ことづて
黒猫はてくてくと走りだした。背の伸びた芝にたかっていた朝露が火照った体を快く冷やしてくれる。少し礼儀が悪いだろうか。ま、構いやしない。
猫は河川敷を行く女子高生の脚にすり寄って、なあ、なあ、と柔らかい声を上げる。
女の子は頬を赤くして座り込んだ。猫の頭を触り、抵抗しないのを見ると喉を転がした。猫は尚も人懐こい声で鳴く。彼女はしばし猫と戯れてから、慌てて部活動の朝練に向けて駆けだした。
猫は、広い川に掛かる真っ赤な橋を行く女子高生を見送り、河川敷の木陰で夏の日差しを味わった。たかる小虫を尾で追い払い、道行く人々の顔を眺めていると朝は終わった。
ひと眠りして目を覚ますと、川の向こう、公立高校に救急車が飛び込むシーンだった。
その日の放課後はいつも以上に賑やかで、明日からは彼らが待ち望む長期休暇が訪れるのだと、猫はげんなりした。また暇人どもにいたずらされる季節がやってきたか。毛玉を吐き出し、だがへこたれてばかりもいられない。
生徒の流れが続き、部活帰りがぽつぽつと訪れても彼は河川敷を離れなかった。夜が訪れて、去って、やっと目当ての人間はやって来た。
彼女は昨日と変わらぬ姿で同じ道に現れた。相違点は、昨日より二時間早かったことと、顔に血の気がないこと。
猫は鳴いてみた。河原にいる老人にはせせらぎよりも小さく聞こえそうな、しかし女の子には確実に届く声で。
彼女は猫の存在に気付くと、薄い笑みを湛えて河川敷を下りてきた。猫の隣、河川敷の中腹で席を並べて足を抱く。
猫は大きな両目でまじまじと、お日さまの位置が変わるほど長い間女の子を観察した。
女の子はその顔に疑問の色を見つけ、静かでか細い独白を始めた。
二学期の頭に、所属する吹奏楽部の地区大会があること。
朝練の最中に貧血で倒れたこと。
意識を失うほど重度だったので保険医が救急車を呼んだこと。
精密検査の結果急性の病気が見つかり、余命があとひと月しかないこと。
家族以外に相談できる相手がいないこと。
女の子は時折はにかみながら猫に説明した。彼は目を閉じず、ときどき他所見をしながら彼女の話に耳を傾けた。
話が終わると、女の子は道から同部の友人に呼ばれた。彼女は腹から声を出して返事をし、猫の頭を撫でてから河川敷を上った。
またね。
去り際の台詞を繰り返しながら、猫は木陰に戻った。
再会はすぐに訪れた。昼前に女の子は体調を崩し、大事を取れ、という言葉で追い返されてしまった。
この時だけは猫よりも女の子が目ざとかった。塀の上で目をつむる猫を見つけるなり、女の子は荷物を降ろして彼を捕まえた。
君はかわいいね。ほんとかわいい。連れて帰りたいよ。
猫はすぐに起きたものの抵抗するでもなく足を垂らしていた。
飼ってあげたいんだけどお母さんが苦手だからさ。ごめんね。
猫の視界は激しく揺れながら川に近づいていく。
いいよね、君は。私も猫になりたかった。誰にも、親にも会わないで、毎日をのんびりと過ごしたかったな。
声は濡れていた。
女の子は猫の顔を覗きながら河川敷を最短距離で下りていたので、ローファのつま先が川に触れた。微かな穴から風呂の残り湯のような温度の水が入り込む。靴下が湿る不快感が彼女の決意を助長した。
彼女は腕を振ると、猫を川の中腹に投げ飛ばした。
水がくぼみ、沈み、元に戻る。黒猫は青空を映す川になんとか顔だけ出し、しかし川の流れに逆らえるはずもない。
見飽きた空を見ても仕方がないので、彼は川岸の女子高生に目を向けた。
彼女の顔は、初め頬が上がっていた。しかしすぐに引き締まり、目に涙が溜まると口を抑え、猫と並行して走った。
