使いだ。
今も瞼の裏で回り廻る、舞踏会の夜。
あの魔法使いは、向こう側の貴族達に愉快な名前をつけた。
とある、女公爵を鸚鵡。
宰相は梟、宮廷画家は鹿。
騎士団長は狼。
衛兵を鳥。
中でも、美しく魔法を持つという猫の名前は奪い合いとなり、色を変える瞳と魔法を持つ者達は競って猫と名乗った。
あの竜もまた、自分を猫だと自慢げに笑ってはしゃいでいた。
新しい名前を与えられなかったのは、さしもの魔法使いも膝を屈した二人の王だけ。
だからイリダルは、王座の向こう側の二人の、静謐な退屈を思う。
彼等が心を沿わせた友人であった竜はやがて、魔法使いが持ち込んだ、こちら側を覗く望遠鏡に夢中になって王宮を去った。
目まぐるしく心のままに動く人間達の、なんと愉快でいとけないことか!
自由奔放な竜が夢中になるのも、当然のことなのだ。
そう身内贔屓になるのも仕方あるまい。
あの無垢な生き物達は皆、鳥の愛し子。
こちら側で管理者として働く鳥達は、人間という生き物に深い愛情を傾けている。
やがて竜は、人間の少女を伴侶に迎え、そして伴侶の死と共に、こちら側への循環へと欠け落ちた。
やがて竜が戻ると信じ、この線路を引いた王の願いを道連れにして。
「そもそも、写本とは欠け残りの物語。前歴の記憶を残した、回収するべき人間です。そんなものに希少価値を見出して、蒐集するなど悪趣味にも程がある」
「けれど苔羽、確かに写本は美しいよ。魂が複雑な色合いになるし、心もまた複雑な織りになるからね」
「また、そんなお戯れを!あなたのような階位持ちの管理者まで、酔狂なことを言わないで下さい」
「はいはい。ほら、汽車が駅に着くよ。蒐集家が入り込んでいたら、排除しなければ。情報では、伯爵位の梟が密入国しようとしている筈だから」
鳥は元々、王宮の衛兵だった一族だ。
魔法使いの越境を許した咎により、未開の辺境、すなわちこちら側の管理者として追放された。
けれどもそれから千年も経てば、こちら側の管轄は鳥のものとなって久しい。
育ちゆく人間達の教典には、数々の鳥が指導者として描かれている。
曰く天使や、神などと呼ばれながら。
イリダル自身も例に漏れず、人間の建築や絵画にその姿を残されていた。
大きな翼を広げて打ち、遠い記憶の露を払う。
昔のことばかりを思い出すのは、恐らく自分が随分と老いたからだろう。
人間に置き換えれば青年の姿だが、もう千年には満たない程の時間を生きてきた。
後方車両に向かう苔羽と別れ、目当ての窓をこつこつと手の甲で叩く。
百年程前に現役を退き、滅多に一般業務に関わらないイリダルがここに来た理由、1年ぶりに会うかつての主人の姿がそこにあった。
「やぁ、イリダル。相変わらず、鳥は白い翼に黒い瞳か。面白みのない一族だな」
先頭車両の優雅なボックス席に座っていたのは、王族にしか許されない漆黒の装いの美しい男だ。
鳥の中でも高階位のイリダルですら、慣れない背筋の冷ややかさを覚える、こちら側の最大の特異点。
13年前にこちら側に現れ、あの大災厄を引き起こした張本人だ。
「やはり降りないんですね、あなたは。降りないくせに、こちら側の駅に入るこの汽車に、いつも乗っている」
「やれやれ、降りれば人の国を滅ぼすつもりかと口煩いくせに」
「当たり前ですよ。こちら側は脆く未熟な国です。あなた達の魔力には耐えられない。狼一匹が入り込んだ所為で引き起こされた嵐程度でも厄介なことなのに、あなたは国一つ壊してしまった」
「俺の写本はどうしてる?」
「…………っ、」
一番聞かれたくないことを飄々と口にされ、イリダルは眉を顰める。
座ったままの男は、にやりと唇の端を歪めて笑った。
遠くから庇護を与え見守るだけだった彼の写本を、最近とうとう保護してしまったことを知っているらしい。
姿は変えているのだが、さすがに勘がいい。
「あれは俺のものだ。余計な色をつけるなよ?」
こちら側の南洋の色に似た、鮮やかで澄明な青緑の瞳には、弄う口調に不似合いな鋭さが閃く。
そうだ。
あの子供を、生まれたその朝から見出していたのは彼だった。
あの美しい子供の最初の誕生日に、彼女の国を壊して、揺りかごから取り上げたのは彼だった。
「そんなに大切なら、連れ帰っては如何ですか?最近は、こちら側にも高位のものが入り込み始めた。あの子はとびきりの写本ですから、目に止める者も多い」
「お前のように?」
「そうかも知れませんね」
