第五章 第三話
彼の答えを耳にした私は、まず自分の正気を疑った。
──1。
──1・414……
──2。
──1・732……
1から5までの平方根を脳内で順番に並べることで、私は自分自身が未だに正気を失った訳じゃないことを確認する。
次に私は自分の聴覚を疑い、小指を耳に突っ込んで詰まっていないのを確かめる。
……これも、問題はなかった。
──だと、すると。
そして私は、彼がふざけているのではないかと目を見開いて彼の黒い瞳を覗き込んでみる。
だけど……彼の表情からは、こちらを騙そうとするような悪戯っぽい気配も、嘘偽りを吐いて煙に巻こうとする後ろめたさも感じられない。
……どうやら、このヴォルフラム隊長は、冗談の欠片もなく本気で妹と結婚するなんて訳の分からない言葉を吐いたらしい。
そんな私の葛藤は、あからさまに顔に出ていたのだろう。
彼は軽く苦笑すると……
「俺の生まれた『卵』……まぁ、今は修復中なんだが……そこには、変な法律があるんだよ。
二親等間での結婚を許可する、ってヤツがな」
「……はぁ」
ヴォルフラム隊長の声に、私はそんな間の抜けた声を返していた。
二親等間での結婚……つまりが、祖父・祖母・兄弟姉妹に、孫との結婚が可能という訳だ。
まぁ、年齢的に考えて、祖父・祖母や孫と結婚するモノ好きはそういないだろうから、その法律は兄弟姉妹との結婚を許可するために出来た法律なのだろう。
──そんなところも、あるんだ。
……とは言え、私の生まれた『プリムラ卵』では、同性間の結婚は出来ても、三親等以内での結婚は禁じられていた。
そんな私には……彼の語る法律が、不道徳で不衛生な、気持ち悪いモノだと感じてしまう。
尤も、そんなヴォルフラム自身は同性愛に不寛容で……【眼鏡】さんに向け、「気持ち悪い」なんて堂々と毒を吐いていたのだから、お互い様なんだろうけれど。
この辺りが、人類がこの過酷な【トレジャースター】の上……『卵』という限られた生存域で暮らし続けてきた弊害なのだろう。
見事に『卵』ごとで風習・習慣・風俗どころか法律までもが異なっているのだ。
「ま、昔の……開拓時代の名残だろうな。
この【トレジャースター】は砂塵が酷く、『卵』同士の交流が殆どあり得ない。
そうなれば、結婚する男女の数が非常に少なくなってしまうからな」
隊長の声は淀みなく……つまり、彼はその法律について妙に詳しかった。
それは彼が妹と結婚することに疑問を覚えて勉強した故だろうと信じたい。
「つ、つまり、隊長は妹さんと結婚なさると?」
「あ~、と言うか、させられると言うか。
妹を預けてある祖父母が、勝手に決めていたんだよ。
……ま、断る理由もなかったからな」
結婚に対しての隊長の答えはそんな、戦場での暴れっぷりとは打って変わって酷く消極的極まりないものだった。
戦場での【死神】を見慣れている私は、彼のその消極的な態度が気に入らず……気付けば口を開いていた。
「どうして、ですかっ!
勝手に結婚相手を決められるなんて、全身全霊で立ち向かうべきことでしょうっ!」
私の抗議を聞いて、隊長は軽く肩を竦める。
その顔に機嫌を損ねた様子はなく、軽い笑みを浮かべていて……私の態度を私らしいと許容してくれている、そんな雰囲気だった。
そんな彼は、少しだけ視線を彷徨わせた後……
「前にも話だろう?