ごめんなさい。ごめん。本当にごめんなさい。
何を今更。猫は前足を上げて見せてから川底に沈んでいった。
その夜。
のんびり屋の丸い月が川の上を通過した。
淡い明かりが猫の顔に届くと、彼は目を開けて水の壁をよじ登っていった。
河原に上がって呼吸を思い出し、月を見上げて大あくび。やれやれまたか、と全身の毛を振り払う。
ときどき自分は何者なのだろう、と考えることがある。川に投げ捨てられても、人間に石を投げつけられても、夜になると目が覚めて傷が治っている。通りかかった人間の死期が近いとわかり、それを伝えろ、と頭の中で声がする。そしてそれに逆らえない。逆らう気にもなれない。
連中は一体、おれのような猫を何と呼ぶのだろう。気になるものの、二分後には答えが出ないことに飽きてしまう。まあ関係ない、おれはこうして暇つぶしをしながらだらだら生きていけばいいや、と。
へどろの付いた顔を拭く。誰かに見られ、明日は雨か、なんて悪態を吐かれたのが遠い昔のように思える。
今晩の反応は違った。後ろからいきなり脇に手を入れられ、ぐいと持ち上げられてまじまじと見られてしまう。
犯人は昼間の彼女だった。年齢が半減したような顔をして、鼻と目から垂れた跡が月明かりに浮かび上がっていた。
よかった。本当によかった。
ごめん。本当にごめんね。
びしょ濡れの顔に抱き寄せられた。
せっかく体を乾かそうとしていたのに。
猫は爪を剥いて前足を振った。確かな手ごたえが返ってくると、女の子は小さな声を上げて彼を放した。彼は着地すると一言鳴いてねぐらに急いだ。好き勝手言って好き勝手やって、揚句に許せときたもんだ。お前の顔なんか二度と見たくない。
女の子は頬を抑えてしばらく立ちつくし、やがて家路についた。
泥のように眠った翌日。
猫は耳鳴りで目を覚ました。ねぐらから顔を出すと日はやや傾き、一日は熟れ始めていた。
やれやれ寝過ぎたと伸びをして、おや、と首を傾げる。細い耳鳴りは途切れ途切れで、また不快でもなかった。じゃあこれは何だ?
草を揺らして一歩目を踏み出し、彼は凍り付いた。
河原で、頬に大きなばんそうこうを貼った女子高生が、黄金色に光る大きな楽器を鳴らしていた。彼女は目を閉じ、一心不乱に演奏を響かせていた。まるで、山の向こうにまで響き渡りそうな力強い音色だった。
だから彼は二歩目を踏み出せなかった。草が擦れる音さえも彼女の耳に入れたくはない。そう思わざるを得ないほど熱の入った演奏だった。
ただし、彼女が特別上手かったわけではない。メロディラインもソロパートではなく、その他大勢の一人でしかなかった。聞いていればどんなに音楽に疎い人間でもわかるミスもあった。それでも、今不用意に彼女に近付くのは、完成された絵画に触れることのように禁忌に思えた。
猫は口を舐めた。後悔していたのだ。夢中になって演奏する彼女、その顔にあるばんそうこうがあまりに邪魔だった。その下にある傷は確認するまでもない。
彼は一旦ねぐらに戻り、それから意を決して彼女の元に向かった。物音に彼女が気付き目が合うと案の定演奏は止まった。スカートを畳んで膝を折り、昨日は本当にごめんなさい、と頭を下げる。
猫は彼女の顔の下に咥えていたものを置いた。それは数十年前に拾った、傷だらけの青いビー玉。余計な装飾が施されていない点が気に入って取っておいた宝物だ。どうせ言葉は通じまい。これで察しろ。
女子高生はビー玉を指でつまみ、日にかざして眺めたあと、胸のポケットに仕舞った。
ありがとう。宝物にするね。
猫の頭を撫でる手は汗ばんでいた。
