第五章 第二話
「……アイツは、戦場で絶対に言っちゃいけない一言を言いやがったのさ」
まず口を開いたのは【ハゲ】さんだった。
その表情は忌々しいモノに触れてしまったような、仲間の逃れられぬ死を悼むようにも見えて……私は思わず息を呑んでいた。
その【ハゲ】さんの言葉を引き継いだのは、彼の相棒である【タンポポ】さんだ。
「だからこそ、アイツは次の戦闘で死ぬだろうと言われた。
誰も組まなくなった。
その絶対に死ぬと言われた一言の所為で……【黒狼】と呼ばれていたアイツは、いつの間にか死を運ぶ【死神】という二つ名で呼ばれるようになったんだ」
「事実……それまでアイツと組んでいた【金髪】は、新入りの【毒蛇】に背後から撃たれ、あっさりと捕虜になっちまったし、な」
彼ら二人組の言葉に、私は思わず頷いていた。
恐らく【毒蛇】ってのは、私と同じ『プリムラ卵』出身者であるジュジュのことに違いない。
同郷の先輩である彼女が隊長の相棒だった【金髪】さんを背後から撃ったという言葉は、私が聞いていた内容と一致する。
──作り話にしては、私の知っている内容と相違点が多い。
まだ顔も知らぬ【金髪】さんの逸話が出て来た時点で、【ハゲ】さんと【タンポポ】さんが語る昔話の信憑性が高まっていた。
だから、だろう。
私は……尋ねていたのだ。
「隊長は、何て言ったの?」
好奇心半分、そして……義務感半分で。
恐らくは聞かない方が良かったと思われる、その答えを尋ねていた。
とは言え……私に他の道なんてなかったのだろう。
このままヴォルフラム隊長と表面上の付き合いを続けるのならば、知らなくても良かったのかもしれない。
けれど、もう私は知りたいと思っている。
例え傷ついたとしても、彼の過去や精神的外傷をも乗り越えて、彼と共に生き……僅かでも仲が深まる方を選びたい。
いつの間にか、あのヴォルフラム=ヴィルシュテッターという男性は、私の中でそんなにも大きな存在になっていたのだ。
「聞かせて。
彼は……隊長は何と言ったの?」
私は再度、その問いを口にする。
彼の全てを受け入れるという覚悟を決め……その覚悟を彼ら二人に示すように。
……だけど。
返ってきたその答えは……多分、聞かない方が良かった答えだろう。
「アイツ、この戦争が終わったら……焼野原から復興しつつある故郷の『卵』に帰って……結婚するんだとさ」
忌々しげに【ハゲ】さんが告げたその言葉を聞いた途端、私は……自分の中で何かが砕ける音を聞いていた。
いや……聞き間違いに違いない。
もしくは、何か別の隠語かもしれない。
──結婚じゃなくて、血痕とか、そういう。
思考がまとまらない。
身体が、脳が、さっき聞いた言葉を全力で拒否しているのだろう。
そうして脳の防衛機能によって呆然自失になっている私に、非常にも【タンポポ】さんが追撃をかけてくる。
「あのバカ……その一言を告げた兵士が必ず死ぬというジンクスを、知らんかったんだろう。
だからこそ、あの一言を吐いた途端、あのバカと組む兵士はいなくなった」
「そして、それを臆病と罵るヤツなんて一人もいなかった。
……誰だって命は惜しいからな。
ヤツの隣に乗れたのは、何も知らない新入り一人って訳だ」
二人の声を、私は何処か遠い世界の出来事のように聞いていた。
だけど……いつまでも私の脳は空回りを続けてくれない。
徐々に、徐々に……彼ら二人が告げてくれた内容が、脳内へと浸透してくる。
……来てしまう。
──結婚?
──隊長が?
──だって、私にはそんなこと、一言も……
まだ二人には色々と尋ねたいことがあった。
それは「隊長のこと」と「隊長のこと」と「隊長のこと」で……そして、その事実に気付いた時、私は自分のすべきことを理解していた。
──ヴォルフラム隊長に、直接訪ねてやるっ!
そう決断すれば、後は簡単だった。
ただ衝動に突き動かされるままに、走れば良いのだ。
幸い……あまり美味しくなかったとは言え食事は終えた。
今、この身体の中には活力も栄養も気力も……何もかもが揃っている。
「お、おい。
何処へっ?」
「それ、片付けててっ!」
背後から聞こえて来た【ハゲ】さんの声に、適当な返事を返しつつ、私は食堂を飛び出す。
見慣れた廊下を突っ走り、コーナーでは掃除用ボットを急カーブのために踏み台にし、整備班の人たちを蹴散らし……
私はただひたすらに走る。
そうして隊長室が見えてきた、その時だった。
突然、隊長室のドアが……歪んで見える。
「……っ?」
歪む景色に戸惑った私は、自然と足を止めていた。
私は荒くなった息を落ち着かせながらも目を擦り……
──これ、涙?
