後編
駅員のアナウンスの声と共に、ホームに列車が入る。由宇が乗る予定だった新幹線だ。
けれど、そこに由宇は居なかった。
「で。どうすりゃいいんだ、俺」
勢い良く改札口から飛び出した由宇だったが、駅前で早速途方に暮れている。
そもそも、どうやって朝のあのカフェに行ったら良いのかが、分からない。
「えーと、何番のバスだ? つか、バス停どれだよ」
駅前は、流石に都会だ。行き交う人も車も多い。バスの数も例外ではなく、行き先に合わせて、いくつものバス停が並んでいる。
由宇は、困ったように頭を抱えた。
「参ったな。あそこが何処なのかも、わかんねえ。せめて住所……」
──と、ここである事を、思い出す。
「そうだ。レシート」
由宇は、ズボンのポケットに入れていた財布を取り出した。
別れ話があったカフェで、最終的にお金を払ったのは、由宇だ。カフェで貰ったレシートは、財布の中に入れた記憶がある。
「あった!」
由宇は見つけ出したレシートを、食い入るように見つめた。そこには、店の名前と電話番号が書いてある。
これで、大丈夫。すかさず携帯電話を取り出すと、早速その店に電話を掛けた。
「もしもし。すみませんが、其方への行き方を、教えてください」
辺りは、既に真っ暗になっていた。
街灯も少ない海岸沿いは、一人で歩くには少し、心細いような気がした。
タクシーを降りた由宇は、既に閉店になってしまっているカフェの前で、周囲を見回す。
「うん。何にも見えねえ」
結局、この場所まで来るバスは、既に最終便が出た後で、最寄りのバス停からタクシーを使うしかなかった。
多少の出費は、この際仕方がない。引き返すつもりなど、無かったのだから。
「良いんだよな。この道で」
由宇は、半信半疑のまま、海岸沿いを歩き出す。
すると、朝はわからなかった小さな花屋が見えた。丁度、閉店の時間なのだろう。店頭の花を片付ける、年配の女性が見えた。
由宇は、その店へ駆け寄る。
「すみません」
「はい。いらっしゃい」
由宇の声に、女性がお決まりの台詞と共に振り返る。
「あ、いや。その」
「……?……何か用かい?」
「えと、女の子見ませんでしたか? この位の髪の長さの」
由宇は、身振り手振りで、何とか朱里の事を説明する。
すると
「ああ、朱里ちゃんかい? もう随分前に、此処を出て行ったけどねえ」
「朱里を知ってるんですか!」
「そりゃあ……。あんた、朱里ちゃんのなんだい?」
「……あ、ええと」
由宇は、何故か睨みつけられてしまった花屋の女性に苦笑しつつ、頭を掻いた。
「遠距離って、そう言う事かよ。遠すぎるだろ」
由宇は、花屋を出ると、海岸沿いの坂道を真っ直ぐ上がっていく。道は、間違っていない。目指すは幽霊が出る予定の、例の崖だ。
花屋の女性の話によると、朱里の彼氏は二年前、暴走してカーブを曲がりきれなかった車に同乗していて、車ごと崖の手前から、海へ転落したらしい。
それ以来、朱里は毎月あの花屋で花を買って、この崖にやって来ていたという。
「それからだよ。崖に幽霊が出るって、噂が立ったのは。夜遅くは、危険だからやめなさいって言っても、あの子は聞かなくてね。幽霊の正体は、間違いなく朱里ちゃんだよ」
「そう、だったんですか」
「まあ、朱里ちゃんが、大学進学で地元を離れたから、段々とこっちにくる回数は、減ってるんだけどね。そのうち、幽霊騒ぎも収まると良いけど」
そう言いながら笑うその人は、何処か寂しげな眼差しをしていた。
「朱里」
離れた街灯の光が、切り立った崖を淡く照らす。
その場所に、朱里は居た。
花を供えたまましゃがみ込んでいた朱里は、その声に、驚いたように振り返る。
「由宇?」
大きく瞳を開きながら、立ち上がる。
けれど、ずっとしゃがみ込んでいたからか、足が痺れていた。
途端に大きく身体が揺らめく。
「あぶな……っ!」
由宇が慌てて朱里に駆け寄り、朱里を抱き寄せた。
「どうして?」
朱里は、帰ったはずの由宇が目の前にいる事が、理解出来なかった。目の前の由宇の姿に茫然とする。
由宇は、腕の中の朱里に小さく息を吐き
「お前。今、彼氏が居るなんて、嘘だろ。さっき花屋でお前のこと聞いた」
