教頭先生は鏡の中(下)
鏡の中に閉じ込められてしまった教頭先生は、しばらく大声でおばけを呼んだり、鏡面を叩いたりしましたが、そのうち疲れてがっくりとしゃがみこみました。床は冷たく、固い感触でした。
おばけ__教頭先生を鏡に閉じ込めた張本人は、開かずの部屋から出ていってしまい、それっきりもどってきません。
「どうして……」
教頭先生は誰にともなくつぶやきます。おばけに、こんな形で裏切られたことがまだ信じられませんでした。この頃は、おばけのことを児童の一人のように思っていたのです。
教頭先生がいる場所は、とても奇妙でした。自分の声や呼吸する音がやけに大きく響くほど、静まりかえっています。ぼんやりと明るいのですが、見上げても光源はどこにもなく、今が昼なのか夜なのか、室内なのか外なのかも分かりません。風はないようです。寒くも暑くもありません。見渡す限りがらんとして、何もない空間がはてしなく広がっているのでした。
教頭先生は、思わず身震いをしました。何となく、あまり遠くへ行ってはいけない気がしました。何しろ、目印となるような物さえないのです。
もう一度鏡の中をのぞきこむと、なんと鏡の向こうは真っ暗でした。先生の頭も、一瞬真っ暗になったような気がしました。きっとおばけか誰かが、開かずの部屋を閉じてしまったのです。
部屋が元のように閉ざされてしまって、もう開かなかったら……教頭先生は、永遠にこのままということになります。
何もない薄暗い空間で、自分一人いつまでもぼんやりと過ごす__それは、死ぬよりも恐ろしい想像でした。思わず吐き気がこみあげてきて、教頭先生は必死に口をふさぎました。
「落ち着け、落ち着け……」
そう、自分に言い聞かせます。きっと、ここから出る方法はあるはずだと信じるしかありません。
教頭先生はふらふらと立ち上がり、ポケットに入っていたチョークのケースを取り出しました。鏡から十歩離れるごとにケースの中のチョークを小さく折って、自分の足元に置きました。ヘンゼルとグレーテルのように、元の場所に戻ってくるための目印を作ったのです。
どれだけ歩いても、何も見えてきません。先生は、大声で呼ばわりました。
「おおい、誰かいませんか?」
返事はなく、向かうあてもありませんが、足を動かしているとなぜか少しずつ元気が出てくるような気がしました。
「そういえば、牛乳瓶の中に閉じ込められたこともあったな」
教頭先生がひどく酔っぱらって、魔法の先生の水晶玉を割ってしまった時のことです。怒った魔法の先生によって給食の牛乳瓶に閉じ込められた教頭先生は、3年生の児童たちに助けてもらったのでした。
牛乳瓶の中と、鏡の中、どっちがいいかと教頭先生は考えようとしましたが、気分が悪くなってきたのでやめました。
ふと、物音が聞こえた気がして、先生ははっと動きを止めます。……空耳ではありません。トトトト……と軽やかな音が聞こえます。しかも、だんだん近づいてくるのです。
「誰……」
見回した教頭先生に、何か柔らかいものがぶつかり、腰にしがみつきました。見下ろすと、小さな男の子です。
男の子は、教頭先生にしっかりと抱きついたまま、泣き出しました。
「うわあん、うわあん」
「君は……!」
泣きじゃくる男の子の顔を見て、先生は驚きました。別の小学校の児童で、何か月か前に行方不明になったとニュースで伝えられていた子だったのです。
「名前は、たしか……大島ケンイチ君」
ケンイチは、しゃくり上げながら、何度も何度もうなずきます。ケンイチの前にしゃがみこみ、教頭先生は質問しました。
「君はどうやって、ここに来たの?」
ケンイチは、ぶるんと震えました。
「ぼく、天神(天神杜小学校の略称)に探検に行ったの。みんながきもだめししようって。天神って、おばけがいるから……。学校の中歩いてて、ここに来た。だ、だれもいなくて、どこから来たかわかんなくて……!」
「そうか。怖かったね」
教頭先生は、ケンイチの手をぎゅっとにぎりました。
「でも、もう大丈夫。私は、天神杜小学校の教頭先生だよ。一緒に帰ろう」
