前篇
──あそこの崖……出るんだって──
──何が?──
──ゆうれい──
「付き合ってる人が、居るの」
それはあまりにも突然な言葉で。
思ってもみなかった言葉で。
青年は、口に近づけようとしていたコーヒーカップを持つ手を、途中で止めてしまった。
「え、何それ。浮気?……二股?」
青年は、コーヒーカップをテーブルに戻す。
テーブルを挟んだ向かいの女性は、申し訳なさげに、表情を隠すように俯いた。
それは、早朝の海岸沿いにある、小さなカフェ。此処のモーニングメニューが美味しいという評判があるから、わざわざ他に何もないような辺境の場所に来た。
と、いう訳ではない。
青年が連休を利用して、遠距離恋愛中の彼女にサプライズで会いに来たら、彼女の車で此処まで連れて来られたのだ。
そして青年は、彼女からの思わぬサプライズ告白を、受けている。
「ごめん、言い出せなくて。だって、離れてると寂しいんだもん。不安だし……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げると胸の前で両手を合わせた。上目遣いで青年を見つめながら、その大きな瞳を潤ませる。
いわゆる童顔で、可愛らしい印象を与える彼女。あごのラインでゆらゆらと揺れる、緩やかな栗色の巻き髪が、彼女の表情を更に幼く見せた。
青年は、いまだ頭の整理がつかない様子で、眼前の彼女を見つめたまま、半ば呆然としていた。
そんな青年の様子を気遣いつつも、彼女は他に気になる事があるようで。
ソワソワしながら、携帯を見つめ
「私、これから彼とデートなの。もう行くね。ホントに、ごめん」
慌てた様にそう言うと、立ち上がり、逃げるようにその場を立ち去った。
青年は、茫然としたまま彼女を目線で見送る。
……カラン……
扉が開く鈴の音が、店内に響く。
辺境の海岸沿いにあるこんな小さなカフェが、早朝から賑わうはずも無く、恐らく客も自分達しか居なかった筈だ。
青年は、深いため息をついて、眼差しを横に向ける。
すると
「…………」
「…………」
客が、居た。青年以外に。
ピッタリと視線が重なったその人は、去っていった彼女よりは、若干大人びて見える女性。
柔らかく流れる茶色の髪が、印象的だった。
いや、今去った彼女は童顔な上に、更に自身を幼く、可愛らしく見せようとする。彼女と、この女性を比べるのは、間違いだろう。
青年は、女性と見つめ合うこと数秒。漸く恥ずかしげに、顔を戻す。
急ぎ足でコーヒーを飲み干すと、伝票を手にして立ち上がった。
そのままレジへと、足早に歩いていく。
「有難うございました」
店員の爽やかな声を背中に聞きながら、青年は扉を開けて店の外へ。
レシートを財布の中に入れると、ズボンの尻ポケットに財布を入れ込む。
早朝だからだろうか。潮風が少し肌寒かった。
「あ」
歩き出そうと、一歩踏み出した瞬間。──思い出す。
青年は、彼女の車で、彼女の運転で此処まで来たのだ。
そして、此処は青年の馴染みの場所ではない。海岸沿いのこの道は、彼女の運転で何度か通った事はあるが、それだけだ。
確かこの道を、上へ真っ直ぐ行くと、幽霊が出るという噂がある、切り立った崖がある。
「うわ、まじかよ」
青年は途方に暮れた。その時だった。
……カラン……
扉が開く音。
青年は、振り返った。
「…………」
「…………」
彼女だ。背中の中程まである、柔らかな茶髪が、潮風に揺れる。
青年は、再び彼女と視線を重ねた。
彼女は、青年に近づくように歩みを進める。というか、青年はまだ店の前に居るのだから、何処へ行くにも青年の傍を通り過ぎるしかないのだが。
