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捨てられた舌に味が分かるとお思いですか

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/05

「後任が決まった。お前の舌はもう要らない」


 宮廷毒見筆頭フェルディナンドの言葉を、リーゼは片膝をついたまま聞いた。


「承知しました」


 それだけ答えた。立ち上がり、制服の裾を払う。


「引き継ぎは3日で。記録をまとめておけ」


「記録は不要です。2300回分、すべて頭にあります」


 フェルディナンドは鼻で笑った。


「便利な舌だったよ。だが、舌は古くなる。——お前の代わりなんていくらでもいる。後任のほうが若い分、長持ちするだろう」


 リーゼは頭を下げた。


 15の年から宮廷の食卓に立ってきた。王族の料理を1口含み、舌の上で成分を判別し、「無害です」と報告する。それだけの仕事を12年。


 味を感じてはいけない。

 掟の第一条。判別に味覚を混ぜれば舌が鈍る。美味いも不味いもない。ただ「有害か無害か」だけを舌に聞く。


 2300回。1度も「美味しい」と思ったことがなかった。


 ——思えないように、訓練された。


 引き継ぎの初日、後任の少女が笑った。


「先輩の舌、もう鈍ってるんでしょう? ふつう5年で駄目になるって聞きましたけど」


「駄目にならなかっただけです」


 リーゼは銀の匙を渡した。


「この匙で3秒。含んだら吐き出す。飲み込むな」


「はいはい」


 廊下で厨房の見習いたちが話していた。


「あの仕事の人が1人減るらしいよ」


「へえ。で、誰だっけ」


「名前は知らない。——あの子」


 あの子。12年いて、名前を覚えられていない。


(2300回、有害なものを口に含みました。1度も「美味しい」と思いませんでした。——それが私の12年です)


