前編
気が付くと、目の前が真っ白な霧で包まれていた。
「ん?……んんん?」
私は鼻をひくつかせて、その独特の匂いを嗅ぐ。
「……これは硫黄の匂い?」
温泉地特有の匂いがする。
「じゃあ、これはもしかして、湯気?」
足は土と砂利を踏んでいる感触がある。すぐ側には、背が高い木が立っているのが見えた。
その時、冷たい風が吹き、私の視界を奪っていた湯気が払われた。
目の前に現れたのは、露天風呂だった。
石で造られた湯舟、木で作られた東屋のような屋根、そして、湯船につかるドラゴン達……
「んん?」
「い、キャー‼覗き痴漢へんたーい‼」
やたら可愛い声で悲鳴を上げて、ドラゴンの一匹が私に向けて岩を投げつけて来た。
私の右耳を掠めるように飛んできたその岩は、私の後ろに生えていた木にぶつかり、めり込んで止まった。
「……………」
私は全身からぶわりと嫌な汗が噴き出るのを感じ、目の前の鱗まみれの両生類もどきが、幻でも何でもないことに気付いた。
ついでに、かなりの力持ち。
「きゃああああ‼」
「あっち行ってよバカ―‼」
「覗きよ!お店の人呼んでー‼」
悲鳴だけは可愛らしいが、ぶんぶんと投げつけられる岩の雨は、一つでもぶつかれば、私の命を奪い取ってしまうくらい危険だ。
私は、必死になって、その場から逃げ出した。
逃げている途中で、私は何者かに捕まり、ロープでぐるぐる巻きにされた。
そのまま、明るい建物の中に担ぎ込まれた。
「こいつが痴漢?」
「なによ、人間じゃない。しかも女の子」
「こいつ以外には誰もいませんでしたよ」
私はミノムシ状態のままで、なんとか顔を起こし、頭上で私を見下ろしながら話をしている三人を見上げた。
その三人は私と同じ人間……のような気がする。
ひとまず、頭は一つで、胴体に手足がついていて、服を着ていて、髪の毛がある。
一人は褐色の肌の女性。
後の二人は男性。一人は金髪、もう一人は黒髪。
「……あの……ここはどこでしょうか?」
私は恐る恐る聞いてみた。
「ここ?ここは温泉よ。私の経営する温泉館よ」
褐色の肌の女性が答えてくれた。
「温泉?どうしてドラゴンが温泉に入っているんですか?」
「そりゃあ、今月はドラゴン専用だもの」
「…………」
褐色の肌の目の大きな温泉経営者さんは、言外に、この世にドラゴンがいることを肯定した。
「へえ~……それじゃあ、オーク専用の月とか、河童専用の月とかあるんですか?」
「あるよ」
今度は、私をぐるぐる巻きにしてここに連れて来た、金髪のお兄さんがオークと河童の存在を肯定した。
「君、どうして、覗きなんかしたの?」
三人目の黒髪の目の細い作務衣を来た男の人が、しゃがんで私と目線を合わせて聞いてきた。
「……私、知らなかったんです。露天風呂があるなんて……」
「ふーん……」
褐色の肌の女性が、疑わしいという目で私を見た。
「本当です!私、ドラゴンの裸なんか見たくありません!」
「いや、そりゃあ、そうでしょうよ。んなもん見たがる人間の女はいないでしょう」
女性は呆れたようにそう言った。
「でも、ドラゴンの鱗やら毛やらを欲しがる変態はいるのよね」
「わたし、そんなものに興奮するような趣味ありません‼」
「……鱗は高価な防具になるし、毛は丈夫な服に使えるんだよ」
細目の作務衣君が苦笑して言った。
「……そうなの?」
「そうなの」
女性と金髪君は私のこのセリフで、顔を見合わせた。
「本当に、知らないであそこにいたの?」
「はい!そうです!」
「なんで?」
「分かりません。気付いたらあの森にいたんです!」
「……あなた、名前は?」
「篠宮樹!25歳です!」
「年は聞いてないけれど……シノミヤイツキ?変わった名前ね」
「変わっているのはあなた達の方でしょう!どうして、ドラゴンや河童やオークの存在を自然に肯定しているんですか⁉ 私の常識で言ったら、そいつらは伝説の生き物ですよ⁉」
私のこの言葉で、三人はまたもや顔を見合わせる。
「ねえ、あんたもしかして、異世界の人?」
「そんな気はしています!ここは私のいた世界ではない気がします!私はこの世界に移動してしまったんじゃないでしょうか⁉ ドラゴンと河童とオークのいる世界に‼」
「……ゴブリンとかピクシーとかもいるけど……」
「やっぱり‼」
私は頭を抱えて叫んだ。
その数十分後、私は「コモナー温泉館」という名前入りの作務衣を着て、頭にほっかむりを被って、さっきの露天風呂に来ていた。
「お前なんでそんなに切り替え速いんだ?」
この温泉館のスタッフルックでブラシを持って立つ私を見て、金髪のお兄さんが言った。
「ぐずぐず悩んだって仕方がないじゃないですか、それよりも真っ先に仕事と家を見つけられたことに感謝ですよ、先輩」
私は、けろりとした顔でそう言った。言葉は通じるし、コミュニケーションはできるんだから、わからないことは聞けばいい。
そう思ったら、すっと落ち着き、その場で店長にここで働かせてくれと頼み込んだのだ。
一瞬頭に浮かんだ「ドッキリ!」的な考えは、温泉宿の外にたむろしていたドラゴンの大群を見て吹っ飛んだ。
背丈は一番小さいドラゴンでも2メートルはあったし、「気持ちよかったねー」とか「痴漢じゃなかったんだって」といった会話をしながら飛んで帰って行く姿は本当の生物だった。着ぐるみでも高性能の3D映像でもない。おまけに私は3D用の眼鏡なんかかけていない。