その時初めて私は、自分の視界が滲ませていたのが、この二つの瞳から流れ出た涙だったのだと気付いていた。
「何で、こんなっ?」
自分が泣いている意味が理解出来ず、私は思わず戸惑いの声を上げていた。
隊長は確かに結婚するのかもしれない。
だけど……隊長が私に何かをした訳じゃない。
指一本触れて貰えなかった私は、乙女として決定的な何かを失った訳じゃないのだ。
──勿論、時間は無駄になったけど。
それでもこの『へび卵砦』で浪費した時間はたったの一週間程度である。
もう二十年近く生きてきた私にとっては、浪費とすら言えないほど短い時間でしかない。
……殆ど女子しかいないのに数年間も無駄な勉強に費やされた、あの暗黒の学校生活の方が、遥かに時間の無駄だったと言えるだろう。
──大体、あんな生活無能力者の、戦争中毒なんてっ!
心の中で毒づく。
そりゃ確かに隊長の外見は私の理想に近いけれど……戦争が趣味とも思えるあの生活スタイルにはついていけないし、彼と何か心躍る出来事があった訳でも、将来を約束した訳でもない。
ただ一緒に戦場に出て戦った……ただそれだけの関係なのだから。
──その筈、なのに。
何故、私の視界は未だに滲んでいるのだろう?
何故、私の胸はこんなにも重苦しいだろう。
何故、こんなにも胸が痛くて、胃が重くて……嫌な感覚が付きまとうのか。
「……もしかして」
不意に私は、これらの内臓と呼吸器の疾患の心当たりに気付いてしまう。
──私は、隊長のこと、スキ、だったのだろうか?
どこかで聞いたことがある。
……失恋というのは、こんな感じだったと。
私の故郷である『プリムラ卵』でも、失恋で泣いている同級生を見かけたことは何度もあった。
相手は必ずしも男子だけとは限らず……どちらかと言うと私自身が彼女たちを振る側だったのだけど……
──ああ、これが。
胸の痛みに手を当てて……私は納得する。
今まで同性からの告白を断り続けていたけれど、そしてその度、目の前で泣く彼女たちの気持ちが分からず、面倒臭い程度の印象しか湧かなかったけれど。
「……これは、涙も、出る、わね」
何処となく他人事のように、胸の痛みをそう評してみる。
生憎と必死に強がったつもりのその声は、今にも泣きそうな情けない声で……誰に聞かれても私が強がっているとバレてしまっていただろう。
「……あははは」
哀しさが麻痺してきて、ついでに情けなさを通り越して、今度は笑いが出て来た。
……滑稽にもほどがある。
何しろ私は、誰かを好きになったこともない癖に、誰かと結婚して幸せな未来を築こうとしていたのだ。
それどころか……その勝手な思い込みだけで、戦場にまで足を踏み入れてしまっていたのだから。
「……私って、ホント馬鹿」
私は、自嘲気味にそう呟く。
そうして一しきり泣いた所為か……それとも悲しみのどん底を通り過ぎた所為か、胸の痛みはあまり気にならず。
そうして落ち着いてくると、今度は好奇心が湧いていた。
──隊長の結婚相手って、どんな女性、だろ?
