捨てられた舌に味が分かるとお思いですか
「後任が決まった。お前の舌はもう要らない」
宮廷毒見筆頭フェルディナンドの言葉を、リーゼは片膝をついたまま聞いた。
「承知しました」
それだけ答えた。立ち上がり、制服の裾を払う。
「引き継ぎは3日で。記録をまとめておけ」
「記録は不要です。2300回分、すべて頭にあります」
フェルディナンドは鼻で笑った。
「便利な舌だったよ。だが、舌は古くなる。——お前の代わりなんていくらでもいる。後任のほうが若い分、長持ちするだろう」
リーゼは頭を下げた。
15の年から宮廷の食卓に立ってきた。王族の料理を1口含み、舌の上で成分を判別し、「無害です」と報告する。それだけの仕事を12年。
味を感じてはいけない。
掟の第一条。判別に味覚を混ぜれば舌が鈍る。美味いも不味いもない。ただ「有害か無害か」だけを舌に聞く。
2300回。1度も「美味しい」と思ったことがなかった。
——思えないように、訓練された。
引き継ぎの初日、後任の少女が笑った。
「先輩の舌、もう鈍ってるんでしょう? ふつう5年で駄目になるって聞きましたけど」
「駄目にならなかっただけです」
リーゼは銀の匙を渡した。
「この匙で3秒。含んだら吐き出す。飲み込むな」
「はいはい」
廊下で厨房の見習いたちが話していた。
「あの仕事の人が1人減るらしいよ」
「へえ。で、誰だっけ」
「名前は知らない。——あの子」
あの子。12年いて、名前を覚えられていない。
(2300回、有害なものを口に含みました。1度も「美味しい」と思いませんでした。——それが私の12年です)
*
3日目の昼、宮廷に辺境伯ディートリヒの使者が来た。
「辺境伯領で暗殺未遂が続いている。舌の確かな者を1名、派遣されたい」
宮廷侍従長は面倒そうに書類をめくった。
「ちょうど余りが出たところだ。使い古しだが、辺境には十分だろう」
翌朝、リーゼは荷物1つで馬車に乗った。宮廷の門を出る時、振り返らなかった。振り返る相手がいなかった。
*
辺境伯ディートリヒは、寡黙な男だった。
到着の挨拶もそこそこに、リーゼは執務室に通された。ディートリヒが暗殺未遂の経緯を説明する。毒物の種類。混入の頻度。侵入経路の推定。
深刻な話だった。
リーゼは真面目に聞いていた。聞きながら、卓上に置かれた茶杯に手を伸ばした。1口含む。3秒。
「……無害です」
ディートリヒが話を止めた。
「……今、暗殺者の話をしていたが」
「はい。お茶は無害です。続けてください」
「聞いていたのか」
「聞いておりました。ただ、3秒以上放置すると舌が落ち着かないので」
「……落ち着かない」
「職業病です。目の前に液体があると確認せずにはいられません。申し訳ありません」
ディートリヒは何か言おうとして、やめた。代わりに茶を1口飲んだ。
「——お前、俺の茶も確認したのか」
「閣下のお茶も液体ですので」
「……まあいい。食事にしよう」
食堂に案内されて、リーゼは目を疑った。辺境伯が自分で厨房に立っている。袖をまくり、大きな手で野菜を刻んでいた。
「……閣下が、料理をなさるのですか」
「ここには毒見がいない。自分で作れば、少なくとも自分の手は信用できる」
使用人は少なかった。簡素な食卓に皿が2つ。リーゼはスープを1口含んだ。3秒。
「無害です」
「それは先ほど聞いた」
「すみません。——では、いただきます」
「好き嫌いはあるか」
「有害なもの以外は何でも食べます」
「……それは好き嫌いではない。職業病だ」
「職業病は好き嫌いに含まれません」
「含まないのか」
「はい。好き嫌いとは味覚の選好です。私は判別の際に味覚を使いませんので、好き嫌いという概念がありません」
「概念がない」
「はい。美味いも不味いも分かりません」
「では仮に味覚があったとして、俺のスープは有害か無害か」
「無害です」
「それだけか」
「それが分かれば十分です。私の仕事は終わりました」