「教頭先生?」
ケンイチの顔がぱっと輝きました。
「助けにきてくれたの?」
教頭先生は一瞬、言葉に詰まりました。自分も不本意な形でやってきて、帰り道が分からないのだと本当のことを言えば、ケンイチはまた恐ろしい思いをするでしょう。
「……そうだよ。さあ、出口を見つけにいこう」
教頭先生とケンイチは、手をつないで歩きます。ケンイチがまだ鼻をすすっているので、教頭先生は楽しい話をすることにしました。
「この前ね、温泉旅館に先生みんなと行ったら、小さなうさぎ君に会ったんだよ。うさぎ君はお父さんとはぐれちゃったから、旅館中探し回ったんだ。露天風呂にうさぎ君と入っていたら、なんといのししや猿も入りにきてね。おかげで山の動物たちのうわさ話にくわしくなっちゃったよ」
「うさぎって、あの耳の長いうさぎ?」
ケンイチが、目を丸くしています。
「そうだよ。真っ白で、ふわふわしていて、耳の長いうさぎだ」
「ぼくの家でも、うさぎを飼ってる」
「おや! 何てお名前なの?」
「ポチ」
「かわいい名前だね。ケンイチ君が世話をしているの?」
「うん。あのね、えさをあげるのと、うんこを集めるのはぼくがやるんだ」
ケンイチはくすくす笑いました。
「えさは何をあげてるのかな?」
「つぶつぶのペレットと、にんじんと草。でも、ペレットってぜんぜんおいしくないよ。ぼく、食べたことあるけど」
ケンイチと話しながら、教頭先生はくまなく辺りを見回します。
ここは鏡の中の世界なのだと教頭先生は思っていました。鏡の中にいたおばけに、引っ張りこまれたからです。とすると、元の世界への出口も、鏡のようなものではないでしょうか?
「ケンイチ君。君は、学校のどこからここに来たか覚えている?」
そう聞くと、ケンイチの顔が曇りました。けれど、懸命に思い出そうとしてくれているようです。
「……音楽室とか、理科室とかじゃなかった」
「そうか。どこかの部屋の中に入った?」
ケンイチは首を振りました。
「扉が開かない部屋に入ろうとしたことは……なかった?」
今度も、ケンイチは首を振ります。
「……あっ。ぼく、廊下を歩いてた」
ケンイチは立ち止まりました。
「歩いてたら、でっかい鏡があった。ぼくが映って、ちょっと怖かった。それで……それで……」
ケンイチの顔がどんどん暗くなっていくので、教頭先生はあわてて彼の肩を優しく抱きました。
「ありがとう、もういいよ。……だいたい分かった」
やっぱり鏡だ、と教頭先生は確信します。開かずの部屋だけでなく、校内にこの世界へとつながる危険な鏡があるようです。一刻も早く学校に戻って、これ以上児童が鏡の中に入り込んでしまわないように策を講じなければなりません。
「……鏡が怖いって、本当のことだった」
ケンイチが、ぽつりと言いました。
「うん?」
「天神の子が言ってた。学校の鏡が、時々怖い世界につながってることがあるんだって。だから天神の子はみんな、学校で鏡を見かけたら逃げるんだって。「あゆみ渡し」(通信簿渡し)の日に、本当にいなくなっちゃった子も昔いたんだって……」
教頭先生も、思い出しました。まだ先生が天神杜小学校にやってくる前、のびるこ(通信簿のこと)渡しの日に一人の女子児童がいなくなったらしいのです。結局、まだその生徒は見つかっていません。児童たちは、「裏のびるこ渡し」という恐ろしい行事があるのだとうわさしています。それについて魔法の先生に聞いてみたことはありますが、天神杜小学校の児童に魔法の先生たちが「のびるこ」を渡すことは決してないと返事をもらいました。
「鏡……」
つぶやきながら、先生が再び歩き出した時です。
突然、すごい勢いで石のつぶてが飛んできました。石は教頭先生とケンイチのすぐそばに落下し、固い床に穴が開きました。続いて、いくつもの石が流れ星のように二人めがけて飛んでくるのです。
教頭先生は、とっさにケンイチを守ってその場にうずくまりました。石が先生の肩をかすめます。肩に鋭い痛みが走り、見ると服が裂けて血がにじんでいました。
「誰だ! やめろ!」
