弥生の空は
それは、まるで春の日差しを浴びたひだまりのような笑顔だった。
透き通るような白い肌。
ふわりと揺れる柔らかな髪。
春の光の中に溶けてしまいそうな、淡い儚さをまとっている。
名前を知らなくても分かる。
——こういう子を、きっとサクラって呼ぶんだろう。
その子の名前は、環という。
そして、私の名前はサクラだ。
「おーい!」
後ろからクラスメイトの紀本貫自が呼び止める。
私の心音は一気に跳ね上がった。
「今日、日直一緒だろ? 先生が資料取りに来いってさ」
「えー、だるー」
私は心音を隠すように大きな声で項垂れてみせた。
「お前ほんとに男っぽいよな。名前に似合わねー」
チクリ。
何気ない一言なのに、聞かなくてもいいことまで聞いてしまう。
「じゃあ誰ならサクラに相応しいんだよ」
貫自は少し俯いて、ぼそりと答えた。
「……環、とか……?」
黒髪の影に隠れた耳が、ほんのり桜色に染まっていた。
「……それな! わかるー!」
それから、何日か経ったある日の昼休み。
廊下の窓から、光と一緒に春の風が通っていた。
校庭の桜が、少し散り始めている。
環さんが廊下を歩いてくる。
足元に落ちていた花びらを、ひとつ踏んだ。
でも、気づいていない。
そのとき、少し離れたところから小さな鼻歌が聞こえた。
振り向くと、貫自が窓辺にもたれている。
考えごとをしているとき、あいつはよく鼻歌を歌う癖がある。
そのメロディを聞いた瞬間、私は少しだけ息を止めた。
環さんが、同じ旋律を口ずさんだからだ。
ただ、それだけのこと。
窓の外を見る。
弥生の空は、雲ひとつない。
そのとき、窓から入った春風が校庭の桜を揺らした。
花びらが一枚、机の上に落ちる。
私のノートの上で、静かに止まった。
私は、しばらくそれを見ていた。
環さんの笑顔を思い出す……。
私の名前はサクラだ。
でもきっと、
本当のサクラは——
私じゃない。
お読みいただき、ありがとうございました。
桜の季節になると、ふと思い出すことはありますか。