私は、振られたのだ。
……特に告白をした訳でもなければ、何かを約束した訳でもないけれど。
それでも……自分が負けた相手の情報くらいは欲しい。
──それに……
私の故郷である『プリムラ卵』でも、男女間の様々なトラブルは存在する。
……いや、普通の『卵』よりも多いと言えるだろう。
旦那を寝取ったとか、旦那が寝取られたとか、旦那が何処かに愛人を作ったとか、旦那が新しい妻を勝手に家に招き入れたとか。
つまるところ……
──どうやら私の中では、「振られた=敗北」という公式は成り立たないらしい。
それは、私の故郷の『プリムラ卵』には、幾つもの恋愛の形が存在していた所為かも知れなかった。
勿論、こじれまくった男女関係で刃傷沙汰も結構あったんだけど。
──さて。
そんな要らぬことを考えていた所為か、私の眼からもう涙は零れていなかった。
胸の痛みは……取りあえず今は感じない。
……麻痺しているだけかもしれない、けれど。
その所為か、息を大きく吸って吐くだけで、自然と覚悟は決まっていた。
私は、隊長室という名の第三部隊会議室のドアの前に立つと、少しだけ躊躇して、そのドアをノックする。
「入れ」
「……はい」
ドア越しに投げかけられた隊長の声に、私もいつも通りの声を出す。
……いや、出した、つもりだった。
そして、ノックをして返事を口にした以上、もう後戻りはできない。
目尻を拭い、息を吸って吐いて、腹の下に力を込めて気合を入れると……
「アドリア=クリスティ。
入ります」
私はそう声を出して、隊長室のドアを開く。
隊長室の、机に座ったまま何やらウィンドウ操作をしていた隊長が、顔を上げて私の顔を見た瞬間。
……彼の顔に浮かんでいたのは紛れもなく驚きと喜びの二つだった。
どうやら彼のいつもの仏頂面でも隠し切れないほど、私が戻ってきたというのは驚くべきことで……
そして、嬉しいことだったらしい。
とは言え、一瞬でその動揺はいつもの仏頂面に隠れてしまっていたが。
「隊長。
お聞きしたいことがあります」
「……何だ?
言ってみろ」
私が真剣な表情をしているのを見て、隊長は今まで作業をしていたらしき、机の上に照らし出されていたウィンドウを閉じると、まっすぐに私に向き直る。
──やっぱり、格好良い、な。
その微塵の隙もないヴォルフラム隊長の佇まいに、私は一瞬だけ見惚れてしまう。
……が、すぐに思い出す。
聞きたいことがあったからこそ、この隊長室のドアを叩いたのだと。
「……隊長っ!
戦争が終わったら、結婚するって……本当ですか?」
私の問いがあまりにも意外だったのだろう。
彼の顔には、一瞬前に浮かべたよりも遥かに大きな、隠し切れない驚きの色が浮かんでいた。
そんな彼の表情が、言葉よりも遥かに雄弁に、さっき【ハゲ】さんと【タンポポ】さんに聞かされた内容が全て事実なのだと教えてくれる。
──何で、言ってくれなかったのよっ!
彼の驚いた顔を見て、私の脳裏に浮かんだのは……そんな怒りだった。
私が『プリムラ卵』出身者であり、彼を狙って……もとい、彼に好意を抱いているのを知りつつ、戦力として使うために隠し続けていたのだと。
そんな「便利に使われた道具として怒り」が、私の中に湧き上がって来たのだ。
……だけど。
「……今さら、何を言っているんだ?」
その私の怒りは、どうやら的外れなモノだったらしい。
ヴォルフラム隊長は、本気で私の質問の意味が分からないという表情を浮かべていた。
「……は?」
「……おい。
もしかして、本気で知らなかったのか?
と言うか……男女同室でも平気で受け入れたのは、それを知っていたからだと思ったんだが?」
……その時点でようやく私は、隊長と私との間の認識の齟齬に気が付いていた。
彼が女性と同室でも平然と過ごしていた理由。
彼が『プリムラ卵』出身者の私を前にしても、酒瓶を片手に寝ていた理由。
……勿論、ヴォルフラム隊長が無頓着な性格をしていることもあるし、彼はそうしないと眠れない上に、気配を感じれば飛び起きる体質の所為もあるだろう。
──だけど。
どうやら最大の理由は、彼自信が「故郷に帰れば結婚する」からこそ、私との同居生活に一切意識を向けず、そして彼自身が私のターゲットになり得ないと知っていたからこそ、私の前でも平気で酔い潰れることが出来たのだろう。
──勿論、完全に油断していた訳じゃないとは思うけど。
私はそんな彼の態度をつれないと腹を立て、やきもきし、自分の色気について悩み……さらには、酔い潰れている彼の姿に畏怖していた、ということらしい。
……間が抜けていること、この上ない。
と、そうしてため息を吐いたところで、私はまだ聞きたいことを聞いていないことを思い出していた。
野次馬根性の賜物ではあるけれど……一度気になったものは仕方ないだろう。
「で、隊長。
その結婚する相手って、どんな女性なんですか?」
私は、意を決して尋ねてみる。
この眼前の……戦争中毒の男を射止めたのは、一体どんな女性なのかと。
……だけど。
その問いに返ってきたのは、あまりにも信じがたい一言だった。
「あ~、前に言っていたアリア……その、妹、なんだがな」
「……はいぃぃいいいいいいいいいいっ?」
言い辛そうにそっぽを向いて、それでも正直に告げられたその答えに、私の口からは自然と奇声が零れ出ていたのだった。