教頭先生は叫びました。叩きつけられる石つぶてで、体中が痛みます。石の雨がやんでから、おそるおそる顔を上げました。
見知らぬ女の子が、宙に浮かんでいました。
彼女は怖い顔をして、長い髪をなびかせて、じっと二人を見下ろしています。そして糸でつり下げられているでもなく、翼があるでもなく、ただ何もない空間に当たり前のような顔をして浮いているのでした。彼女の体の下には、黒い影が落ちています。
驚きで声もない教頭先生に向かって、少女が口を開きます。
「あんたたちがどこのだれかは知らないけれど、もうここからは出られやしないわよ。この、何もないつまんない場所で、お腹が空くことも死ぬこともなく、永遠に生きていくのよ! ざまあみろ!」
教頭先生の体の下で、ケンイチがぶるぶる震えています。教頭先生も恐ろしかったのですが、少女の心ない言葉に腹が立ったので、とっさに怒鳴り返しました。
「いいや違う。俺たちは絶対にここを出て行く! 君に邪魔する権利はない!」
「あ、そう!」
少女は先生を指さしました。すると教頭先生は見えない手につかみあげられたかのように宙に浮き上がりました。手足をばたつかせる先生を見て、少女が高笑いします。
「ずっとこのままでいたい?」
下を見て、教頭先生はぞっとしました。ずいぶん高くまで持ち上げられてしまったのです。今床に落とされたら、大けがをしてしまうでしょう。
ケンイチが、叫びます。
「教頭先生!」
それを聞いて、少女が眉をひそめました。
「教頭先生って、何?」
その時、ケンイチが落ちていた石をつかんで、少女めがけて投げました。少女はすんでのところでかわし、けらけら笑いながらすーっとどこかへ飛んでいってしまいました。
教頭先生はその場に浮かんだままです。ケンイチが下ろしてくれようとしましたが、ぴょんぴょん飛んでも教頭先生の足には届きません。
ぱたぱたぱたと足音がして、今までどこにいたのやら、数人の少年少女が駆けてきました。そして宙に浮いた教頭先生を見ると、慣れた動きで肩車を組み、なんとか足をつかんで引っ張り下ろしてくれました。
どすんと床に腰をついた教頭先生に、子どもたちが言います。
「早く、こっちへ。あの子がもどってくるから」
ケンイチに助け起こされ、教頭先生は子どもたちについて走りました。
子どもたちが立ち止まったのは、大きな三面鏡の前でした。教頭先生は息をのみ、鏡面に触れようとしましたが……
「だめ。触ったら後悔します」
優しい声で、一人の少女が先生を止めます。
「どうして?」
「元の世界に通じてると思ったんでしょう。でも、違うんです。そこは、今いる場所よりももっとおそろしい道」
「中をよく見てみなよ。ただし鏡にはさわらずにね」
助言に従い、教頭先生は三面鏡をのぞきこみます。
鏡の中に、そのまた鏡があり、先生の顔が映っています。もう一つ奥、さらに奥……鏡はどこまでも続いているのです。鏡の数だけ先生の虚像があり、驚いた顔で互いを見つめ合っていました。
「……君たちの言う通りだ。確かに、怖いね」
教頭先生は、子どもたちを振り向きました。この中で一番年上らしい少女が、うなずいてみせます。ケンイチが、先生にしがみつきました。
子どもは五人いました。少年が二人、少女が三人。みな、服装や、髪型がずいぶんと違うことに先生は気がつきました。
「……座れば? ここには、あいつは来ないから」
「この鏡を怖がってるの。あたしたちも怖いけど」
教頭先生とケンイチは子どもたちの輪の中に入れてもらい、ほっと息を吐きました。
「助けてくれてありがとう。君たちの名前を聞かせてくれないかな?」
「わたし、美優」
年上の少女が、一番に答えます。
「おれは三郎」
坊主頭でもんぺをはいた少年が名乗りました。
「あたい、トモ」
そう名乗った少女は、なんと着物を着ています。
「ぼく、龍太」
龍太は、1年生のようにあどけない顔をしていました。
「わたしは依子」
最後に言ったのは、優しい声の少女でした。
「君たちも、鏡を通ってここに来たのかな? それとも、ここで生まれた?」
