第四章 第一話
「……少しは使えるようになって来たな」
今日の『へび卵砦』は敵襲もなく平和で、その分、みっちりと訓練でしごかれた後の夜。
ワインをグラス一杯、一気に傾けたヴォルフラム隊長は、開口一番にそう呟いた。
「ほ、本当ですか?」
突然の【死神】隊長の声に、私の口からはそんな叫びが零れ出ていた。
だって彼に褒められたことなんて……私が赴任してきてからのこの一週間でも、数えるほどしかない。
普段愛想の欠片もない彼だからこそ、こういう些細な筈のことが特別に感じられてしまう。
「もう少し正確な射撃が欲しいところだな。
……反応は良いんだが、先読みがまだまだ甘い」
勿論、ただ褒めるだけでなく、ちゃんと小言付きではあったけれど。
その一言に軽く意気消沈させられた私は、ちょっとだけ意趣返しをしてみようなんて思いついてしまった。
ソファに身体を預けたままの彼の、その前にあるワインボトルを手に取ると……
「反省しています。
さぁ、もう一杯どうぞ」
私はそう言いながらヴォルフラム隊長の隣に腰掛けると、空になった彼のグラスにワインを注いでみたのだ。
……そう。
──そうやって意地悪言うなら、ちょっと酔わせてやるんだから。
そんな、ちょっとした悪戯を私が思いついても、誰も責めやしないだろう。
実際、彼は私の態度を少しだけ怪訝そうに眺めたものの……
「……ああ、頼む」
酒という彼最大の弱点には抗えなかったらしい。
あっさりと私の策略に堕ち、ワインを次々へと飲み干していく。
──あんなに呑んだら……
──でも、今日はもう何もないみたいだから、良いのかな?
実のところ、私が思っていたよりも遥かに「傭兵稼業」というものは暇なものだったのだ。
毎日叩き込まれる『歩砲』の操縦訓練と、銃器を的に当てる訓練、そして足腰・呼吸器が鈍らないようにと基地内の訓練室で走り回る程度である。
正直に言わせてもらうと……私は一日の内、六分の一も働いていない。
勿論、訓練はかなり厳しく……ヴォルフラム隊長が付き合ってくれてなければ、さっさと音を上げているレベルの苦行だったのだが。
──私って、思ったよりも単純だなぁ。
故郷を逃げ出してきた私も、結局のところ、色恋のためなら労苦を惜しまないという『プリムラ卵』出身者の典型だったらしい。
その事実を失望半分、呆れ半分という心持ちで私は受け止めていた。
兎に角、そういう訳で……傭兵をやっている私たちは、訓練を終えた後はこうして酒を呑む以外にやることがないのである。
──私は呑むつもり、ないんだけど。
年齢的なこともあるけど、アルコールによって判断能力を失った所為で、男性の前で醜態を晒す真似だけは避けたかった。
だからこそ、酒も飲まない私は暇で暇で仕方なく、こんな……隊長を酔い潰してやろうなんて悪戯を思いつく余裕があったのだ。
「っと、注がれるばかりじゃ悪いな。
お前も呑むか?」
「……へ?」
だけど、藪を突っついても良いことはないらしく……見事に毒蛇が飛び出て来た。
ヴォルフラム隊長は手元のワインを飲み干すと、そのグラスをそのまま私の方へと突き出してきたのだ。
「えっと……その、私、アルコール類は……」
前述の理由でアルコールの類を避けてきた私は、彼が差し出して来たワイングラスを受け取ることを、少しだけ躊躇してしまう。
と言いつつも、私の眼はそのワイングラス……いや、グラスの縁の、彼が唇をつけたところから離れない。
──間接、キス。
異性が少ない私の故郷での、数少ない少女たちの娯楽の一つであるその誘惑に、私はほぼ完全に屈していた。
それでも抗って見せたのは……姉やママが口を揃えて「やらかした」と愚痴っていた記憶から、自分だけは泥酔して失態を犯すまいという配慮が頭の片隅にあったからである。
……だけど。
「あ?
酒が呑めないヤツなんざ、戦場に必要ないぞ?」
そんな【死神】ヴォルフラム隊長の冷たい一言に、私の躊躇いはあっさりと蹴散らされる。
と言うか、既に彼はワインをボトル一本空けていて……どうやら珍しく少しばかり酔っているらしい。
「では、一口……」
酔っ払いに逆らえる訳もなく、私は彼の差し出すがままにその赤黒いというか赤紫というか、不気味な色の液体に口をつける。
──何、コレ?