『大空襲』の日、俺は何も出来なかった」
「……はい」
軽く目を閉じ、そう告げる。
私は、ただ頷くしかない。
「あの時、俺が何かをしていれば……もしかしたら妹は、アリアは失明しなくても済んだかもしれない。
その後、遺伝子的に再生治療が適合しないという理由で、機械式の義眼をつけることを余儀なくされているアイツは……もう色恋の何もかも諦めているんだ」
不意に隊長が軍票を操作して3Dのフォトデータを虚空へと映し出していた。
そこには若い……私と同じくらいのヴォルフラム隊長の姿と、その隣に佇んでいる十歳を少し超えたくらいの、黒髪に黒い瞳をした、隊長に少しだけ似た少女が映っている。
あと、少し離れたところに映っている四十代くらいの男女の姿があって……その二人は隊長の御両親だろう。
──こんな時代も、あったんだ。
隊長が私にそのデータを見せたのは、妹の姿を見せるため、だったのだろう。
だけど私は……その少女の姿よりも、ちょっと照れくさそうに微笑む、自分と同年代の少年の姿の方に視線を奪われていた。
そこに映っている快活で明朗な……だけど無愛想を装っている雰囲気の、その少年の姿は、彼が『大空襲』で一体どれだけのモノを失ってしまったかを、私に雄弁に語りかけてくれている。
「だから、俺は……この婚約を断れなかった。
少なくとも、俺からは……」
過去の自分を見つめながらそう告げる彼の表情は、酷く複雑なものだった。
愛情、追悼、憐憫、後悔、憎悪……幾つもの感情に顔を歪める彼は、いつもよりも遥かに年若く見えて……
──ああ、これが、ヴォルフラム=ヴィルシュテッターなのか。
そこにいる『彼』こそが、歳相応の、戦争によって歪められていない、彼自身だと私は直感していた。
そして、その過去こそが、彼を戦争中毒者にしてしまった元凶でもあり、彼が狂気に呑まれる手前で現実に踏み留まらせている最後のブレーキなのだと。
「ま、それだけの話だ。
……この星じゃよくある話さ」
だけど……すぐに彼の顔はいつもの仏頂面へと変化してしまう。
やる気なさそうな瞳の奥に、凄まじい戦意を秘めた、いつもの【死神】の顔へと。
そんな彼を見た私は……何故か口を開かなければならないような義務感に捉われてしまい、少しだけ言葉を探し……
「隊長。
私の故郷である『プリムラ卵』に、結婚に対する変な法律があるのは知ってますか?」
そんな、突拍子もないことを言い始めていた。
私の意図が読めなかったのだろう。
隊長は家族の肖像を消すと……私の方をまっすぐに見つめ、首を左右に振っていた。
「知らないな。
……何の、話だ?」
家族から視線を逸らしたヴォルフラム隊長は、私の話を打ち切ることなくまっすぐにこちらを見つめ、そうして尋ねてくれた。
その事実が……私の覚悟を決める。
「私の故郷では、男性が三人まで妻を娶ることも可能なんですっ」
私のその叫びには、一切の嘘偽りは含まれていない。
何しろ、私の故郷は男女比が非常に偏っているのだ。
惑星の立地条件が悪く電磁波の密度の所為だとか、精子に含まれるY染色体を殺すウィルスがばら撒かれているとか、性発現遺伝子を殺すナノマシンが散布されているとか。
……そういう噂が飛び交うほどに、私の故郷である『プリムラ卵』の出生率は女性の方へと大きく偏っている。
その所為で、うちの故郷では『一夫多妻制』などという、人類の過渡期に存在した婚姻制度が未だに導入されていたりするのだ。
尤も……その所為で痴話喧嘩が絶えず、痴情のもつれから刃傷沙汰が半端なく多いという噂もあるのだが。
──誰だって、一番になりたいもの、だろうし。
一夫多妻制が普通にある、うちの故郷でさえもそうなのだ。
古のムービーで恋愛を学んだ私だって、彼の一番の存在になりたいと思うし、彼を独占したいとも思う。
そう、思っている筈、なのに。
「ですから、隊長、私の故郷に来て、私と結婚しませんか?
そこでなら、妹さんを共に看ることだってっ!」
気付けば私の口からは、そんな……とんでもない言葉が飛び出していた。
喋り切ってから、自分が無茶苦茶なことを……世間一般ではプロポーズと呼ばれるだろう言葉を吐き出したことに気付く。
──私は、何をっ?
その事実に気付いた私は、思わず息を呑んでいた。
脈絡も無く訳の分からない言葉を口走ったことよりも、結婚を申し込んだという事実こそがものすごく恥ずかしく……頬どころか顔中が火照るのを感じる。
恐らく、今の私の顔は真っ赤になっていることだろう。
そんな顔を彼に見せることも出来ず、私は俯いたまま……必死につま先を睨み付けていた。
そうして隊長室には沈黙が下りる。
隊長は……何も言ってくれない。
──やっぱり、ダメ、だった、のかな?
顔を上げるのが怖い。
彼の答えを聞くのが怖い。
……だけど。
このままの状態でずっと捨て置かれることにも……耐えられない。
結局、その沈黙に耐え切れなくなった私は、意を決して顔を上げる。
顔を上げたところで、隊長はどことなく困ったような顔で……
「……その、なんだ。
結婚と言っても……この戦争が終わってから、の話なんだ、がな。
まさか一年に二度もプロポーズをされるとは……」
そう呟いた。
彼のその声に……私は自分がまたしても思いっきり突っ走ってしまったのを理解して、ますます顔が赤くなるのを自覚していた。
とは言え、一度口に出した言葉は、もう二度と飲み込むことは出来ないのだ。
──そのまま……突っ走るしかないっ!