「仕事の話をしていない」
「他に何の話ですか」
ディートリヒは匙を置いた。しばらくリーゼを見ていた。
「——今から分かるようになれ」
「……は?」
「いい。食え」
*
3日目の朝食。リーゼはスープを1口含み、匙を置いた。
「閣下。この皿は召し上がらないでください」
「何が入っている」
「白粉花の根です。微量。致死量の10分の1」
ディートリヒは皿を見た。
「この量で分かるのか」
「2300回の経験がありますので」
ディートリヒは答えなかった。ただ、リーゼの報告をじっと聞いていた。
5日目。食後の茶にトリカブトの微量抽出液。ディートリヒの表情が変わった。
「——3度目だ。全部見抜いている」
「仕事ですので」
「宮廷は使い古しだと言っていた」
「閣下もそうお思いですか」
ディートリヒは窓の外を見た。何も言わなかった。
それだけで、席を立った。
6日目の朝、ディートリヒは厨房でリーゼを待っていた。
卓の上に小皿が5つ並んでいる。
「何ですか、これは」
「味の訓練だ。判別の精度を上げるには味覚の幅が要る」
「……掟の第一条で、味覚を使うことは禁じられて——」
「ここは宮廷じゃない。俺の台所だ。掟は俺が決める」
リーゼは最初の小皿を口に含んだ。3秒。
「……塩です」
「合ってる。次」
2皿目。3秒。
「塩と、何か。——分かりません」
「玉葱だ。炒めると甘くなる。もう一度」
もう一度含んだ。今度は3秒ではなく、5秒。舌の上で何かが揺れた。
「……塩ではない、何か。——名前が出てきません」
「玉葱だ。覚えておけ」
3皿目。含んだ瞬間、リーゼは顔をしかめた。
「苦い」
「ゴーヤだ。覚えたか」
「……覚えたくありません」
「嫌いか」
「これは好き嫌いかもしれません」
ディートリヒの口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
4皿目は鶏の出汁。5皿目で、リーゼの眉がわずかに動いた。
「これは——閣下が昨日お作りになったスープの」
「分かるか」
「……はい。同じ、です。塩と、玉葱と、何か——もう1つ。言葉にできません」
「ナツメグだ。明日教える」
「……閣下。これは本当に判別の精度を上げるための——」
「そうだ。他に理由はない」
背を向けたまま言った。耳は見えなかった。
翌朝も、その翌朝も、5皿が並んだ。
リーゼは少しずつ、封じたはずの機能が解けていくのを感じていた。塩の丸さ。酢の鋭さ。蜂蜜の重さ。——全部違う。全部、味がする。
ディートリヒが夕食の仕込み中に、リーゼに包丁を渡した。
「野菜を切れ」
「……私がですか」
「食べる側しか知らないだろう。作る側もやってみろ」
リーゼは人参を受け取った。切り方が分からない。ディートリヒが後ろから手を添えて、角度を直した。
「もっと薄く。火の通りが均一になる」
大きな手だった。料理で荒れた指先だった。リーゼの耳が熱くなった。
「閣下。手を、離していただけますか」
「角度が直ったら離す」
「直りました」
「まだだ」
(……絶対に直っている)
*
7日目の夕食後。ディートリヒが焼き菓子を出した。蜂蜜の色をした、小さな四角い菓子。
リーゼは1口含んだ。3秒。
「無害で——」
言葉が止まった。
舌の上で、何かが広がっていた。成分ではない。
蜂蜜と、焦がしたバターと、ほんの少しのシナモン。
——甘い。
訓練で名前を覚えた「塩」でも「苦い」でもない。封じた機能の向こうから、知らない味が押し寄せてきた。
目が熱くなった。
「……美味しい」
声に出ていた。
2300回で、1度も言ったことのない言葉が、こぼれた。
ディートリヒは何も言わなかった。
焼き菓子をもう1枚、リーゼの皿に置いた。
*
侍女のマルテは、にこにこした顔で爆弾を落とす女だった。
「奥様。旦那様のお食事を確認なさるのは、お勤めですか、お気持ちですか」
「奥様ではありません」