「鏡から来ました」
やっぱり美優が答えます。
「わたしはのびるこ渡しの日に、プールの水面に飛び込んで。三郎は、空襲から逃げてきた時に小さな手鏡を拾って。トモは、わたしたちの中で一番長くいるんですけど、水たまりが鏡のように見えたんですって。龍太は階段の踊り場にあった大きな鏡に吸い込まれて、依子は……」
美優がちょっとためらっていると、依子が落ち着いて答えました。
「わたし、自分そっくりな女の子とばったり出会ったんです。服も髪型も、みんな同じ。それで、その子と手をつないだ瞬間に、ここにいました」
聞いていたケンイチが、身を縮めます。
「君たちはそれぞれ、違う時代からやってきたみたいだね」
もんぺをはいた三郎や、着物姿のトモを見比べて、教頭先生は言いました。
「ここは一体、どんなところ?」
一番長くここにいるらしいトモは困ったような顔をしました。
「よく分かんない。腹は空かないし、年もとらないし……ケガをしたら、ずっとそのまんまだし。あたいら、よその世界からやってきたやつらの他は、ほんとにだれもいないみたい」
「まるで時が止まったようなの」
「……そうなのか。あの、宙に浮いていた子は? あの子は不思議な力を使えるようだけど、この世界の住人ではない?」
「あいつもおれたちと同じだ。いつの間にか、ここに来てた。だけど最初からおれたちとは仲良くしなかった」
「だって、友達と一緒だったもの。いつも二人一組で、あちこち探検して回っていたのを見ていたわ」
「友達?」
「男の子です。あのエスパーみたいな女の子……ユキノっていうらしいけど、いつも男の子と一緒にいました。たぶん、同じタイミングで来たんだと思う」
「だけど、男の子の方はいつの間にか消えたよな」
三郎が腕を組みました。
「今日もユキノ一人だったし。あいつが殺したのかな?」
「まさか!」
教頭先生は笑い飛ばそうとしましたが、子どもたちの顔は真剣でした。
「ユキノは何でもやるんです。さっきも、ひどい目にあったでしょ。物を飛ばしてきたり、宙に浮かせたり、あげくの果てには変なビームを放ってきたり」
「不思議な力を使えるみたいだね。元々そんな力があったのかな」
「鏡のせいだ」
と、龍太が言いました。すぐそばにある、三面鏡を指さして。
「ぼく、見た。ユキノと男の子が、この中に入っていった。でも、もどってきたのはユキノだけだった。それから、ユキノが何でもできるようになったよ」
「そうだ。そういや、ユキノが変なことできるようになるのと、一人になるのは同じ時期だったな」
みんなで、三面鏡を見ました。大きく開く三面鏡は、両手を広げて子どもたちが飛びついてくるのを待つ大人のような顔をして、そこに立っています。けれど、その誘いに乗る子は一人もいませんでした。ただぶるっと震えて、自分を抱きしめていました。
空気が重くなったのを感じて、教頭先生は言いました。
「体を動かそう」
そして、皆を立たせ、ラジオ体操を始めました。音楽はもちろん、教頭先生が歌うのです。ラジオ体操を知らない子どもが何人もいましたが、美優やケンイチは楽しそうに腕を振り回しました。
体操の後は、鬼ごっこです。三郎やトモもルールを知っていました。ふつうの鬼ごっこ、がっちゃん鬼、電子レンジ鬼、氷鬼……それから、だるまさんが転んだをやりました。思いつく限りの遊びに、子どもたちは夢中になりました。
たっぷり走り回ってとうとう疲れてしまった教頭先生がその場に座り込むと、子どもたちが集まってきます。
「ちょ、ちょっと休憩」
「えー、もっと遊ぼうよ!」
「君たちも休みなさい」
教頭先生は無理矢理子どもたちを座らせました。息を弾ませ、赤い頬をした子どもたちは、さっきとは打って変わって明るい表情です。
「楽しいね」
「うん!」
「それはよかった。休憩が終わったらまた遊ぼうね」
「うん。休憩終わり!」
「いやいや、まだ早い」
笑う先生の袖を、ケンイチがそっとつかみます。
「どうした?」
「あの子がいる」