     *


 3日目の昼、宮廷に辺境伯ディートリヒの使者が来た。


「辺境伯領で暗殺未遂が続いている。舌の確かな者を1名、派遣されたい」


 宮廷侍従長は面倒そうに書類をめくった。


「ちょうど余りが出たところだ。使い古しだが、辺境には十分だろう」


 翌朝、リーゼは荷物1つで馬車に乗った。宮廷の門を出る時、振り返らなかった。振り返る相手がいなかった。


     *


 辺境伯ディートリヒは、寡黙な男だった。


 到着の挨拶もそこそこに、リーゼは執務室に通された。ディートリヒが暗殺未遂の経緯を説明する。毒物の種類。混入の頻度。侵入経路の推定。


 深刻な話だった。


 リーゼは真面目に聞いていた。聞きながら、卓上に置かれた茶杯に手を伸ばした。1口含む。3秒。


「……無害です」


 ディートリヒが話を止めた。


「……今、暗殺者の話をしていたが」


「はい。お茶は無害です。続けてください」


「聞いていたのか」


「聞いておりました。ただ、3秒以上放置すると舌が落ち着かないので」


「……落ち着かない」


「職業病です。目の前に液体があると確認せずにはいられません。申し訳ありません」


 ディートリヒは何か言おうとして、やめた。代わりに茶を1口飲んだ。


「——お前、俺の茶も確認したのか」


「閣下のお茶も液体ですので」


「……まあいい。食事にしよう」


 食堂に案内されて、リーゼは目を疑った。辺境伯が自分で厨房に立っている。袖をまくり、大きな手で野菜を刻んでいた。


「……閣下が、料理をなさるのですか」


「ここには毒見がいない。自分で作れば、少なくとも自分の手は信用できる」


 使用人は少なかった。簡素な食卓に皿が2つ。リーゼはスープを1口含んだ。3秒。


「無害です」


「それは先ほど聞いた」


「すみません。——では、いただきます」


「好き嫌いはあるか」


「有害なもの以外は何でも食べます」


「……それは好き嫌いではない。職業病だ」


「職業病は好き嫌いに含まれません」


「含まないのか」


「はい。好き嫌いとは味覚の選好です。私は判別の際に味覚を使いませんので、好き嫌いという概念がありません」


「概念がない」


「はい。美味いも不味いも分かりません」


「では仮に味覚があったとして、俺のスープは有害か無害か」


「無害です」


「それだけか」


「それが分かれば十分です。私の仕事は終わりました」


「仕事の話をしていない」


「他に何の話ですか」


 ディートリヒは匙を置いた。しばらくリーゼを見ていた。


「——今から分かるようになれ」


「……は?」


「いい。食え」


     *


 3日目の朝食。リーゼはスープを1口含み、匙を置いた。


「閣下。この皿は召し上がらないでください」


「何が入っている」


「白粉花の根です。微量。致死量の10分の1」


 ディートリヒは皿を見た。


「この量で分かるのか」


「2300回の経験がありますので」


 ディートリヒは答えなかった。ただ、リーゼの報告をじっと聞いていた。


 5日目。食後の茶にトリカブトの微量抽出液。ディートリヒの表情が変わった。


「——3度目だ。全部見抜いている」


「仕事ですので」


「宮廷は使い古しだと言っていた」


「閣下もそうお思いですか」


 ディートリヒは窓の外を見た。何も言わなかった。


 それだけで、席を立った。


 6日目の朝、ディートリヒは厨房でリーゼを待っていた。


 卓の上に小皿が5つ並んでいる。


「何ですか、これは」


「味の訓練だ。判別の精度を上げるには味覚の幅が要る」


「……掟の第一条で、味覚を使うことは禁じられて——」


「ここは宮廷じゃない。俺の台所だ。掟は俺が決める」


 リーゼは最初の小皿を口に含んだ。3秒。


「……塩です」


「合ってる。次」


 2皿目。3秒。


「塩と、何か。——分かりません」


「玉葱だ。炒めると甘くなる。もう一度」


 もう一度含んだ。今度は3秒ではなく、5秒。舌の上で何かが揺れた。


「……塩ではない、何か。——名前が出てきません」


「玉葱だ。覚えておけ」


 3皿目。含んだ瞬間、リーゼは顔をしかめた。


「苦い」


「ゴーヤだ。覚えたか」


「……覚えたくありません」


「嫌いか」


「これは好き嫌いかもしれません」


 ディートリヒの口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。


 4皿目は鶏の出汁。5皿目で、リーゼの眉がわずかに動いた。


「これは——閣下が昨日お作りになったスープの」


「分かるか」


「……はい。同じ、です。塩と、玉葱と、何か——もう1つ。言葉にできません」


「ナツメグだ。明日教える」


「……閣下。これは本当に判別の精度を上げるための——」


「そうだ。他に理由はない」


 背を向けたまま言った。耳は見えなかった。


 翌朝も、その翌朝も、5皿が並んだ。


 リーゼは少しずつ、封じたはずの機能が解けていくのを感じていた。塩の丸さ。酢の鋭さ。蜂蜜の重さ。——全部違う。全部、味がする。


 ディートリヒが夕食の仕込み中に、リーゼに包丁を渡した。


「野菜を切れ」


「……私がですか」


「食べる側しか知らないだろう。作る側もやってみろ」


 リーゼは人参を受け取った。切り方が分からない。ディートリヒが後ろから手を添えて、角度を直した。


「もっと薄く。火の通りが均一になる」


 大きな手だった。料理で荒れた指先だった。リーゼの耳が熱くなった。


「閣下。手を、離していただけますか」


「角度が直ったら離す」


「直りました」


「まだだ」


(……絶対に直っている)


     *


 7日目の夕食後。ディートリヒが焼き菓子を出した。蜂蜜の色をした、小さな四角い菓子。


 リーゼは1口含んだ。3秒。


「無害で——」


 言葉が止まった。


 舌の上で、何かが広がっていた。成分ではない。


 蜂蜜と、焦がしたバターと、ほんの少しのシナモン。


 ——甘い。


 訓練で名前を覚えた「塩」でも「苦い」でもない。封じた機能の向こうから、知らない味が押し寄せてきた。


 目が熱くなった。


「……美味しい」


 声に出ていた。


 2300回で、1度も言ったことのない言葉が、こぼれた。


 ディートリヒは何も言わなかった。


 焼き菓子をもう1枚、リーゼの皿に置いた。


     *


 侍女のマルテは、にこにこした顔で爆弾を落とす女だった。


「奥様。旦那様のお食事を確認なさるのは、お勤めですか、お気持ちですか」


「奥様ではありません」


「お仕事の方は旦那様のお茶の温度を覚えませんし、旦那様が左利きだからお皿を右に寄せたりもいたしません」


「それは効率的な配置の——」


「旦那様のお好物を3品暗記なさっているのも効率ですか。根菜の煮込みと、黒パンと、干し肉の薄切り。——奥様、数えましたの?」


 リーゼは口を閉じた。


(いつ覚えた)


