19.幸せの薔薇
夢中でステップを踏んだファーストダンスが終わりに近づいた時。セレスティアの体がぐらりとバランスを崩した。
(うそでしょ、こんなタイミングでヒールが……)
ヒールの付け根が折れかけている。
(転んでしまう……)
転倒に備えて目をつむったその瞬間、セレスティアの身体がふわりと浮かんだ。
純白のドレスの裾が、白百合の花が咲いたみたいに広がる。
(えっ?)
曲のフィナーレに合わせて、アルミオがセレスティアを抱き上げたらしい。
セレスティアは目を大きく見開いた。鼻が触れ合いそうなくらいの距離に、なぜかドキッと胸が鳴る。
セレスティアを持ち上げたまま、アルミオは優雅に一周した。まるで初めからそうするつもりだったみたいに。セレスティアの世界が、アルミオを中心にぐるりと回る。
ダンスホールの人々がみんな自分たちを見ていることに、その時初めて気がついた。
最後の一音が鳴ると同時に、アルミオはセレスティアを下ろしてウインクをする。
大きな拍手が、ダンスホールを、2人を包んだ。
「なんて素晴らしいダンスなの!」
「アルミオ様とセレスティア様、こんなに息が合うなんてお似合いなのかしら」
また胸が、ドキドキと鳴った。これまで、こんなにダンスが楽しいと思ったことなんてなかったのに。
なんて気持ちがいいんだろう。
(今日のこと、一生忘れないわ……)
言葉が出ないほどの余韻が押し寄せてきて、深い心地よさに浸る。
しばらく呆然とした後、ふとアルミオと目が合った。アルミオの深い蒼色の瞳が、シャンデリアの光でキラキラと輝いているみたいで、目が離せなくなる。
ふ、とアルミオは優しく微笑えんだ。セレスティアもつられて笑った。
「……すごく、楽しかったね」
「ああ、本当に。セレスとやっと踊れて、よかったよ」
「……私も」
笑うと気持ちが緩んでしまったみたいで、つい本音がこぼれ落ちる。
その瞬間、セレスティアの胸に押し寄せたのは、嬉しさと切なさだった。魔法はとけ、夢のような時間は終わってしまった。それでも最後に、こんな風にアルミオと踊ることができて本当によかった。そして――。
こんな日はもう二度とこない。
ただ、一つだけわがままを言うなら……。
これから彼が誰の手を取り踊ったとしても、今日2人で夢中になって踊ったことを、少しでいいから覚えていてほしい。心の中でそんな風に願った。
2曲目の音楽が始まる前に、アルミオは小声で言った。
「少し、風に当たろう」
セレスティアは素直に頷いた。
身体中を包んだ熱が、まだ冷めない。きっとアルミオも同じなのだろう。
そのままゆっくりと手を引かれ、誘われるように、セレスティアは広間の外へと連れ出された。
「それ、貸して」
アルミオが、セレスティアの髪を留めていたリボンをほどく。白銀の髪がはらりと広がった。
階段に腰掛けるよう促されて座ると、取ったリボンを壊れかけのヒールに巻きつけてくれる。
やっぱりアルミオは、気がついていたから転ばないように抱き上げてくれたらしい。
何も言わない彼の優しさが心に沁みた。応急処置だけれど、おかげで随分と歩きやすくなった。
大広間の裏側にはカユラ王城自慢の庭園へと続く石畳の道になっている。
雨はいつの間にか上がっており、見上げると星の輝きが降り注いでいた。
夜の静けさに身を任せながら、2人は会話のないままゆっくりと歩き続けた。何も話さなくても、何かを話している以上に分かり合っているような、そんな空気があった。
ぬるい風が肌を撫ぜるのが、無性に心地いい。なんだか夢の中にいるみたいに、ふわふわする。
(私、いま、幸せだわ……)
いつのまにか周りは庭園へと変わり、甘い花の香りが包み込むように薫っている。
2人は色とりどりの花を横目に見ながら、庭園の奥へ奥へと進んでいった。