指さす方向を見て、教頭先生は息を呑みました。不思議な力を使う少女__ユキノが少し離れたところから自分たちを見ています。
「また怖いことされたらどうしよう?」
「そうだな……」
教頭先生は立ち上がりました。子どもたちがはっと見上げます。
「どうするの?」
「ちょっと話してくるよ」
「やめた方がいい!」
「ユキノに話なんか通じないよ」
口々に止める子どもたちを見て、教頭先生は首を振りました。
「話が全く通じない子なんて、いないよ」
おばけだって、こちらの気持ちを分かってくれるのです。__いえ、本当は、分かったふりをしていただけなのでしょうか。教頭先生の胸が少し痛みましたが、今はユキノのことだけを考えることにしました。
「先生も、何か魔法が使える?」
ケンイチがそう聞きます。教頭先生は苦笑しました。
「残念ながら、使えないな。でも、大丈夫。みんなはここで待っていてね」
教頭先生が近づくと、ユキノは後ずさりをしました。それでも距離を少しずつ縮めると、先生の体は床からちょっと浮きました。ユキノは先生をにらみつけ、両手を前に突き出しています。
先生は「降参」のしるしに両手を挙げ、語りかけました。
「ユキノちゃん。君と話したいんだけど、いいかな?」
「いやだ」
ユキノはふんと口をとがらせます。
「どうせあんた、あいつらからさんざんわたしの悪口を聞いたんでしょう!」
ユキノが飛ばした石のかたまりが、先生のほおをかすめます。血がたらりとたれましたが、先生はそれをぬぐうこともなくユキノに言いました。
「ユキノちゃんは、いつもここでどんなことをしているのかな?」
予想外の質問だったのか、ユキノは言い返すこともなく黙りました。
「もし、特にすることがないんだったら、一緒に遊ぼう。鬼ごっこは知っているかな? 皆で遊んだら、楽しいよ」
「あいつら、どうせわたしと遊びたくないでしょ」
ユキノは遠巻きに見守る子どもたちを、あごでしゃくりました。
「いつも、わたしのことのけものにするんだ……」
「俺が君のことを友達として紹介しよう。必ず仲間に入れてくれる」
「もし入れてくれなかったら?」
「その時は、俺が君の友達になろう」
教頭先生はきっぱりと答えました。
「あんたが、シズキのかわりに……?」
ユキノは、疑いの目で先生を見ました。
「そうだよ。たくさん話をしよう。君の話が聞きたいな」
ユキノはしばらく考えていましたが、やがてうなずきました。
ユキノを連れてもどると、子どもたちはぱっと距離をとりましたが、先生が呼ぶとおそるおそる近づいてきます。
「休憩は終わりだよ。今度はユキノちゃんも入れて、皆で遊ぼう。いいね?」
子どもたちは顔を見合わせます。ユキノは、教頭先生の後ろに隠れ、いらいらと足を踏みならしていました。
やがて、美優が代表してユキノに言いました。
「エスパーみたいなことしないって約束してくれるならいいわ」
教頭先生はユキノを見ました。
「ユキノちゃん」
「……分かった。約束する」
「よかった!」
子どもたちは、わっとユキノをとりかこみました。
「何する? ふつうの鬼ごっこ? 氷鬼?」
ユキノはちょっとだけ口の端を緩めて、
「がっちゃん鬼」
と答えました。
その後ひたすら遊び続けて、教頭先生はついにひっくり返ってしまったのですが、子どもたちは休憩しようとは言ってくれませんでした。床に寝転がる教頭先生を引っ張り起こそうとしたり、宙に浮かそうと(先生は「ストップ!」とユキノに言いました)して、先生が頑として起き上がらないのを見ると、先生を真ん中に輪を作り、ハンカチ落としを始める始末です。先生は上がった息がなかなか落ち着かず苦労していましたが、ユキノも他の子どもたちも笑っているので、ほっとしました。
そのうち、輪になった子どもたちが、おしゃべりを始めました。
「ずっと、こうして遊ぼうね」
トモが、何度もそう言います。
「でも、鬼ごっこばっかりじゃ飽きちゃうよね」
「ボールとかあったらいいんだけど……」
「わたしがボールを作ろうか」
とユキノが提案しました。
教頭先生が起き上がると、依子が話しかけてきます。