一言で言うと……変な味というのがワインという液体の感想だった。
呑めないことはないんだけど、美味しいとも思わないと言うか……妙に渋みというか、癖がある液体で、呑んだ後には幽かに咽喉と胃を中心に身体中に熱気が広がっていく。
「っと、つまみはその辺にあるだろう。
食いたければ食え」
「えっと、これ……ですね」
隊長の声に、私は部屋の片隅に置いてあるバッグを開く。
中には缶詰や密封されたナッツ類など、日持ちのするつまみが常備されている。
……生活無能力者の彼は、こうして常に酒の友を大量に抱え込んでいる。
──部屋が汚れる訳だわ。
こうして大量のつまみを、大量の酒と共に食い荒らし、眠るまでそれを続けるのだから……部屋が真っ当な状況を保てる筈もない。
「しかし、相変わらず不味いな、コレ。
もうちょいとマシなフードメーカーの予算を要求しないと、な」
「……くれると良いんですけどねぇ」
ビーフジャーキーを齧りながらの隊長の声に、私は適当に相槌を打つ。
酒が入る度に彼のこの台詞を聞かされるのだ。
幾ら隊長の声が好きだと言っても……こう何度も何度も同じ言葉を聞かされたら、流石に飽きてくる。
ちなみに軍が配備している、空気と水などの元素から合成食料を生み出すフードメーカーは……口が裂けても美味しいとは言えない出来の料理しか作らない。
それもその筈……我々第二装甲師団に配備されているフードメーカーは、予算の都合とかで、大人数用の中では最も安価な品らしい。
だからこそ、もうちょっと高価なヤツを買えば、少しくらいは美味しくなるのに……と、隊長はいつも愚痴っている訳だ。
「ったく。
上の連中は、俺たちが栄養素だけで生きていると思ってやがる」
ちなみに隊長はそう言うけれど、この【トレジャースター】にある『卵』の殆どでは食料品なんて科学合成品以外にはあり得ない。
……例外があるとすれば、『農場』だけだろう。
「そう考えると『農場』で働くのも悪くなさそうですねぇ」
私の口からそんな……軍からの離反を暗示するような、迂闊な言葉が飛び出したのは、間違いなくアルコールの所為だろう。
思わず自分の発言に私は青くなるが……一度口に出した言葉を、なかったことに出来る筈もない。
……だけど。
「……あ~、確かにな~」
ヴォルフラム隊長も酔っているらしく、私の発言にただ適当な相槌を打つだけだった。
と言うよりも、私がいつ裏切っても不思議じゃないと、未だに思っている所為かもしれないけれど。
──それはそれでイヤだなぁ。
ポジティブに考えれば、私となら『農場』での生活も悪くない……なんて考えてくれている、と考えられないこともない訳だけど。
……ワイングラスの中の液体を寝惚け眼で眺める彼の横顔を見る限り、そういう期待を持っても虚しいだけだろう。
「あ~、今日はもう寝るか。
……どうせもうやることもない」
不意に隊長はそう呟いたかと思うと、グラスの中に残っていたワインを一気に飲み干し……そのままソファに突っ伏して動かなくなる。
……これもいつものことだった。
彼は限界までアルコールを呑み、限界を超えるとこうして周囲の状況に関わらずに眠ってしまう。
と言うよりも……彼はこうしないと眠れない、らしい。
……だけど。
「風邪、引きますよ?」
私にもアルコールが入っている所為、だろう。
ソファに横たわった彼の姿を見て、どう考えても身体に悪そうだと思った私は、ベッドの上にある毛布を彼の身体にかけてあげようと……
普段しないことをしてしまったのだ。
その瞬間、だった。
彼は毛布を跳ね除けたかと思うと、私は腕を引き寄せられて、そのまま押し倒され……
その彼の手の中には、いつの間に引き抜いたのか拳銃が握られていて……
「……ぁ?」
その銃口は私の眉間へと突きつけられている。
彼の動きは早過ぎて……何かを考える暇すらなかった。
押し倒されたことに喜ぶ暇も、自分の命を一瞬で奪ってしまう武器を突きつけられていることに恐怖する暇すらも。
そうして、彼の指が引き金を引き絞るべく幽かに動き……
「……何だ、お前か。
悪い、寝惚けた」
次の瞬間、隊長のそんな声と共に、私は彼の身体の下から解放されていた。
まだ呆然としたままの私の前で、彼はその一言だけを残すと、毛布に見向きもしないでそのまま目を閉じる。
──なに、それ。
その彼の動きを間近で見せつけられ……私は今更ながらに気付かされた。
──彼は、寝ていないんだ。
アルコールをあれだけ呑んで、イビキをかいて目を閉じている。
だけど……彼は、寝ていない。
幾ら眠っているように見えても、寝ていないのだ。
……いや、『眠れない』のだろう。
こうして一緒に暮らしている私を……いや、ひょっとしたら同じ部隊にいる人間の誰一人として信用していないんじゃないだろうか?
いつ戦争が起こっても良いように、いつ敵が侵入してきて良いように、頭の片隅が常に起きたままでいる、そういう生き方しか出来ないらしい。
だからこそ……酒が入らないと眠ることすら出来ない、いや、こうして眠るフリすらも酒の力を借りないと出来ないのだ。
一体、どういう経験をすれば、こんな風な生き方が出来るようになるのやら。
「……片付け、ようっと」
結局。
色々と考えながら彼の寝顔を見ていた私は、思考を放棄するかのようにそう呟くと……彼から目を逸らし、掃除の続きに取りかかったのだった。




