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序章(2)

 湊の父は、結局葬儀の三日後には単身赴任先へと帰っていった。

 一人家に残された湊は、さっそく叔母の潤子に手紙を書いた。

 内容は、母が亡くなったこと。生前、家族の中で唯一、妹である潤子にだけは心を許していたこと。そして、できれば線香をあげに来てほしいこと。

 それらをしたためた手紙を、潤子からのハガキに書かれていた「萩倉村」の「川渕潤子」宛てで送った。

 それから、湊は夏休み中に入れていたバイトを店長に無理言ってすべて白紙に戻してもらった。

 澪子の遺品整理と、湊自身の心の整理のためだ。母親が自ら命を絶ったという事実は、今も湊の心に重くのしかかっていた。


 手紙の返事が来たのは、それからさらに一週間経った日の事だ。

 その日は激しい雨が降っていた。

 窓を閉めていても、ドドドッと雨が地面を打つ音が響いていた。

 澪子のいなくなった家は異様に静かで、湊はその日雨音で目を覚ましたほどだった。

 明かりのついていないリビング。朝食の香りのしないキッチン。朝の情報番組を見ていた澪子がいなくなり、実家のテレビは沈黙を守ったまま。

 流しには昨晩の洗い物がそのまま残されていた。

 それを横目に冷蔵庫を開け、すっかり何もなくなったがらんどうの庫内にため息をついた。

 もう、毎日の献立を考え、栄養バランスに気を配り、買い物をしてくれる人はいなかった。

 お茶のボトルも、昨日湊が一センチ残して戻した時の姿のまま。二度と勝手に補充されることはない。

 冷凍庫の氷トレーを引き出すも、氷の姿はどこにもない。

 自動製氷機の水を入れ忘れていたらしい。


 朝食を諦めた湊が洗面所に移動して、洗濯籠に溜まったままの洗濯物を見た。

 洗面台の下の棚を開け、洗濯用洗剤を何とか探し、洗濯物と一緒に洗濯機の中に放り込んだ。

 とりあえず電源を入れ、よくわからないままスタートボタンを押すと勝手に洗濯機が回り始めた。

 

 大学が始まるまでに、この生活に慣れなければ。

 それから、買い物にも。

 幸い、湊は運転免許を持っているし、父にも澪子が乗っていた軽自動車をそのまま使っていいと言ってもらえた。

 問題は、湊があの自動車に乗るのに気が進まないことだけ。

 母が自殺する直前まで乗っていた車。その事実が、湊の心を深く鬱々とさせた。


 だから、澪子がいなくなってから日課となりつつある郵便受けの確認をした時、そこに入っていた一通の手紙に湊は少しばかり気持ちが上向いた。

 湊は早速その手紙の裏面。送り主の名を確認し、動きを止めた。

 差出人が叔母の潤子ではなく「川渕航」という人物だったからだ。

 その文字は、悪筆の潤子とは比べ物にならないくらい綺麗な字体で書かれていたので、潤子が別人の名を騙って送ったわけでもなさそうだ。

 姓が潤子と同じ川渕であるため、親族なのだろう。しかし、湊の脳裏には「あの村が府大嫌いなの」と吐き捨てた澪子の姿がよぎった。

 祖父の名前は知らないが、もしこれが祖父の名前なら開けないほうがいいかもしれない。

 そう湊が悩んだのも一瞬のことで、結局手紙の封を切ることにした。




 手紙はまず、潤子本人からの返事ではないことの謝罪と、澪子の死を悼む文言から始まった。

 手紙を読み進めるうちに、どうやらこの『川渕航』という人物が潤子の息子。つまり、湊の従兄弟であるらしいということが分かった。

 しかし、澪子が亡くなってから時間を見つけては読んでいた潤子からのハガキたち。その中に、潤子が子供を出産したという話は欠片も出てこなかった。

 湊の名付けを任せるほどに仲が良い澪子と潤子の間柄で、潤子が自身の出産を知らせないことなどあるのだろうか?

 訝し気に思いつつ、しかし湊にはそれを否定するだけの十分な情報も持ち合わせてはいなかった。

 そのまま手紙を読み進め、湊は驚きに目を見開いた。


 手紙には、「母潤子は七月二十四日に自ら命を絶ちました」と、書いてあったのだ。

 

 曰く、萩倉村に流れる蛇岐川という川に身を投げ亡くなったらしい。

 そのため、本人が手紙の返事を出すことも、澪子に線香をあげに尋ねることもできないのだと。また、航もしばらく法事や祭事の予定があり村を離れられないそうだ。

 なんでも、本来九月十日に行う潤子の四十九日の法要を、半月ほど前倒しにして八月二十五日に執り行うらしい。また、その三日後の八月二十八日には村の伝統的な祭りである『巳薙祭』も催かれるそうで、是非それらに参加するために一度萩倉村に来てくれないか、という文言で手紙は締めくくられていた。