「先生は、どうやってここに来たの?」
「開かずの部屋にあった鏡から来たよ」
「開かずの部屋……」
美優が反応しました。
「あれ、今もあるんだ」
教頭先生はふと、思い出しました。
「鏡があったところにもどってこれるように、目印を置いていたんだ。さて、今頃どうなっているかな」
先生が立ち上がると、子どもたちもぞろぞろとついてきます。
少しずつ落としておいたチョークのかけらを、みんなでたどります。視力が悪い教頭先生のかわりに、子どもたちがかけらを見つけてくれました。チョークはずっと、一本の道筋を作っています。
その道の先に、あの鏡はやっぱりありました。
「あった!」
近づいた皆、息を呑みました
鏡が、ぱあっと光っているのです。鏡の向こう側に光源があって、その光が鏡からあふれているみたいでした。床に置かれた鏡から立つ光に照らされ、ほこりがきらきらと舞い踊っています。
「何だろう、あれ?」
駆けよって鏡をのぞきこむと、開かずの部屋が見えました。誰かが懐中電灯を照らしています。
「教頭先生がいる!」
ケンイチが叫びます。見ると、教頭先生そっくりな誰かが、懐中電灯を持ってこっちを見ていました。しきりに、来い来いと手招きをしています。
「おばけ君……」
教頭先生はつぶやき、ケンイチの背中を優しく叩きました。
「鏡に触ってごらん」
「うん!」
ケンイチが鏡にちょんと触ると、あっという間に吸い込まれて向こう側にいってしまいました。
子どもたちはおどろき、次々に鏡に触っていきます。そのたびに、開かずの部屋に引っ張りこまれて、向こうにいる教頭先生のかっこうをしたおばけに歓迎されていました。
さあ、残るはユキノ一人です。
「ユキノちゃん?」
見回すと、ユキノはいませんでした。
「ユキノちゃん!」
教頭先生は、あちこち探し回ります。だだっ広い空間を走って走って、とうとうあの三面鏡の前にやってきました。
ユキノは、三面鏡の前にいました。口をきゅっとつぐみ、うつむいています。
「どうしたんだ、ユキノちゃんもあっちの世界に帰ろう。俺たちと同じで、あっちから来たんだろう?」
ユキノちゃんは答えず、鏡の中に飛び込みました。
教頭先生も、迷わず彼女を追って鏡の中へ入っていきます。どこまでも、鏡の扉が続いていて、目が回りそうでした。三面鏡がいつか閉ざされてしまうかもしれないと思うと、気が気でありません。けれどユキノだけを置いて帰ることも、絶対にできませんでした。
「ユキノちゃん……」
ユキノが、うずくまっていました。彼女の見つめる先には、果てしなく続く鏡の中の鏡の中の鏡……があります。
ユキノは先生を振り返りました。
「わたしは帰らない」
「どうして?」
「帰れない……帰っちゃいけないの」
ユキノは、がたがたと震えています。教頭先生は静かに尋ねました。
「それは、君と一緒にいたという男の子が関係しているのかな?」
ユキノはびくりとしました。
「もしかして、シズキくんという子?」
ユキノは、ゆっくりとうなずきます。
「わたし、シズキと一緒にこの鏡の中に入ってみたの。この中を歩いているうちに、いつの間にか、不思議な力が使えるようになってた。鏡から出たら、何でもできるように。でも……シズキは、シズキは消えてしまった! わたしの目の前ですうっと透けていって、とうとう見えなくなったの。どれだけ呼んでも、もどってこなかった!」
ユキノが叫びます。その声が、無限にある鏡にがんがんと反響しました。
「わたしのせいで……わたしが鏡の中に入ってみようって言ったせいで、シズキは消えた! この世界に来たのだって、神隠しに遭う場所を探してみようって、わたしがシズキを誘ったから。全部、全部わたしのせい!」
ユキノは声を上げて泣きました。教頭先生は黙って彼女の肩に手を置きます。
「……だから、わたしは帰れない。シズキと一緒じゃなきゃ……」
「いいや、君も帰るんだ。シズキ君もそれを望んでいる」
教頭先生は、確信をもって言いました。ユキノが顔を上げます。