彼女は、声の届く場所まで青年の傍へと近付くと、一言。
「見てないわよ」
「いや、バレバレだろ」
青年は、思わず彼女の言葉にツッコミを。
彼女は、その場で立ち止まり、青年を見上げ
「だって、わざわざ私の目の前で話してるんだもん。聞かなくても聞こえちゃうでしょ」
ピンと人差し指を立てて、その指先で青年の胸を責めるように、小さく叩いた。
「いや、俺だってまさか、あんな話されるとは」
「……まあ、そうでしょうね」
困ったように返答する青年に、彼女は小さく肩を竦め
「で? 最後の最後に、彼氏にコーヒー奢らせた挙句、置いてけぼり?」
「何だよ。しっかり見てんじゃん」
彼女の言葉に、青年は呆れたように息を吐くと、彼女は悪戯っぽく笑った。
大人びた綺麗な顔立ちが、楽しげに変わる。
「仕方ないなあ。ちょっと待ってて」
「……は?」
彼女は、青年の問い掛けには耳を貸さず、少し離れた場所で、電話をかけ始めた。
「……ええ。はい後で……。一人で……はい……。すみません……」
どうやら、目上の誰かと話をしているようだった。時折聞こえる声が、敬語に聞こえる。
話の内容までは分からなかったが。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
話を終えたらしい彼女が、青年の場所へと戻ってくる。
けれど青年は、彼女の言葉にきょとんと首を傾げた。
「は? 何処に?」
「何処でも良いよ。行きたいところ無いの?」
「いやいや待て待て。全く話が見えない」
「だから、彼女に振られて今日一日暇になっちゃったわけでしょ? 私が付き合ってあげる」
「……はあぁ?」
「いいからいいから。行くとこ無いなら、私が決めるよ。はい、こっちこっち」
彼女の思わぬ言葉に、青年は素っ頓狂な声を上げるものの、彼女は知らん顔で、強引に青年の腕を、引っ張っていった。
「水族館?」
強引に連れて来られた場所は、出会った海沿いのカフェ近くのバス停から、バスに乗って三十分の水族館。
そのバスも辺境の場所らしく、一時間に一本しか通らない。三十分近く待って、漸く乗ったバスだ。
「そ。デートには、悪くないでしょ?」
「……まあ、良いけど」
青年は、自身の黒髪を掻き上げながら、歩き出す。
彼女は、楽しげに少し先を歩いていた。
此処に来るまでの時間、少しだけお互いの話をした。
青年の名前は、早乙女由宇。二一歳の、大学三年生だ。
彼女は、小鳥遊朱里。青年より一つ年下の二十歳で、大学二年生だった。
青年は彼女の年齢を聞いて、少し驚いた。やはり大人びて見えるのだ。
「失礼ね。老けてるって言いたいの?」
「いや、そう言う訳じゃ」
彼女……朱里は、青年……由宇の言葉に、プクッと頬を膨らませた。こういう仕草は、表情と裏腹に幼く見える。
由宇は、そのギャップに少し困惑した。
水族館の入口付近に来ると、由宇が朱里を追い越して窓口へ。当たり前のように、二人分の入園チケットを購入する。
それを見た朱里は、驚いたように由宇に駆け寄った。
「ちょっと待ってよ。私が連れ回してるんだから、私が払うべきでしょ」
「バス代は、お前が払っただろ?」
「当然でしょ。私が連れ回してるんだもん」
「気にすんな。こういう時は、男が払うもんだ」
「そんな法律ありません」
「いいから。甘えとけって」
「もう……」
朱里の抗議の声を、由宇は軽くあしらう。年下だという事が分かったからか、少し余裕が出てきたのだろう。片手で拳骨を作ると、朱里の頭を軽く小突いた。
朱里は、照れたのか……拗ねたのか。よく分からない表情で、頬を染めた。
