勇者の受難
「勇者様ぁ〜!お待ちになってぇえええ!」
ドタドタという地響きとともに、甘ったるい声が追いかけてくる。確か、最初は一人だった。しかし、逃げれば逃げるほどその数は増し現在は・・・数えるのも億劫だ。
(どうしてこうなった)
連なる女性の群れ。その様は、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄、もしくは砂鉄菓子に群がる蟻だ。ほら、あれだ。どこぞの国の後宮みたいだな。ちっとも嬉しくないが。
(勘弁してくれ)
女にはあまり良い思い出がない。
足を走らせたまま、彼はがっくりと肩を落とした。彼---ライトは勇者だ。魔王を討ち倒すべく立ち上がった、正真正銘の勇者。数百年前、突如として現れ世界を絶望のどん底に陥れた魔王を倒し、世界に平和を・・・これももちろん理由の一つ。ただ、理由は他にもある。
彼の出身国、リスティリアは大陸の西の端の端にある小国。大国に挟まれ、いつ侵略されてもおかしくないこの国が現在まで生き延びているのには訳がある。
リスティリアは古くから、医療が発達してきた国。中でも薬学は近隣国に比類を見ないほど目覚しい発展を遂げた。その実績は『医者と薬はリスティアに頼め』と揶揄されるほど。
近隣の国に一定水準の医療技術を提供することで外交上優位に立ち、強力な軍隊を持たない弱国を守ってきた。
しかし。最近、とんでもない問題が発生した。近年、大人しかった魔物の動きが活発になり他国からの薬の原料の輸入が難しくなったのだ。そのおかげで、医療に必要な薬が足りなくなってきた。薬が作れない。つまり、医療体制が整わないということ。
『このままでは、我が国は終わりだ!』と父王に泣きつかれて。
少しでも自国の役に立てれば、と言うのが勇者になった本音。これが理由だ。
・・・な、はずなのに。
「どうしてこうなったんだ」
彼の身に起きた悲劇は、旅立ちの日まで遡る。
* * * *
「・・・母上、どういうおつもりですか?」
三角フラスコを片手に満足げに微笑む美女を恨めしげに睨みつけた。
むせ返るほどの甘い匂い。
すっかり体に染み付いてしまったその香りは洗ったくらいでは取れそうにない。最悪だ。頭からかぶってしまった薄桃色の液体の『効果』を知っているからこそ、彼は苦い顔をした。
魔王討伐の旅に出る。そう父王に告げて城を出たのはつい先刻。
きっと、長い旅になるから。父と絶賛別居中の母にもその旨を伝えるべく、母の経営する薬屋の門を叩いた。
何の疑いもなく門をくぐり、居室への扉を開けた---そのとき。
「あら、魔王退治なんかよりもっと大事なものがあるでしょう?」
そんな言葉を投げかけられたと同時に、甘い香りが部屋に充満した。
「久しぶりね」
白衣を着崩し、フラスコ片手に笑顔で出迎えた女性。
ああ、来るんじゃなかった。後悔したところで時すでに遅し。
母---リリカは、この国では知らない者がいないくらい有名な薬師だ。と同時に現王の妃でもある。
「ふふふ、素敵な香りでしょう?」
一応、国一番の薬師を母に持つ身。薬学についてはそれなりに勉強して、それなりに知識はあるつもりで。
「こんなもの使って、どうする気ですか?」
「決まってるじゃない。可愛い息子のためよ」
綺麗なお嬢さんとお付き合いしても、いつも二言目にはさようならの息子を心配して、と。
このピンク色の液体。
マンドラゴラの花と赤兎の目とグリフォンの爪、それから魔女の髪を使って作られた薬は端的に言えば惚れ薬。触れた相手を即座に恋に落とすほど強力な。
「余計なお世話です。それに、今の俺には魔王を倒す使命がありますから」
「剣と仕事が恋人。口を開けば仕事仕事仕事仕事!ああ、まるであの人みたいだわ」
あの人、つまり只今絶賛別居中の父のことだ。こればかりは状況が状況だし、仕方ない。王だから忙しいのは当然。
そして。父は、母が家出すると決まって、気の毒なほど落ち込むから出て行くのは辞めて頂きたい。もちろん、命が惜しいのでそんなことは言えないのだが。
「いいこと、ライト。お膳立てはしてあげたんだから、帰ってくるまでに素敵なお嬢さんを連れていらっしゃい」
それまで帰ってくるな、と。そんなお約束の言葉付きで放り出されて。こんな調子では、例え魔王を倒して帰ってきても追い返されそうな勢いだ。
・・・正直、見くびっていた。
薬なら、その内効果は切れるだろう。そう高を括っていたのに。『こんなこと』になるなんて、誰が予想しただろうか。
(魔王倒す前に、こっちがぶっ倒れそうだ)
前途多難な、勇者の旅が始まった。