「お仕事の方は旦那様のお茶の温度を覚えませんし、旦那様が左利きだからお皿を右に寄せたりもいたしません」
「それは効率的な配置の——」
「旦那様のお好物を3品暗記なさっているのも効率ですか。根菜の煮込みと、黒パンと、干し肉の薄切り。——奥様、数えましたの?」
リーゼは口を閉じた。
(いつ覚えた)
「旦那様のほうはもっと分かりやすいですわ。奥様のお嫌いな食材を全部抜いていらっしゃいます。フェンネルの種。乾燥ローズマリーの穂先。クミン。1度もお出しになっていませんでしょう?」
「……何ですって」
「旦那様に確認なさったらいかがですか」
夕食の席で聞いた。
「閣下。フェンネルはお嫌いですか」
「嫌いではない」
「では、なぜ1度もお出しにならないのですか」
「お前が嫌いだからだ」
「……なぜご存知なのですか」
「以前、宮廷の晩餐に出席した。食卓の傍らに、1人の女が立っていた。誰もその女を見ていなかった」
リーゼは息を止めた。
「フェンネルの皿の時だけ、瞬きより短く眉が動いた。クミンの時に鼻の端が縮んだ。ローズマリーの穂先が載った肉の時に、吐き出す速度がわずかに上がった」
「……そんな些細な」
「他の誰も気づかなかった」
「たったそれだけのことで」
ディートリヒは答えなかった。耳だけが赤かった。
9日目。ディートリヒの書斎で暗殺者の経路を検討していた時、リーゼはディートリヒの唇に違和感を覚えた。
「閣下。口を開けてください」
「何だ急に」
「失礼します」
リーゼはディートリヒの唇の端に指を触れた。その指先を自分の舌に当てる。3秒。
「——カモミールの浸出液です。唇に残っています。煮出しすぎです。2分で十分です」
ディートリヒは石のように固まっていた。首筋まで赤い。
「……お前、今」
「成分の確認です」
「確認で人の唇を触るのか」
「触るのは日常業務です」
「……お前の日常業務の範囲が怖い」
「怖くはありません。有害物でなければ人体に影響は」
「俺の人体にはあった」
マルテが廊下でにこにこしているのが、扉の隙間から見えた。
*
10日目の夜。
暗殺者の手口が見えてきた。遅効性の配合を、少量ずつ香辛料に仕込んでいる。蓄積すれば致死量に届く。
配合を特定する方法は1つしかない。
「閣下。この香辛料を直接、舌に載せます」
「駄目だ」
「配合を特定できなければ、解毒薬を作れません」
「お前が倒れたらどうする」
「消耗品です。使い切ったら替え——」
「替えなど利かない」
ディートリヒの声が初めて荒れた。
「俺がなぜ自分で料理を作っていると思う」
リーゼは黙った。
「この領地にも、以前は毒見役がいた。——14の少年だった」
リーゼの背筋が冷えた。
「暗殺者の毒を飲んだ。検出はできた。だが致死量だった。——俺の目の前で、倒れた」
ディートリヒの声が低く、硬く、割れた。
「あれ以来、誰にも毒見はさせないと決めた。自分で作る。自分の手なら信用できる。——それでも暗殺が止まらないから、お前を呼んだ」
「閣下——」
「帰れ、リーゼ。宮廷に帰れ。ここにいたら、お前はあの少年と同じことになる」
リーゼは立ち上がった。
「……やはり、そうですか」
「何がだ」
「壊れる前に返したいのですね。——消耗品の扱いとしては、正しい判断です」
ディートリヒの顔から表情が消えた。
「違う」
「いいえ、お気になさらず。私はずっとそう扱われてきましたので」
リーゼは部屋を出た。
ディートリヒは追わなかった。
15分後、リーゼは厨房に戻った。
香辛料を舌に載せた。
3秒。苦味。辛味。——そしてトリカブトの北方変種。致死量の3分の1。
吐き出した。手が震えた。
「……特定しました。トリカブト北方変種。根の乾燥粉末。解毒にはゲンチアナの煎液です」
ディートリヒが厨房の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。
何も言わずにリーゼの肩を掴んだ。指が震えていた。