「だったら、戦争が終わってからで構いませんっ!
選択肢の一つとして、考えて頂ければっ!」
私は煮え切れない彼を押し切るかのように、勢いよく言葉を突きつけていた。
困らせているのを、戸惑わせているのを自覚しつつも……拒絶されてないのだから、脈がない、訳じゃない、と思いたい。
「それに、私たちが解雇されるまで、あと三日でしょうっ!
たった、三日後じゃないですかっ!」
「……いや、まだまだ戦争は終わらないさ。
この『卵』が無くなっても、この【トレジャースター】での戦争は続く。
それに……まず明日、生き残れるか分からないからな」
私の怒涛の攻めは、隊長によってあっさりと鎮火させられてしまう。
──そりゃ、そうだ。
……傭兵であるヴォルフラム隊長は、『へび卵砦』にただ雇われているだけの存在である。
そして、戦争中毒者の彼が……この『へび卵砦』がなくなった程度で、戦争から足を洗える筈がない。
また戦場を転々として、戦いの日々を続けるのだろう。
──って、ことは……
彼は、恐らく……妹と結婚すると口では言いながら、故郷に生きて戻るつもりなんて、殆どないのだろう。
それどころか、自分の未来すら……一顧だにしていないに違いない。
全身全霊を戦争に傾ける戦争中毒者。
それが、ヴォルフラム=ヴィルシュテッターという男性なのだから。
「……あれ?」
っと、その時だった。
不意に……私は首を傾げていた。
「……明日?」
第二機甲師団第三部隊は全員解雇され、解体される。
ふと隊長の机の上に照らされたウィンドウには、あの『歩柱』とかいう名前をつけられた、軌道エレベーターの進路予想図が乗っており……
無慈悲にも『農場』を撃破したその『歩柱』は、確実にこちらへ……この『へび卵砦』へとまっすぐに向かっているのが分かる。
そしてこの『へび卵砦』はそれを迎え撃つ準備をしておらず……恐らく上層部は降伏の手続きをしていること、だろう。
だから……私たちに出番はない、筈だった。
乗っていた『歩砲』は大破したし、そもそも整備すらろくに出来ない私たちの部隊に予備の機体がある筈もなく、他部隊の『歩砲』も先の衝突でほぼ深刻な被害を受けている。
──なのに何故、「明日、命があるかどうか分からない」なんて言葉を、彼が口走ったのだろう?
……いや。
答えなんて、考えるまでもない。
口を滑らしたことに気付いたらしき、隊長がバツの悪い表情を浮かべているのを見るだけで、答えは私の脳裏に浮かび上がっていた。
──あの『農場』を焼き払った『歩柱』という名の軌道エレベーターはこっちへ向かって来ている。
──そして、この『へび卵砦』は三日後に、あの『歩柱』に対して降伏勧告を行う予定である。
──だけど、『農場』の惨状を見る限り……あの『歩柱』が降伏を聞き入れてくれるとは思えない。
それらの条件と、そしてこのヴォルフラム=ヴィルシュテッターという人間の性格を考えれば……
「向かう、つもりなんですね。
……あの、軌道エレベーターに」
……そう。
この【死神】ヴォルフラムが……未だに焼き払われた故郷の『卵』という精神的外傷を抱えている彼が、『卵』を焼き払うような敵を、放っておく筈がない。
──つまり、今までのは演技。
私に解雇通知を手渡しで叩きつけたのも。
私の糾弾に素っ気ない素振りを見せたのも。
そして……さっきまで私に過去の話を……結婚するという逸話を聞かせてくれたことでさえも。
──徹底し切れてない、みたいだけど。
私に解雇通知を突きつけて突き放したり、妹の話を正直に話したり、まだ結婚する訳じゃないと弁解したり……
どうやら彼は人生に不器用なのか、あまり演技が上手い方じゃないらしい。
その事実に私は少しだけ微笑むと……
──覚悟を、決めた。
戦争が終わって故郷に帰ったら、彼は結婚してしまうかも知れなくても。
戦場にいる間は、相棒である私が、彼の隣にいることが出来る……と。
………だから、だろう。
「……私も、手伝います。
射撃手は、必要でしょう?」
私の口からは……自然とそんな言葉が零れていた。
そして……隊長は私の真意を問い正すかのように、私と視線をまっすぐに合わせ……
結局彼は、何も言わずにただ一つ、頷いてくれたのだった。