その表情に、由宇は小さく笑う。
──入った途端、青の世界だった。出迎えたのは、水のトンネルで泳ぐ魚達。
由宇の……朱里の表情が、輝く。
イルカやアザラシが、個別に展示されている場所もあれば、ヒトデやウニなどが実際に触れる場所もある。
朱里が恐る恐る指先をヒトデに近づけていく後ろで、由宇が背中を押した。
朱里の身体が、大きく震える。
「──もうっ!」
驚いた朱里が、由宇の胸元をポカポカと叩く。
由宇は、楽しげに笑っていた。
サメやエイが悠々と泳ぐ大水槽は、本当に一面の海だった。大軍を成して泳ぐイワシの群れが、キラキラと輝く。
朱里は、細く息を吐いた。
「水槽に囲まれた中に居ると、自分が海の底に沈んでる気がしない?」
不意の言葉に、由宇は朱里を見下ろす。
朱里は、水槽を見ているようで、何処か遠くを見るような、そんな眼差しをしていた。
同じように、由宇も水槽を見上げる。
「ああ、そうかもな」
「気持ちが、安らぐんだよねえ。嫌な事とか忘れちゃいそう」
その言葉に、由宇は再び朱里を見下ろす。先程と変わらない眼差し。
けれど、由宇はその表情に、柔らかな笑みを浮かべた。
朱里は、彼女に振られて茫然と立ち尽くした由宇の心を、軽くしようとしているのだろう。
朱里は今日、別の用事があったに違いない。此処へ来る前に電話していたのは、その用事を断ったか、或いは遅らせたか、だ。
そんなに落ち込んだ顔を、していたのだろうか。
由宇は、水槽に映る自身の顔を見つめた。
「なあに? 自分の顔なんか見ちゃって。ナルシストか」
「ばぁか。違うよ」
悪戯っぽく言葉を向ける朱里に、由宇は恥ずかしそうに顔を背けた。
「由宇は、カッコいいよ」
「……え?」
小さな声。届いたような、届かなかったような……そんな音。
朱里は、既に水槽を離れ、歩き出していた。
慌てて由宇が、追いかける。
イルカショーで二人が座った席は、プールのすぐ傍。
当然の事だが、イルカが放つ水しぶきで、二人は水浸しになる。
今日が雲一つない快晴で良かったと、由宇はしみじみ思った。
「朱里。こっち」
大きな木の幹にもたれかかっていた由宇が、レジ袋を両手に抱えた朱里を見つけ、手を振った。
その姿を見つけた朱里が、小走りで由宇の元へとやってくる。
「はい。これで足りる?」
「ああ、サンキュ」
水族館を満喫した二人は、近くの広場で遅い昼食を取ろうとしていたのだ。売店で朱里がサンドイッチと飲み物を買う間、由宇が適当な木陰を探して座り込んでいた。
柔らかく吹き抜ける風が、心地良い。
由宇は、朱里から受け取ったサンドイッチをパクパクと食べ進める。
「彼女とは長かったの?」
不意に、朱里が問い掛けた。
由宇の食べる手が止まる。
ゆっくりと隣に座る朱里を見つめると、何食わぬ顔で朱里は、サンドイッチを食べ進めていた。
由宇はペットボトルのコーヒーを、一口飲むと
「高三の最初に告白された。嫌いじゃなかったから、そこからなんとなく、かな。けど、あいつこっちの大学受験してさ。俺、地元の大学に進学したから、そこから遠距離」
「ああ、成程」
「最初の頃は、お金貯めてお互い行ったり来たりしてたんだけど、だんだんその回数も少なくなってさ」
「なんか分かる。私も遠距離だもん」
「──へ? お前、彼氏居たの?」
それは、思ってもみなかった言葉で。由宇は、朱里に驚いたように問いかけた。
「何、その意外そうな顔。居たらなんかまずいわけ?」
「いやいや、彼氏居てこんなとこ居て良いのかよ。しかも男と一緒だぜ?」
「大丈夫よ。後で会うし。ちゃんと連絡入れてるし」