その日から彼女の猛特訓が始まった。晴れた日は河原で、風や雨の日は真っ赤な橋の下で日が沈むまで楽器に息を吹き込んだ。一度だけ、静寂を愛する老人が彼女に説教色の愚痴を吐いた日があった。彼女が平謝りしたので老人が帰る、そのふくらはぎに思いきり爪を立てた。翌日、女の子は小づかいを叩いて質のいい猫缶を買って来てくれた。河原で練習していたが夕立が訪れ、慌てて橋の下に避難、一緒におやつを食べる。
感謝してよ? 彼氏でもいたら、君になんかプレゼントしないんだからね。
はいはい。
猫缶は初めからそうだったように空になった。
次の日から練習の頻度は減った。
目に見えて減った。一日空くようになり二日空くようになった。日の下に出ても肌の色は悪く、過ごしやすい気候なのに汗が止まらなかった。練習に来ても一曲分吹くだけで引き上げてしまったり、途中でむせ込んで中断してしまうこともあった。
ごめん。今日は帰るね。また明日。
黒猫と女子高生の交際から二十八日目、その日のこの会話が最後となった。
そして三十一日目。
河川敷を見下ろせる山の頂に、白くて細い煙が昇った。
猫は山に向かって駆けていた。
どうしてだかはわからない。今日まで六百余年七千一百九十二人の人間を見送ってきた。変わらぬ位置から昇る煙を見て、ほらやっぱり、と顔を拭く。いつもはそれでお終いにするのに、今日、今回だけはじっとしていられなかった。
林を抜けて開けた場所に出る。ヒステリックに鳴き喚くセミもここにだけは訪れない。
ガラス張りの広い部屋の中で、黒に身を包んだ連中が悲しんでいた。あの彼女くらいの年頃の人間は少ない。数日前に文句を言ってきた奴に似たような人間ばかりだった。
彼らが見守る中、正面の窯が開いて、灰を乗せたコンクリートが出てくる。猫は知っていて覚えていた。おれが伝えてから三十回日が昇って沈んだら、みんなあの中に入れられて、ああなって出てくるんだ。
ガラスの外にいる彼に気付く者はいない。唇を口の中にしまって彼女だった物に歩み寄る。真っ先に飛びついた母親に気後れするように、黒の波は緩く寄る。
だから彼にははっきりと見えた。
ほんの一部分にだけ、しかし確かに残っていた青。
それを見ると、彼は静かに踵を返し、林へと向かった。
辺りは背の高い木々が生い茂り、夏のせいもあって濃い影を映し出す。
道を横切る彼の姿は運転手の目に入らなかった。
軽トラックの前輪が猫の腹を弾き飛ばす。内臓が弾ける音を聴きながら彼は林に投げ出され、木の幹に 頭をぶつけて首の骨を折って、むき出しの根っこに打ちつけられた。
虫たちは慌てて逃げていく。
蛇は様子を窺って、ちょっと大きいな、と帰っていく。
やがて鳥が数羽やってきて品定めをする。しかし彼が好きにしろ、と目で訴えると白けたそぶりで帰って行った。
遠慮しなくてもいいのに。
どうせ夜になれば元に戻るんだから。
元に戻る。
元に――
戻らなくてもいいや。
なあ、もういいだろう。
ほっといてくれ。
おれを戻すくらいなら、
名前もわからないけど、
あの、
真っ白になってしまったあの女の子を――
頼むよ。
翌日。
すっかり元気になった彼は、いつものように木陰で盛夏をやり過ごそうとしていた。
そこへ一人の男が通りかかった。あの女の子の父親ほどの年齢で、タバコを咥えてシャツの上から胸を掻いていた。
ほら、伝えなさいな、と頭の中で声が鳴る。
彼は首を持ち上げ、しかしどういうわけか、どうしてもそんな気分になれず、伝えることをしなかった。
そしてその日以来、彼は六百余年続けてきた、頭の中に聴こえてくる声に従うことをぱったりと辞めてしまった。
だからあなたには何も伝えなかった。