3.セレスティアの願い
見慣れぬ場所で目覚めたセレスティアは、ぼんやりとした頭でまわりを見渡した。
真っ白に塗られた天井と壁。自分は無機質な木のベッドに寝ているらしい。
この場所には覚えがあった。
(ここ、教会の医務室……?)
ちょうどその時、相変わらず聞こえてくる雨の音を破るように、ノックの音が飛び込んできた。
「セレスティア、目が覚めたんだね」
「レイトス様……」
入ってきたのは、アルミオの叔父のレイトスだった。いつもはとても整った身だしなみをしているのに、随分と乱れた格好をしている。
挙式の時に着ていた正装のジャケットを身につけていないし、シャツやネイビーブルーの髪はひどく乱れ、疲れたような硬い表情を浮かべていた。
普段の物柔らかな雰囲気とは程遠い様子に、セレスティアの胸には不安が広がった。
「……アルは、アルミオは大丈夫ですか?」
声がかすれた。
長い沈黙の後、レイトスは静かに首を振った。
「そんな……」
「君が気絶した後、シャンデリアの下から助け出された時にはもう、心臓が止まっていたんだ。出血も酷く、医神官たちは手を尽くしてくれたんだけれど、そのまま――」
目の前が真っ暗になる。
うそだ、と言いたかった。でも言葉が出なかった。
陽だまりのように温かく、思いやりに溢れた優しい人。そんな彼がどうして死ななくてはならなかったというのか。
受け入れられず顔を覆ったセレスティアに、レイトスの声が、追い打ちをかけるように現実をつきつける。
「……信じ難いことだけれど、シャンデリアの鎖が劣化していたそうだ。これは不運な事故だったんだよ」
不運な事故――その言葉を聞いた瞬間、ぞくりと背中に冷たいものを感じた。
思い出される最後の瞬間。突然、落ちてきたシャンデリア。
これが本当に不運な事故だというのなら、その“不運”はどこからやってきたというのだろう。
今日、雨が降らずに予定通りのガーデンウエディングであれば――たとえシャンデリアが落下したとしてもアルミオが傷つくはずはなかった。
そうでなくても、セレスティアがもっと早く気がついて逃げていれば。アルミオは下敷きにならずに済んだかもしれない。
そもそも自分と婚約しなければ――
「……アルが死んだのは、私のせいです」
ようやく絞り出した声は、弱々しく震えた。
「セレスティア……そんなはずない。今は少し休みなさい」
憔悴しきった様子のレイトスは、それでもセレスティアのことを気遣う言葉をかけて医務室を去っていった。後見人になってからというもの、レイトスはアルミオを我が子のように可愛がっていたというのに……。
そんなレイトスの優しさが胸を刺すように辛く、セレスティアは何も言えないまま、シーツを握りしめた。
*
それから数日間、セレスティアはティエラ家の屋敷に戻ることになった。
食事もろくに取らず、眠らず、魂の抜け殻のような日々を過ごした。
血に染まった純白のドレスは漆黒の喪服へと変わった。
あれほど準備をしてきた結婚式が終わらないまま、葬式の準備に変わるなんて信じられなかった。
見聞きするものの全てが現実味のないまま、それでもやってきたお葬式の日。
(どうして今日はこんなにいい天気なの………?)
その日は皮肉なことに、何日も続いた雨がぴたりと止んで憎らしいほどの晴天になった。
きちんとしなければ、という気持ちとは裏腹に足は鉛のように重い。葬式にはあの結婚式に参列した貴族も多く、悲しみだけでなく戸惑うような空気があった。そして、さまざまな噂が飛び交った。
「結婚式でシャンデリアが落ちてくるなんて、やはりティエラ家の令嬢は呪われている」
「子どもができにくかったティエラ夫妻が、黒魔術を使って授かった子だと聞いたことがあるわ」
「アルミオ様のご両親も事故で亡くなったし、バーレー家はティエラ家と親しくしたせいで呪われたんじゃないか?」
腫れ物扱いのセレスティアには、面と向かって話しかける者はおろか、目を合わせる者すら一人もいない。だが、そんな声があちこちから聞こえてくる。
何を言われても、喪失感と絶望で空っぽになってしまったセレスティアの目には、涙一粒さえ浮かばない。身が引き裂かれるほど悲しいのに、空っぽの胸からは何も湧いてこなかったのだ。
しかし、そんな姿が余計にセレスティアを非難の対象とさせた。
「涙ひとつ見せないなんて、金目当てで婚約した相手を呪い殺したんだ」
心なく囁く者さえいた。
そんな中でも、セレスティアに同情を寄せる人もいた。
「セレスティア嬢って生まれた時にお母様を亡くして、お父様も何年か前に病気で亡くなっているんでしょう?そのうえ、結婚式で事故が起きて旦那さまが亡くなるなんて……あんまりだわ」
ぽつんとつぶやいたのは、セレスティアの一つ年下の令嬢だ。
「ちょっとフィリヤ、かわいそうだからって声をかけちゃダメよ」
「でも……」
「そうよ、目を合わせたら呪われるっていう噂もあるんだから」