朱里の返答に、由宇は朝の朱里の電話のシーンを思い出す。連絡とはあれの事だろう。
堅苦しい、敬語口調。どう見ても、恋人相手に電話してるようには、見えなかったが。
「お前の彼氏って、年上なわけ?」
「よく分かったわね。幼馴染なの。七つ年上」
「……すげえ歳の差だな」
「そう? まあだから、由宇なんか私から見たら、男のうちに入んないよ。子供子供」
「おいこら、どつくぞ」
「ええぇ? 暴力はんたぁい」
由宇の言葉に、朱里はわざとらしく頭を庇うように、片手を上げながら笑みを浮かべた。
はしゃぐようなその仕草に、由宇も小さく笑う。
「環境が変わると、人間関係も変わるしね」
昼食を食べ終えた二人は、コーヒーを飲みながら、暫く木陰の下で佇んでいた。
「そうなんだろうな。俺は地元だったから、そんな違いは無かったけど。全く最初からのあいつは、苦労したんだと思う」
「優しいんだ」
「どうかな。俺、冷たいんだと思う。あいつの事分かったふりして、大変だねって言葉だけ渡して、それ以上は何もなし。今思うと、突き放してたのかも」
「何言ってんのよ。ちゃんと、会いに来てるでしょ? 寂しい事も辛い事も、共有しようとしてるじゃない。そんなに自分をいじめないであげて?」
それは、由宇の全てを庇うような、包むような、朱里の言葉。
見つめる朱里の大人びた表情に、由宇はドキリとする。
「付き合う相手が大人だと、自分も大人になるんだな」
「どういう意味?」
「お前が、あんまり年下に見えないからさ」
「もう。また、老けてるって言うし」
「いや、ごめん。そう言う意味じゃなくって」
ガクリと肩を落とす朱里。由宇は謝罪しながら、慰めるように肩を叩いた。
水浸しになった二人の服が、程良く乾いた頃、二人は水族館を後にする。
もう夕暮れだった。
「ごめんね、こんな時間まで。帰りの切符は指定席? 時間大丈夫?」
「ああ、まだ全然余裕」
新幹線の改札口。電光掲示板に映る、列車の時刻を見ながら、由宇は朱里の言葉に頷く。
気付けば、彼女といつもの遠距離デートをした時の、帰りの時間と同じだ。
だけど、何故だろう。由宇は、いつもより早く時間が過ぎていったような気がしていた。
「お前は、大丈夫なのか?」
「平気。これから戻るよ」
「戻る? 朝のあの場所まで? めちゃめちゃ遅くなるぞ。彼氏は迎えに来ないのか」
「大丈夫よ。待ち合わせはあそこって決まってるの。まあ、実際はもう少し先なんだけどね」
「……気を付けろよ?」
「ありがと。じゃあ、私行くね。──さよなら」
朱里は、小さく手を振ると踵を返し、駅を立ち去る。
由宇は、朱里が見えなくなるまで見送ると、改札を抜けて、駅のホームへ歩き出した。
連休だからだろうか。いつも来る時より人が多いような気がする。指定席を取っておいて良かった。
由宇は小さく息を吐く。
「電話番号、聞いとくんだったかな」
ポツリと。不意にそんな呟きを。途端に頬が赤くなる。
「いやいや、ナンパじゃねえし。あいつ待ち合わせてる彼氏、居るじゃねえか」
由宇は、何かを振り切るように、頭を大きく振る。
けれど、そこで足が止まった。
「……あいつ。さっき、何て言った?」
由宇の表情が、止まる。
さっき……待ち合わせは、あそこ。もう少し、先。
「もう少し……先……?」
あの近くに、カフェ以外で待ち合わせが出来るような場所は、無い。
もう少し先って、まさか。
──あそこの崖……出るんだって──
──何が?──
──ゆうれい──
嫌な予感が、胸を掠めていく。
由宇は列車には乗らず、踵を返して走り出した──。