*
13日目。リーゼの分析をもとに、領地の騎士が暗殺者を捕らえた。
15日目。宮廷から使者が来た。
使者は居間で、ディートリヒとリーゼの前に跪いた。顔色が悪かった。
「申し上げます。後任のエーリカが検出に失敗し、侍従官2名が倒れました」
リーゼの指が止まった。
「——さらに、エーリカは翌日辞職を申し出ました。『先輩の精度は私には再現できません。2300回の経験がなければ、あの検出は不可能です』と」
リーゼは何も言わなかった。
「宮廷侍従長より、リーゼ殿の即時返還を——」
「断る」
ディートリヒが遮った。
「使い古しの道具を寄越したのはそちらだ。返す理由がない」
「しかし——」
前庭で声が上がった。
「うちの先生を返すなー!」
領民だった。リーゼが15日間で領地の井戸水と市場の食品を検査し、食品偽装と水質汚染を暴いたことが広まっていた。
「先生がいなくなったら水は誰が調べるんだ!」
「うちの嫁が安心して飯を食えるようになったんだぞ!」
「先生の祝言にゃ俺が肉を焼く!」
リーゼが窓から叫んだ。
「祝言の予定はありません!」
「えー!」
「旦那様がんばれー!」
ディートリヒが窓を閉めた。耳が赤かった。
使者は蒼白になって帰った。
マルテがにこにこしながら茶を運んできた。
「奥様。宮廷から『替えの利く道具を返せ』と参りましたが、旦那様が『替えなど利かない』とおっしゃっています。同じ口から出た言葉とは思えませんわね」
「誰の口ですか」
「宮廷のです。使い古しと言って手放して、今さら返せとは」
翌日、2通目の書状。筆頭フェルディナンドの名で——ではなかった。侍従長の署名だった。
「返還を拒む場合、正式な抗議を行う。なお、筆頭フェルディナンドが『使い古し』と評した者の技能は、現在の宮廷の誰にも再現できない。その責任は筆頭が負うものとする」
リーゼは書状を閉じた。——「代わりはいくらでもいる」と言ったのは、誰だったか。
「閣下。私は宮廷の所属です。お返ししなければ、閣下にご迷惑が」
「座れ」
「しかし——」
「お前は、道具か」
リーゼは答えられなかった。
12年間そう言われてきた。あの夜も、この男に「帰れ」と言われた。あの夜、自分は「消耗品の扱いとしては正しい」と言った。ディートリヒは否定しなかった。
——否定しなかった?
「閣下。あの夜、私が『消耗品だ』と申し上げた時——」
「違うと言った」
「……はい」
「言葉が足りなかった。——今から言う」
ディートリヒが立った。
「宮廷の道具は返す」
リーゼの胸が冷えた。
「——だが、リーゼという女は返さない」
「……閣下」
寡黙な男が、初めて長く話した。
「あの晩餐で見た女のことが消えなかった。2000回折れずに立ち続ける背筋が、消えなかった。——1口で効いた。何年経っても抜けない。致死量だ」
リーゼの指先が震えた。
「お前に食べてほしくて、料理の腕を磨いた。お前のために毒見のない食卓を作りたかった。——あの焼き菓子で、お前は『美味しい』と言った」
リーゼの頬を涙が伝った。
「あの一言で十分だった。だが欲が出た。明日も聞きたい。明後日も」
リーゼは泣いた。泣きながら、笑った。
「致死量です、閣下」
「何がだ」
「今のお言葉が。——私の心臓には、致死量です」
ディートリヒの手がリーゼの頬に触れた。涙を、不器用に拭った。
「解毒は」
「……できません」
「そうか。——俺もだ」
*
夜の食卓に、皿が2つ並んだ。
リーゼは匙を手に取った。
3秒——ではなく。
ゆっくりと、スープを口に含んだ。塩と、玉葱の甘さと、微かなナツメグ。
「美味しいです、閣下」
ディートリヒが目を細めた。
リーゼは2口目を掬った。
生まれて初めて——食事を、口にした。
【作者から読者様へお願いがあります】
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