「まあ、ぐずぐず泣かれるよりはましだけどな。しっかし……またもや派手にやってくれたなこりゃあ……」
金髪先輩はドラゴン達が暴れた露天風呂の残骸を見て、うんざりしたように呟いた。
「またって……前にも覗き騒ぎがあったんですか?」
「覗きとは違うんだけどな……あーあ、また修理だな、こりゃ……」
ドラゴン達が暴れたおかげで、壁や天井の一部が崩れている。
床に爪痕が残り、屋根が崩れている。
しかし、不思議なことに、湯をためる役割をしている岩だけは、特に壊れていない。
「んじゃあ、とりあえず残骸を集めてくれ。使える部分は使うと思うから、そのままで」
「はーい」
私は軽い木から集めだした。
「先輩、これどこかに集めときます?」
「木は外にあるドラム缶に入れてくれ。薪にする。小石は森に捨てろ。大きいやつはそこの隅に溜めておいてくれ」
先輩の指示通りに、私は木くずを拾い、小石を森の中に投げ、大きい岩は転がして露天風呂の隅にまとめた。
「そんじゃあ、ここはもうすることがないから、今度は内風呂の掃除だ。そろそろ湯が抜けた頃だろう」
「はーい」
私は掃除道具を手に、内風呂へ向かう。片づけの時は危ないからと履いていた靴を脱いで、裸足になる。
露天風呂に来る途中で見たが、ドラゴンが入るだけあって、内風呂も大きい。
「このブラシでこすればいいですか?」
「ああ……あ、ちょっと待て‼」
「え?痛ったああ⁉」
私はお湯の無くなった風呂穴に降りた途端、何かを踏んずけてものすごい痛みを感じた。
「ばか!ドラゴンの鱗があちこちに落ちているんだよ、そんなもん裸足で踏んづけたら怪我するに決まってんだろうが‼」
「先に言ってくださいよー‼」
「あ、そっか。お前知らないんだっけか……」
金髪先輩は私を引っ張り上げてくれた。
「ええとな、ドラゴンが入った後は鱗やら体毛やら体液やらが落ちているから……」
「体液?え?血みたいなものですか?」
「血じゃなくて、汗みたいなもんだ。人間でいうと」
「へえ~。その体液も危険なんですか?」
「危険だ。すっごい滑るんだよ、踏むと壁までノンストップで滑るから、気をつけろよ」
「…………回避する方法は?」
「無い。避けろ。踏むな」
先輩は簡潔にそう言って、革のブーツをくれた。
「いいか、まずこの熊手で鱗と毛を集めてくれ。俺はその後を追って岩を磨くから……」
先輩の教えられたとおりに、ドラゴンの鱗やら毛やらを熊手で集める。熊手は石製で重い。
風呂の中には、沢山の鱗が落ちていた。形も大きさも様々だった。薄くて透明なものや、色づいているものもある。
「先輩、大きいのが大人のドラゴンのもので、小さいのは子供のドラゴンの物ですか?」
「あー……とも限らないらしいぞ。体の部位で鱗の大小があるらしいから」
「へえ……色は個体差あるんですか?」
「そうだな。子供のドラゴンは結構色のバラエティに富んでいるぞ。大人になると落ち着く」
「へー……うわ、これなんですか?」
「あーそれ爪だ。気をつけろよ、下手に触ると怪我するぞ。熊手も切れちまうからこれ使ってあっちに持っていってくれ」
先輩に渡された革の手袋をつけ、私は私の腕の半分の長さがある爪を、脱衣所まで運んだ。
その後も、爪やら牙やら宝玉までも転がっており、大変だった。
「これどうするんですか?売るんですか?」
「持ち主に返す」
「返すんですか⁉」
「想像してみろよイツキ。お前が風呂に入った後、掃除人たちがお前の体毛やら体液やらを集めて……」
「わかりました、それ以上は言わないでください。あと、私の体液は水と一緒に流れますので」
「たとえだよ、たとえ。うちの風呂はそういう意味でお客さんから信用されているんだ。ドラゴンや人魚なんかは、体毛や鱗が高値で売れるからな。でも、嫌だろう?そういうの。それが嫌で温泉に行けないってお客さんはうちに来てくれるんだよ」
「……なる程ですねえ……」
私は集めた鱗の山を見て、納得した。
その日、私は露店風呂の片づけを手伝い、内風呂の掃除を片づけ、簡単な食事を貰い床についた。
(ご飯と寝る場所……異世界に来て真っ先に手に入れられてよかった……)
たとえ、眠る場所が従業員の休憩室の隅っこでも、全然有難い。下手したら最初に着いた森の中で野宿だ。サバイバルの知識も無い私に、それはレベルが高すぎる。
しかし……
(これはいったいどういう現象かしら?)
考えても仕方ないとわかってはいても、考えずにはいられない。
館長のエミリアさんも、金髪のライアン先輩も、黒髪作務衣のデュークさんもその原因を知らなかった。ただ、異世界からのお客は時々来るらしい。不思議なことに。
子供の頃に読んだ小説だと、異世界に召喚されるのは大抵勇者か救世主だ。
最近は一旦死んで蘇ったのが異世界という設定がポピュラーな気がするが、私は死んでもいないし、ここには悪のドラゴンや悪の魔法使いはいなさそうだ。
みんな温泉入って、仲良くしているし……
私はそこまで考えたところで、眠気に襲われた。
興奮して眠れないかと思ったが、どうやら体はたっぷり疲れているらしい。
私は温泉の匂いを嗅ぎながら、眠りに落ちた。