 手紙を読み終えた湊は、視線をリビングに置かれた母・澪子の骨壺へと向けた。

「……あれ?」

 銀刺繍の美しい白い骨覆い。その表面がくすんで見えた。

 湊は手紙をテーブルの上に置くと、澪子の骨壺のそばに寄った。

 その表面に手で触れて、眉をひそめた。

「……濡れてる。雨漏りか?」

 そう。布製の骨覆いがぐっしょりと濡れていたのだ。

 ここ数日、連日雨が降っていた。雨漏りでもしていたのだろうか。

 湊は不思議そうに天井を見上げるも、どこにも雨染みは見当たらない。

 澪子の遺骨が無事かを確かめよう。

 そう思った湊が骨覆いから白い陶器製の骨壺を取り出すと、その表面にまるで結露しているように水滴が浮かんでいた。理由はわからないが、骨壺の中と外に温度差が生じていたらしい。

 手紙の内容もあり、湊はまるで母が潤子の死を悲しんで涙を流しているかのような錯覚に陥った。

 湊は言いようのない気味の悪さを感じつつ、骨壺の周囲についた結露を拭き取ると、そのまま元あった場所に骨壺を戻した。

 骨覆いは乾かすために、その隣に置いた。


「萩倉村。母さんと潤子さんが生まれ育った村、か……」

 そういえば、そもそも興味がなくて調べたことがなかったが、萩倉村はどこにあるのだろうか。

 湊はスマホを取り出すと、地図アプリを開く。

 検索欄に『萩倉村』と入力すると、どうやら湊の住む尾根市とそう遠く離れていない。

 車で約一時間半。公共交通機関だと乗り換えの都合でその倍。三時間はかかるようだ。

 よくよく調べてみると、村へのバスは日に三本しか出ていないようなドがつくような田舎の村だ。

「蛇岐……ああ、だき川っていうのか」

 村の中心をうねるように分断するその川には、航からの手紙に書かれていた潤子の亡くなった川の名前が書かれている。


 何気なく、その川の先を辿っていく。

 指で地図画面をスクロールしていくと、蛇岐川は途中でもう一本別の川と合流し、その名前が変わる。その川の名前は。


「……緒瀬川」


 湊の母、澪子が身を投げた川の名だ。




 双子だと言っていた澪子と潤子。

 命日が同じ七月二十四日。

 死んだ方法は川への身投げ。そして、その川は繋がっている。

 潤子の息子だという『川渕航』からの手紙。

 澪子が「大嫌い」と語った萩倉村と、そこで行われる『巳薙祭』。

 結露の滲む澪子の骨壺。


 一つ一つを取り上げれば、とりとめのない事柄だ。

 しかし、それら全てが揃うと、妙な気持ちの悪さがこみ上げてくる。


 湿気で重たくなった空気の満ちる室内。

 バダバダと激しさを増した豪雨が絶え間なく窓を叩き、それ以外の音をすべてかき消してしまう。

 まるで、ナニか得体のしれないモノがじっとこちらを伺っているような据わりの悪さに、湊は急いで部屋の電気をつけ、梅雨の時期の部屋干し用にと買った除湿器の電源を入れる。

 気を紛らわせるために、その足でテレビのリモコンを手に取りニュースを付ける。


 ブオォンと低く響くモーター音。

 テレビのニュースキャスターがここ数日の大雨で地盤のゆるみや川の増水を警告する声。

 先ほどまでの薄気味悪い静けさが払しょくされ、湊はほっと安堵の息をつく。

 そして、湊は改めて潤子から澪子に宛てたハガキの山に目を向けた。


(母さんと潤子さんが死んだのには、何か理由があるんじゃないのか)


 潤子が澪子に送ったハガキをできる限り読んではみたが、そこに潤子が自殺をほのめかすような様子は一切なかった。

 澪子に関してもそうだ。

 二十四日の朝、湊はいつも通りの澪子と会話をし、バイトへと出かけたのだ。

 まさかそのわずか数時間後に自ら命を絶つだなんて、想像できないくらいいつも通りだったのに。


 突然家族を失った湊は、何か理由が欲しかったのかもしれない。

 母が、そして叔母が命を絶つに至った、何か明確な理由が。


 幸い、バイトのシフトは澪子の死以降すべて白紙に戻してもらった。

 萩倉村を訪れる時間の余裕はある。


 湊は、テーブルを広げたままになった航からの手紙に視線を向けた。




 数分後、湊は新しい便箋を手に取り、『川渕航』宛ての手紙を書き始めた。

 『叔母・潤子の法要の日に、萩倉村へ伺います』と。


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