「旦那様のほうはもっと分かりやすいですわ。奥様のお嫌いな食材を全部抜いていらっしゃいます。フェンネルの種。乾燥ローズマリーの穂先。クミン。1度もお出しになっていませんでしょう?」


「……何ですって」


「旦那様に確認なさったらいかがですか」


 夕食の席で聞いた。


「閣下。フェンネルはお嫌いですか」


「嫌いではない」


「では、なぜ1度もお出しにならないのですか」


「お前が嫌いだからだ」


「……なぜご存知なのですか」


「以前、宮廷の晩餐に出席した。食卓の傍らに、1人の女が立っていた。誰もその女を見ていなかった」


 リーゼは息を止めた。


「フェンネルの皿の時だけ、瞬きより短く眉が動いた。クミンの時に鼻の端が縮んだ。ローズマリーの穂先が載った肉の時に、吐き出す速度がわずかに上がった」


「……そんな些細な」


「他の誰も気づかなかった」


「たったそれだけのことで」


 ディートリヒは答えなかった。耳だけが赤かった。


 9日目。ディートリヒの書斎で暗殺者の経路を検討していた時、リーゼはディートリヒの唇に違和感を覚えた。


「閣下。口を開けてください」


「何だ急に」


「失礼します」


 リーゼはディートリヒの唇の端に指を触れた。その指先を自分の舌に当てる。3秒。


「——カモミールの浸出液です。唇に残っています。煮出しすぎです。2分で十分です」


 ディートリヒは石のように固まっていた。首筋まで赤い。


「……お前、今」


「成分の確認です」


「確認で人の唇を触るのか」


「触るのは日常業務です」


「……お前の日常業務の範囲が怖い」


「怖くはありません。有害物でなければ人体に影響は」


「俺の人体にはあった」


 マルテが廊下でにこにこしているのが、扉の隙間から見えた。


     *


 10日目の夜。


 暗殺者の手口が見えてきた。遅効性の配合を、少量ずつ香辛料に仕込んでいる。蓄積すれば致死量に届く。


 配合を特定する方法は1つしかない。


「閣下。この香辛料を直接、舌に載せます」


「駄目だ」


「配合を特定できなければ、解毒薬を作れません」


「お前が倒れたらどうする」


「消耗品です。使い切ったら替え——」


「替えなど利かない」


 ディートリヒの声が初めて荒れた。


「俺がなぜ自分で料理を作っていると思う」


 リーゼは黙った。


「この領地にも、以前は毒見役がいた。——14の少年だった」


 リーゼの背筋が冷えた。


「暗殺者の毒を飲んだ。検出はできた。だが致死量だった。——俺の目の前で、倒れた」


 ディートリヒの声が低く、硬く、割れた。


「あれ以来、誰にも毒見はさせないと決めた。自分で作る。自分の手なら信用できる。——それでも暗殺が止まらないから、お前を呼んだ」


「閣下——」


「帰れ、リーゼ。宮廷に帰れ。ここにいたら、お前はあの少年と同じことになる」


 リーゼは立ち上がった。


「……やはり、そうですか」


「何がだ」


「壊れる前に返したいのですね。——消耗品の扱いとしては、正しい判断です」


 ディートリヒの顔から表情が消えた。


「違う」


「いいえ、お気になさらず。私はずっとそう扱われてきましたので」


 リーゼは部屋を出た。


 ディートリヒは追わなかった。


 15分後、リーゼは厨房に戻った。


 香辛料を舌に載せた。


 3秒。苦味。辛味。——そしてトリカブトの北方変種。致死量の3分の1。


 吐き出した。手が震えた。


「……特定しました。トリカブト北方変種。根の乾燥粉末。解毒にはゲンチアナの煎液です」


 ディートリヒが厨房の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。


 何も言わずにリーゼの肩を掴んだ。指が震えていた。


     *


 13日目。リーゼの分析をもとに、領地の騎士が暗殺者を捕らえた。


 15日目。宮廷から使者が来た。