「なあに? 私に興味津々?」
「はぐらかすな」
「ほら。やっぱり、優しい人。……自殺するかもって、思った?」
朱里は、何処か怒ったような表情の由宇に柔らかく笑みを。
「今日は、彼氏の命日なの。二年前、飲み会の帰りにね。友達の運転で、この道を通った時に……」
「いいよ、もう聞いたから。朝の電話って、法事かなんかだろ」
「お。御明察。由宇って、勘が鋭いね。朝、法事の前に、こっちに来ようと思って、来たんだけどね。結局法事は、サボっちゃった」
朱里は、楽しげに小さく舌を出す。
由宇は、ハア、と、大きく肩を落とし。
「あのな。大事な用なら、そっち優先しとけよ」
「駄目よ。あの時大事だったのは、由宇だもん。生きてる人の方が、大事。私達は、後回しで良いの」
「私達って。お前は、生きてるだろ」
その言葉に、朱里は由宇の胸を押して、由宇から、身体を離した。
「朱里?」
「私ね。幽霊なんだって」
「……ああ、あの噂か。まあ暗い中、車で此処通って、崖に人影が見えたら、幽霊かもって思うよな」
「本当に、幽霊になれたらいいのに」
「──おい」
その言葉に、由宇は朱里を、睨みつけた。
朱里は肩を竦めながら、クルリと反転。由宇に背を向けた。
「不思議なんだよねえ。ずっと一緒だって、言ったのに。どうして私だけ、此処にいるんだろ」
「…………」
「心も身体も、全部。彼のものなんだけどなあ」
そう言って、酷く寂しげに笑う。そのまま、姿が消えてしまいそうだった。
「──いい加減にしろ」
由宇は、一歩大きく踏み出し、朱里の腕を捕まえ、自身の顔を、朱里に大きく近付けた。
その目線の近さに、朱里が大きく瞬く。
「二年経ったんだろ? いつまで、そうやって立ち止まってるつもりなんだ。お前は、生きてるんだぞ。歩き出せよ!」
由宇の大きな声が響く。けれど、朱里はその言葉に大きく首を振った。
「歩けないよ。私達、終わったわけじゃない。由宇みたいに、ちゃんとさよなら言われたわけじゃない。綺麗に、終われてない」
「バカか。別れ方に、綺麗なものなんて、あるわけないだろ」
「由宇」
「どんな別れ方だって、大なり小なり、誰かしら何かしらが、傷付いてる。綺麗な終わりなんて、何処にもない。今日の俺だって、そうだ。俺はお前が居たから、浅い傷で済んだけどな」
由宇はそう言うと、真っ直ぐに朱里を見つめた。
どうして、会ったばかりの彼女に、こんなに一生懸命なんだろう。だけど、どうしても放っておけない。
由宇は、言葉を続ける。
「だから、お前も終わらせろ。今日、今すぐ終わりにするんだ」
「そんなの、急に言われても」
「別れはいつも急にやってくる。前触れがある方が珍しいだろ」
由宇の強い眼差し。強引な言葉。有無を言わせないような口調。
朱里は、戸惑うように眼差しを揺らした。
「だって、どうしたら良いの? わかんないよ」
「簡単だ。俺を好きになれ」
「……はい?」
由宇の真剣な眼差し。
けれど、告げられた言葉が、あまりにも意外で。
一瞬、時が止まる。
朱里は、素っ頓狂な声を、上げてしまった。
「何それ」
「そいつの事を、忘れろとは言わない。だけど、思い出として振り返られる位、俺を好きになればいい。どうだ。名案だろ」
「何、言ってるの? 私達、会ったばかりよ。お互い何も知らないじゃない」
「いいや。俺は、お前を知ってる。捨てられた俺が泣かないように、自分の用事を放ったらかしにしてまで、一日付き合ってくれた優しい奴だ」
「…………」
「俺の心をいじめるなって、庇ってもくれたよな」
「それは……っ」
「お前も、俺を知ってるだろ」
由宇は、朱里の両肩に自身の両手を置き、朱里を覗き込む。
「言えよ」
朱里は、向けられる由宇の真っ直ぐなまなざしに、戸惑うように瞳を揺らした。
やがて、観念したように口を開く。
「……強引に連れ回したのに、チケット代払ってくれた人」
「それから?」
「振られたのに、彼女を、責めない。辛かったんだって、理解してあげられる人」
「それから?」
「会ったばかりの私を、心配して、此処まで追いかけて……」
「…………」
