下駄と水仙
物事を遂行するのに理由なんていらない。それらは要求される。体裁を整える必要のある際に。対外的に説明する必要のある場合に。それが何たるかを誰それに納得させる為に。
しかもそれが芯を食っている必要はない。的を射る、あるいは射ているように感じさせれば良いのだ。つまり、物事を遂行する「理由」と物事を遂行する理由は全く別であるということだ。
前者の「理由」は謂わばまやかしだけのもの。あってもなくても変わらないものであり、後者の理由即ちそれらは何を要請するか、されるかの方がよっぽど大事である。……大事である。
例えば、バナナを買うとしよう。前者の「理由」はまあ何でも良い。別になくても良いし、本来の用途とは全くかけ離れたもの、つまり、燕が昨日あの白い屋根のある家の軒下に巣を作ったからでも良い。隣町の冷蔵庫がるんるんと踊っているからだとか、薄暗い峠道の端っこに下駄と水仙が置いてあるのを見かけたらからだとかでも良い。まあとにかく何でも良い。いつも結局大事なのは後者なのだから。
「バナナを買ったよ〜」
「何で? 」
「カミナリの3乗引くゴーカートはヤマアラシだから」
「はっ? 」
「もちろん、食べる為だよ? 」
「……えっ? さっきなんて言った? 」
こんな具合に。バナナを買う理由は「理由」じゃなくて理由じゃないといけない。何故ならバナナを買う「理由」は理由ではないからだ。誰それ曰く。
でもこれはバナナを買う理由にはなっているけど、バナナを買う理由にはなっていない。「理由」は先付けだけど、理由は後付けだからだ。後出しジャンケンは道理に反するじゃないか。私は、バナナを買うという行為の前後の物語を知りたい訳ではない。それはどうにも嘘くさい。バナナを買うこととそれに付随するストーリーは全く別個の物だ。語り手には、現実と虚構の区別がついているのか? ストーリーは軌跡を追えるが途中で途切れてしまう。まさに「理由」のちょうど直前で。
「理由」は時間を遡れる。正確にはみょ〜んと伸びる。重たく、それでいてシンプルで、はちゃめちゃで、それでいて軽い。そして何層にも積み重なっている。detachable。バナナの方に思っきし寄りかかっておいて、それでいて独立している。依存と独立は排反ではない。しかも、ほとんどいつも! つまり何が言いたいかというと、バナナを買うには、理由なんていらないということだ。理由なんかいらない! バナナサイコー!
理由は人に説明できた方がまともな人間だとみなされる確率が上がるだろう。でも、別に説明できなかろうが、理由の方から拒絶される訳ではない。人から排斥されるだけだ。ただ、それはバナナを買うことにとって重要だろうか? そんなことを後からごにょごにょ思い出しながら、バナナを買うなんて全くナンセンスである。
確かに、バナナを買ったのは過去なのかもしれない。それでも……バナナを買うのはいつも、いつまでも現在なのだ。どんなバナナでも構やしないが、バナナは現在形なのだから! バナナを買う理由は、バナナを買うその瞬間に付随するものであって、別に人に上手いこと説明する為にある訳ではない。バナナを買う理由はバナナを買うという事象だけが把握していれば良く、バナナを買う理由と、人に説明する用のバナナを買う理由が揃っていなくちゃならないってのは愚の骨頂だと思う。それは収斂される。
バナナを買うことにとって理由は全く筋違いも良いところだということだ。バナナも憤慨しているに違いない。一体全体どうなっているんだ。立場がぐちゃぐちゃになっている。「理由」は理由を愛しているが、理由は「理由」を忌み嫌っている。もちろん、ご承知の通り、「理由」が理由に好かれる理由が1ミリもない。残念なことに、話に入れていないのだ。疎外されている。悔しい? 悔しくないわけがなかろう。でも仕方ない。これは相性の問題なのだから。それを聞いた理由の背中にどこか哀愁が漂っているのを見て何とも言えない気持ちになったのを覚えている。何の話? もちろん、バナナの話だとも。
でも、いつしか立場が逆転しているのだろう。「理由」は理由になり、理由は「理由」になれる。しかし本当に、理由はいつか「理由」なれるのだろうか? いいや、なれやしまい。これは方便だ。では何故? ……理由を知りたい? ……。
だから、私はどこでも言い続けるだろう。バナナを買うのに理由なんていらない。例えそれがただ食する為であっても、馬に跨りながら、人魚の3姉妹の後ろ姿を木陰越しに垣間見るという事象に出会う確率をやっとこさ維持する為にであっても、だ。