 使者は居間で、ディートリヒとリーゼの前に跪いた。顔色が悪かった。


「申し上げます。後任のエーリカが検出に失敗し、侍従官2名が倒れました」


 リーゼの指が止まった。


「——さらに、エーリカは翌日辞職を申し出ました。『先輩の精度は私には再現できません。2300回の経験がなければ、あの検出は不可能です』と」


 リーゼは何も言わなかった。


「宮廷侍従長より、リーゼ殿の即時返還を——」


「断る」


 ディートリヒが遮った。


「使い古しの道具を寄越したのはそちらだ。返す理由がない」


「しかし——」


 前庭で声が上がった。


「うちの先生を返すなー!」


 領民だった。リーゼが15日間で領地の井戸水と市場の食品を検査し、食品偽装と水質汚染を暴いたことが広まっていた。


「先生がいなくなったら水は誰が調べるんだ!」


「うちの嫁が安心して飯を食えるようになったんだぞ!」


「先生の祝言にゃ俺が肉を焼く!」


 リーゼが窓から叫んだ。


「祝言の予定はありません!」


「えー!」


「旦那様がんばれー!」


 ディートリヒが窓を閉めた。耳が赤かった。


 使者は蒼白になって帰った。


 マルテがにこにこしながら茶を運んできた。


「奥様。宮廷から『替えの利く道具を返せ』と参りましたが、旦那様が『替えなど利かない』とおっしゃっています。同じ口から出た言葉とは思えませんわね」


「誰の口ですか」


「宮廷のです。使い古しと言って手放して、今さら返せとは」


 翌日、2通目の書状。筆頭フェルディナンドの名で——ではなかった。侍従長の署名だった。


「返還を拒む場合、正式な抗議を行う。なお、筆頭フェルディナンドが『使い古し』と評した者の技能は、現在の宮廷の誰にも再現できない。その責任は筆頭が負うものとする」


 リーゼは書状を閉じた。——「代わりはいくらでもいる」と言ったのは、誰だったか。


「閣下。私は宮廷の所属です。お返ししなければ、閣下にご迷惑が」


「座れ」


「しかし——」


「お前は、道具か」


 リーゼは答えられなかった。


 12年間そう言われてきた。あの夜も、この男に「帰れ」と言われた。あの夜、自分は「消耗品の扱いとしては正しい」と言った。ディートリヒは否定しなかった。


 ——否定しなかった?


「閣下。あの夜、私が『消耗品だ』と申し上げた時——」


「違うと言った」


「……はい」


「言葉が足りなかった。——今から言う」


 ディートリヒが立った。


「宮廷の道具は返す」


 リーゼの胸が冷えた。


「——だが、リーゼという女は返さない」


「……閣下」


 寡黙な男が、初めて長く話した。


「あの晩餐で見た女のことが消えなかった。2000回折れずに立ち続ける背筋が、消えなかった。——1口で効いた。何年経っても抜けない。致死量だ」


 リーゼの指先が震えた。


「お前に食べてほしくて、料理の腕を磨いた。お前のために毒見のない食卓を作りたかった。——あの焼き菓子で、お前は『美味しい』と言った」


 リーゼの頬を涙が伝った。


「あの一言で十分だった。だが欲が出た。明日も聞きたい。明後日も」


 リーゼは泣いた。泣きながら、笑った。


「致死量です、閣下」


「何がだ」


「今のお言葉が。——私の心臓には、致死量です」


 ディートリヒの手がリーゼの頬に触れた。涙を、不器用に拭った。


「解毒は」


「……できません」


「そうか。——俺もだ」


     *


 夜の食卓に、皿が2つ並んだ。


 リーゼは匙を手に取った。


 3秒——ではなく。


 ゆっくりと、スープを口に含んだ。塩と、玉葱の甘さと、微かなナツメグ。


「美味しいです、閣下」


 ディートリヒが目を細めた。


 リーゼは2口目を掬った。


 生まれて初めて——食事を、口にした。


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