「……バカ」
「バカはどっちだ。お前が、俺を連れ回さなきゃ、こんな事にならなかったんだぞ」
「ひどっ。まるで、私が悪者みたいじゃない」
「そうだ。お前が、悪い」
「はあぁ?」
由宇は、朱里の非難の声を、ものともせず大きく頷く。
朱里は、開いた口が塞がらなかった。
「由宇がこんなに強引な奴だなんて、思わなかったわ……」
「……ああ、まあ。我ながら、俺も驚くな」
普段の由宇は、物静かなタイプの人間だ。良く考えて行動する方でもある。だから、こんな風に、衝動的に何かするような事も無い。……本来は。
「まあ。もう、そんな事、どうでもいいや」
由宇は、大きく息を吐くと、再び朱里を抱き締める。
息が届くほどの距離の中、朱里の耳元に、声を届けた。
「俺は、今日此処で、終わった。お前も今、此処で終わりだ」
「…………」
「此処から、二人で始めよう。良いだろ?」
朱里の身体が、震えている。由宇の言葉に、返事は無かった。けれど、大きく頷き、由宇の胸元に顔を埋めた。それが、答えだ。
由宇は、朱里の背中を、ポンポンと優しく叩き
「静かに、泣くんだな」
そう言って、抱き締める腕に、力を込める。
遠く見上げた空は、星が鳴り響くかのように、一面に、広がっていた。
「よお! お前、遠恋の彼女と、別れたんだって?」
教室に響き渡る声。由宇は、うんざりした様に顔を上げた。
「何処でそれを」
「高校の時の同級生の彼女の友達から、聞いた。地元の情報網なめんなよ。あの子、可愛かったよなあ」
からかうような弾む声。こんな時は、県外の大学に進学すればよかったと、由宇はつくづく思う。
由宇は深く息を吐いた。
連休明け。休みボケの訛った身体を、無理やりに動かしながら、校内を歩く学生達を、横目に見つめる。
──あいつも、何処かでこんな風にしているのだろうか──
あの後、最終の新幹線に間に合った由宇は、朱里に見送られながら、あの場所を離れた。
電話番号の交換はしたものの、それから特に連絡を取る事も無く……連休はあっという間に過ぎていった。
また、いつもの日常だ。
「なあ。なんか、見慣れない学生多くないか?」
お昼時の学生食堂。
いつものように、日替わり定食を食べていると、先程由宇の破局情報を流した友達が、やってくる。
「ああ、今日から教養課程終えた二年生が、こっちのキャンパス入ってくるんじゃなかったか?」
「そうだっけ。なるほど、俺らも去年こんな風に、見られてたんだな」
「まあ、そうだろうな」
「なんか、新鮮味があるよな。どっか、可愛い子いねえかな」
そう言いながら、キョロキョロ辺りを見回す友達は、無視。
由宇は、着々と定食の中身を、胃袋に放り込んでいく。
「お前も探せよ。振られたばっかだろ?」
「いいよ俺は」
「お。振られたショックから、まだ抜け出せねえか」
「そんなんじゃねえし」
程なくして、由宇は食事を終える。未だ周囲に視線を彷徨わせる友達を、一瞥した。
「お! めっちゃ綺麗な子見つけた。俺、ちょっと声掛けてくるわ」
妙にテンションの上がった声。
由宇は、思わず彼が見つめた視線の先を追いかけた。
「──!──」
由宇の瞳が大きく見開く。
その様子に、友達は気付いていないのか、酷く上機嫌で動き出す。
その足を、由宇が止めた。
「彼女は、駄目だ」
そう言って、立ち上がる由宇。
「へ? なんで」
突然足を止められた友達は、訳が分からないといったふうに、首を傾げる。
由宇は、その友達には視線を向けず、歩き出した。
たった一つ。捨て台詞を残して。
「俺の彼女」
「は?」
その言葉に、友達は唖然とする。当然だろう。つい先程破局情報を流したのは、彼だ。由宇の背中に、慌てて言葉を投げる。
「ちょっと待て。いつから……っ」
その声は、由宇には届いていなかっただろう。人混みをかき分けながら、着実にその距離を縮めていく。真っ直ぐな眼差し。彼女の他は、何も見えないかのような。
由宇は、声を掛ける。
「朱里」
「……え?」
その声に、反射的に振り向く──朱里。
次の瞬間、その瞳が、驚いたように大きく見開く。
由宇は、柔らかな笑みを、朱里に向けた────。