答えてはみたけれど、きっと男はイリダルが自分を裏切らないことを知ってるのだろう。
イリダルは、王宮勤めのあの頃を知っている古い鳥だ。
新しい国の支配階級の一人となっても、かつての主人を裏切ることは出来ない。
『せんせい!』
そう笑って扉を開けてくれるのは、すらりとした肢体の美しい少女だ。
まだ子供の域を出ない年齢だが、大人になれば目の覚めるような美人になるだろう。
彼の屋敷にはいつも、心を震わせるピアノの旋律が流れている。
彼女は最高のピアニストだ。
そうなるように音楽を説いたのはイリダルで、流浪にも似た興行の旅が蒐集家達からの逃亡生活だと、あの子は知らない。
『せんせいの音楽は、瞼を濡らす雨垂れのよう』
微笑む、可愛い可愛い弟子。
イリダルが庇護する、特別な子供。
そして、写本の特等である、特別に危うい魂。
「あなたに会えなくて、あの子は寂しいのでしょう。聡明な子だから、口にはしませんけれど」
生まれてから10年を共に暮らし、こちら側に与える影響の深刻さに彼が仕事を口実に姿を消してから、もう3年。
「連絡はとっているさ」
彼の手にはいつも、不似合いなこちら側の文明の利器、魔法を使った小さな連絡端末がある。
これで毎晩言葉を交わし、それでも足りないと言うように文通までしている。
あの子にとってのこの男は、滅多に会えない大好きな保護者なのだろう。
そう考えるとほっとした。
今のところは。
「僕も随分と長く生きました。こちら側はね、あまり我々でも長くは生きられない、そんな土地です。僕の羽が枯れれば、あの子は一人ぼっちになってしまう」
他の鳥たちは知らせていないが、せいぜい残り数年の猶予だろう。
自分の生に未練はなくても、あの子に会えなくなると思えば、胸が引き裂かれるようだ。
「ピアニストになったのは、あの男の面影を追っているからだろうな」
ぽつりと呟いた男が、やれやれと目を眇める。
イリダルと彼を惹きつけて止まない少女には、真っ直ぐな憧憬の眼差しごと魂を捕える一人の男がいた。
ずっと昔、王にこの線路を引かせた、あの奔放で美しい最後の竜。
「哀れな子です」
そう。
彼女は哀れで美しい少女だった。
特等の写本で、だからこそ彼女に欠け残った前歴の物語は特別なもので、それ故に彼女は、自分の前歴の魂に恋をしている。
まだ子供でいることが許される年齢だというのに、彼女に欠け残った記憶が、あの子を不本意にも大人びた子供にしてしまった。
けれど、どれだけ愛しても叶わぬ恋なのだ。
もう、あの竜の魂は、彼女のものとして生まれ変わってしまっているのだから。
しかし、そのことはイリダルにある種の溜飲を下げさせた。
間違いなく最後まで寄り添えない自分と、きっと竜に囚われたままの可愛い弟子。
イリダルがどうしても手に入れられないように、目の前の男もまだ、あの子には届かない。
「でも、だからこそ僕は、生きている間に、あの子があなたに奪われるのを見ずに済む」
不敬を承知でそう告げると、彼は淡く微笑んだ。
「せいぜい、残された時間を堪能するがいいさ。因みに、お前等の獲物とは別で、4号車に高位の鹿が乗っているぞ。先に転がしておいたから、停車中に目を醒ますことはないだろう。赤毛だ」
「…………助かります」
目を閉じて一礼すると、虫は早めに駆除するに限るからなと返された。
爵位持ちともなれば、こちら側に竜の写本があると知っている可能性がある。
彼もそれなりに苦労しているようだ。
有能な苔羽が見付けているだろうが、まだ若い鳥には荷が重いかも知れず、そろそろ合流してやった方がいい。
「それから、来月の夏至祭では、あいつを夜の花焚きに連れてってやれ。随分と行きたがってたからな」
背中に向けてそんな注文をつけられて、イリダルは溜息をひとつ吐く。
「僕は武闘派ではないんですよ。夜は、狼や梟の領域。あの子を危険に晒したくはないんですけれどね」
ばさりと翼を広げ、その場を離れた。
気持ちを切り替えれば、忠実に職務を全うする鳥達の羽ばたきが聞こえる。
夏至祭までには、こっそり頼んでおいた白いドレスが届くだろう。
言われるまでもなく、最初からイリダルはあの子を花焚きに連れて行ってやるつもりだった。
会えない保護者気取りより、あの子の側にいるのは師匠でもある自分の方だ。
だから、今だけは。
今だけは時々、愚かな夢を見る。
竜の物語を卒業したあの子が、
麗しい女性に育ち、イリダルに微笑みかける。
それはそれは美しい、甘やかな夢だった。