「ユキノちゃん、俺はきっと、シズキ君に会ったよ。シズキ君が俺をここに連れてきたんだ。その理由が、今なら分かる。君たちみんなを連れて帰るためだ」
ユキノに、教頭先生は質問しました。
「シズキ君は、いたずら好き?」
ユキノは、こくりとうなずきます。
「それじゃ、やっぱり、俺が出会ったのはシズキ君だ」
教頭先生は、いたずら好きで、そのくせ素直なおばけを思い出し、微笑みました。
「行こう、ユキノちゃん」
ユキノは、まだぶるぶる震えたまま、先生の手を取りました。
さあ、それから二人は一生懸命走りました。いつまでも鏡の出入り口があるとは限りません。そのうち、ユキノは空を飛び始めました。その方が早いのです。
チョークの道をたどって鏡のある所にもどると、鏡はまだ光っていました。
「よし!」
教頭先生は、ユキノをまず鏡の向こうに送り出します。向こうにいたおばけの教頭先生が、ユキノを見てうれしそうに笑いました。
それから、教頭先生は一度だけうすぼんやりした広い世界を振り返り、ゆっくりと鏡に触れました。
気がつくと、先生は開かずの部屋にいました。薄暗い部屋の中はにぎやかです。興奮した子どもたちのしゃべり声や、駆けつけてくれたベートーヴェンやゆなちゃん、人体模型の声がします。
「先生!」
ケンイチ君が飛びついてきました。他の子どもたちも、周りに集まってきます。床のほこりが、もうもうと舞いました。
「もどってきたんだね」
教頭先生は、心の底から安堵して、体の力を抜きました。
どたどたと足音がして、魔法の先生と、校長先生と、学童保育の野村先生が駆け込んできました。
「教頭先生! よかった、よかった……!」
今にも泣き出しそうな顔をした校長先生の横で、魔法の先生は怒ったような顔をしています。
「そらごらんなさい! おばけと関わると、こんな危険な目に遭うんですよ」
「はは、でもそのおかげで子どもたちを連れて帰ることができましたよ」
教頭先生は、美優やケンイチ、三郎たちを見回します。
トモが、ぽつんと言いました。
「おっ母、どこ?」
大人たちは、言葉につまりました。三郎も、きょろきょろしています。
「おれ、妹と、母ちゃんと逃げてたはずなんだけど……」
おそらくもう、この子たちの家族はいません。けれど、そのことをどう伝えたらいいか、誰も分かりませんでした。
その時、学童保育の野村先生が、進み出ました。
「みんな、今は休まないといけませんよ。寮にいらっしゃい。あたたかいお茶をいれてあげましょう。それから、ぐっすりと眠るの。あなたたちの分のふとんはあるからね」
野村先生は、夕方は学童保育を受け持ち、それ以外の時間は魔法の生徒たちがくらす寮を切り盛りしているのです。
本当のおばあちゃんのように優しい野村先生の言葉に、子どもたちは自然とうなずいていました。そして、野村先生やゆなちゃんたちに連れられて、学童の寮に向かいました。
ただ一人、ユキノだけは、その場から動かず立ち尽くしています。
「シズキ、シズキはどこ?」
教頭先生も気がつきました。教頭先生のかっこうをしたおばけが、いつの間にかいなくなっていました。あの恐ろしい鏡をのぞきこんでも、おばけの姿はありません。
教頭先生は、ユキノの側によりそい、何もない空間にむかって呼びかけました。
「シズキ君、そこにいるね?」
返事はありません。けれどシズキは聞いていると信じて、教頭先生は語りかけます。
「君のおかげで、たくさんの子どもたちがもどってこられた。本当にありがとう」
空気が少しだけ、揺れた気がします。
「これから、あの世界に行ってしまう子が出ないように……俺たち職員が力を尽くすよ。もしよかったら……君も、この学校に残ってほしい。君の体を取り戻す方法が、見つかるかもしれない」
その時、床にこぼれたチョークのかけらがすっと浮いて、古ぼけた黒板に移動しました。ユキノが大きく目を見開きます。
チョークのかけらは、ふらふら揺れながら、黒板に字を書きました。
『ありがと さよなら』
それだけを書くと、チョークは砕け、粉々になってしまいました。