王国にとって、薔薇は大切な花だ。だからだろう、一番奥は薔薇園になっている。
四家門の象徴である白、赤、黒、青の薔薇たちの横を抜ければ、この庭園の最も奥、普段は立ち入ることすらできない花園にたどり着く。
王家の象徴、黄金の薔薇園――セレスティアが夢見ていた場所だ。
ついに訪れたその場所で、目の前に広がる光景に、セレスティアは呼吸を忘れた。
そこに咲いているのは、見たこともない金色の薔薇だった。
夜の静けさの中、花びらも、茎も、葉も、全てが黄金の光りを放ち輝いている。まるで、星々が地上で輝いているみたいに。
「……なんて綺麗なの」
ため息を、やっと吐き出した。
神々しくさえ感じる黄金の薔薇の前では、綺麗なんて言葉は、むしろ安っぽく聞こえるほどに。想像していたよりもずっとずっと美しい。
アルミオも初めて見るようで、しばし2人で、無言で薔薇に魅入っていた。
世界が2人だけになったみたいだ。
王国の建国神話に出てくるこの黄金の薔薇は、見た人は幸せになれると言われている。ただの言い伝えだろうと思いながらも、その言葉に今日ほど縋りたくなった日はない。
(本当に、幸せになれたらいいのに)
全てがうまくいけばいいのに。アルミオも、父上も、キキも、私も。
「ああ、本当に綺麗だ……」
アルミオは隣にいるセレスティアを見つめてそう言った。
薔薇のことを言っているはずなのに、夜風を浴びて冷めたはずの熱がまた、体を熱くする。繋いでいた手が強く、握られた。
「ねぇ、セレス」
いつもより真剣な声に、セレスティアもアルミオの顔を見つめた。
「小さい頃に、大きくなったら結婚しようなんて言ってたこと、覚えてる?」
もちろん覚えている。
アルミオの両親であるミレイヤおばさんとパトリックおじさんが亡くなる前、アルミオとは家族ぐるみでよく遊んでいた。
その時によくそんな話になっていた。子どもの時の笑い話のようなものだ。
「覚えているわよ。大人たちの言うことを2人とも素直に間に受けて。きっと可愛かったわよね。あり得ない話なのにね」
懐かしさに、セレスティアはくすっと笑った。あの頃は貴族の結婚が意味することなんて全く分かっていなかった。アルミオのことはもちろん兄妹のように大好きだったので、嬉しいと思っていたのだ。
純粋な子どもだった、でもそれが愛おしい。
「あり得ない話じゃ、ないよ」
「えっ?」
またいつもの冗談だろうか。
確かにセレスティアとアルミオは一度、結婚式まで行き着いた。そういう意味では2人の結婚は"あり得なく"はない。でもあれは、幼馴染として、パートナーとして共に歩むことを選んだだけだ。
アルミオから愛の告白を受けたこともなければ、そういう行為をしたこともない。セレスティアも、アルミオに対して幼馴染への親愛以上の感情を抱いたことはなかった。
それなのに。
アルミオは、髪をかき上げた。4年分幼かったはずの顔が、ほんのわずかに大人っぽく見える。そして真っ直ぐに、アルミオはセレスティアに告げた。
「セレス、僕は君のことが好きだ」
「アル……」
ずっとアルミオは自分を幼馴染として大切にしてくれているのだと思っていた。
でも、そんな風に特別に思ってくれていたのだろうか――
(いえ、そんなはずはないわ。だってアルはローザのことが……)
ぐいっと、腕を引かれる。その瞬間、2人の唇が触れた。一瞬のことなのに、唇から伝わった熱が全身を駆け巡る。
「君を、幸せにしたい」
その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになる。
駄目だと思うのに、嬉しいと思ってしまった。そんな自分にひどく驚いた。
「セレス」
どこまでも優しい声に、涙が一粒、セレスティアの頬を伝った。
それをアルミオが、指の腹でそっとぬぐう。
「答えは今すぐじゃなくていいから。待ってるから」