同世代の令嬢たちに止められ、フィリヤがセレスティアに声をかけることはなかった。
*
「……ねえ」
葬式が終わる頃になってセレスティアの元へやってきたのは、アルミオの従兄妹のローザだった。
大きな真っ赤な瞳を潤ませたローザは、絞り出すようにか細い声で言った。
「あなたなんかと結婚したせいで、兄さまは……」
震える白い手が振り上げられ、パンという乾いた音とともに頬に痛みが走った。
叩かれたのだ、と一瞬遅れて気がつく。頬よりも胸が痛んだ。
これまでもローザが自分に対して好意的でなかったのは知っていたけれど、ここまで感情を高ぶらせている姿は初めてだった。
「この、人殺し!」
「……」
セレスティアは、人形のように無言で罵声を受け入れるしかなかった。
「ねぇ、なんとか言いなさいよ」
ローザが再び手を振り上げた時――
「ローザ、止めなさい。セレスティアだって辛いんだ!」
いつの間にそばにいたのか、レイトスがローザの細い腕をつかんだ。
「お父様、離してよ」
真珠のように大粒の涙を流しながら、ローザは父親の手を振り払う。
「この女さえいなければ、兄さまは……なんで止めるのよ」
「なんてことを言うんだ。セレスティアのせいなわけがないだろう!」
レイトスの強い口調に、ローザは肩をふるわせた。
「……お父様も、その女の味方をするのね!」
耐えきれない様子で走り去ったローザのもとに、友人の令嬢たちが駆け寄って慰める。
その様子を見つめ、レイトスは疲れたように首を振った。
一拍置いて娘を追いかけるレイトスの背に、セレスティアはようやく小さくつぶやいた。
「……ごめんなさい」
騒ぎを目にしていた人は何人かいたものの、セレスティアへ手を差し伸べる人は誰もいない。
それどころか、面倒事には関わりたくないと言わんばかりに、ひとり、またひとりと散り散りになっていく。
「ごめんなさい」
周囲に誰もいなくなった後も、セレスティアは何度も何度もそうつぶやいた。
*
「……お祖父様」
いつからそこにいたのか、叩かれている孫娘を何もせずに見ていたのか。人が離れ一人になったセレスティアの元へ現れたのは、祖父のダン・ティエラだった。
慰めを期待したわけではない。
いつも厳格で、何よりもティエラ家の名誉と伝統を大切にしている人だ。そんな祖父にとって、社交界で爪弾きにされているセレスティアは疎ましい存在だった。
それでも母を亡くし、父を亡くしたセレスティアにとっては残された唯一の家族だ。いつか分かり合えるかもしれないと心のどこかでは信じていた。
けれど、祖父が投げかけたのは冷たい言葉だった。
「お前たちを婚約させるべきではなかった」
ダン・ティエラは眉間に皺を刻んだ険しい表情で、一言、そう言った。
責められているわけでは、なかったのかもしれない。祖父もこの婚約に責任があったはずだ。
そう思おうとするけれど、これまで張り詰めていた糸が切れたように、セレスティアは堪えきれずにその場を離れた。
どこをどう走ったのか、分からない。
息が切れ苦しくなった頃に、周りは背の高い木々に囲まれた森へと変わっていることに気がついた。
漆黒の服も靴も雨上がりの泥で汚れ、木の枝に引っ掛けたのか、裾はところどころ破れている。
それでも構わずに、進み続けた。
一人になりたかった。
あてもなく進み続けると、突然木々が途切れ、光が差し込んだ。
(ここは、屋敷の裏の湖?いつの間にか、こんなところまで来たのね……)
訪れるのは久しぶりだったが、大きな湖の湖畔には、見覚えのある花が咲いている。
星の形をした銀色の花だ。
それを見た時、幼い頃の思い出が呼び覚まされた。
(前に、この湖に落ちたことがあったわ)
岸にぽつんと咲いている銀色の花が珍しく、摘もうと手を伸ばしたら、足が滑ったのだ。
雪解けの後の湖は見かけよりも深く、その時セレスティアは、足がつかずに溺れかけた。
(あの時も、アルが手を差し伸べてくれたんだったな……)
氷のように冷たい水の中で差し出された手のぬくもりを、今でも覚えている。
(いつも私は、アルに助けられてばかりだったのに……)
湖を見つめたまま、セレスティアはどさりと膝をついた。
ぽつり、ぽつりと広がった波紋が、水面に映った自分の顔を醜く歪めた。
「ねぇ、どうして……」
アルが死んだのは、私のせいだ。
ようやく気がついた。私はきっと呪われている。これは単なる不運ではない。
人の命をも奪う、不幸なのだと。
憎らしいほどの青空を見上げ、セレスティアは地面を叩いた。
「お願いよ。アルを返して……私の命でもなんでも捧げるから」
お願い、返して、そう何度も叫んだ。
嗚咽で息が苦しくなった時、きらりと水面が光ったように見えた。導かれるように立ち上がった自分の影が、ゆらりと水面に映し出される。
飛び込もう、死のうといった明確な意思があったわけではない。
ただ、花に誘われる虫のように、体が自然と吸い寄せられる。
そのままセレスティアは、湖に飛び込んだ。




