序章(1)
令和七年七月二十四日。母が死んだ。
その日は最高気温四十度の酷暑日で、自転車を漕ぐ体からは滝のように汗が吹き出した。
大学生の日下湊は、夏休みだからとバイトの予定を詰め込んだことを後悔していた。
ジジジジジ、と油が跳ねるような蝉の声がやけに耳に残った。
家に着くと、すでにぐっしょり濡れたシャツで顔の汗を拭い、鍵を開けた。
珍しく母がおらず、カーテンの閉められた家の中は薄暗かった。
熱された空気が溜まった家の中はまるでサウナのようなありさまで、むわりとした熱気の中、湊はエアコンの電源を付けるとそのまま扇風機の前に座り込んだ。
胡坐をかいた太ももが、ぺたりとフローリングに貼りついた。
母はいつ帰るのだろう。
そう疑問を浮かべた湊がふと時計を見ると、午後四時を指していた。本来ならば、母もとっくにパートから帰ってきている時間帯だった。
一瞬の思考をさえぎるように、ここ数年ほとんど置物と化していた固定電話の電子音が鳴り響いた。
しぶしぶ立ち上がり、扇風機の前から移動した湊がディスプレイを確認すると、末尾が100。つまり、警察からの電話であることを示していた。
母に何かあったのだろうか。
湊は一抹の不安を覚え、日に焼けて黄色く変色した受話器を持ち上げ、電話に出た。
『尾根警察署の者ですが。日下澪子さんのご家族でしょうか』
「……はい。息子の日下湊です」
エアコンがゴウゴウと冷気を作る音と、扇風機の控えめなモーター音。
窓越しに聞こえる耳を劈く蝉の鳴き声。
電話越しの声が、やけに遠く聞こえた。
『本日、14時ごろ、日下澪子さんが緒瀬川で意識を失った状態で発見され、その後搬送先で死亡が確認されました。ご足労をおかけしますが、署までお越しいただけますか?』
未だ吹き出し続ける汗が、ぽたりとフローリングの上に落ちた
昔、湊は母に、なぜ自分には祖父母がいないのかと聞いたことがあった。
父方の祖父母は湊がまだ幼い頃に亡くなっていた。なので、母方の祖父母についてはどうなのかと尋ねたかったのだ。
しかし、母が湊の質問に鼻の頭にしわを寄せ、吐き捨てるように「母さんね、あの家が大嫌いなの」と言っていたことを、今でもよく覚えていた。
湊は、子供ながらに二度とそのことに触れてはならないのだと悟った。
警察署の遺体安置所で、湊は変わり果てた姿の母と対面した。
人の形は保ってはいるが、肌が水を吸い白くふやけていた。特に、先端に位置する唇や鼻、耳といった部位は触らずともぶよぶよとしていることがわかった。
心なしか膨張して垂れた輪郭線。黒く美しかったはずの髪は、まるで水草のようにぺとりと顔に貼りついていた。
かつての美貌はすでになく。しかし、その顔立ちは間違いなく湊の母親である澪子のものだった。
「……母です。間違いありません」
絞り出すような湊の声に、澪子よりも少し上くらいの壮年の警察官は痛ましそうに表情をゆがめ、再び遺体の顔を布で覆った。
「ご協力感謝します。体調など、ご無理はなさらないでください」
「いえ……。その、父は単身赴任中で、何をすればいいのか……」
「必要な手続きについてご説明いたします」
案内された別室で、警察官の声が右から左へと流れていった。
まさか、こんな形で母親と永遠の別れが訪れると思ってもみなかった湊は、ただひたすらに警察官からの説明に頷くことしかできなかった。
湊からの連絡を受け、単身赴任中の父が飛ぶように帰ってきたのはその翌日の事。
湊は父と再び警察署を訪れ、詳しく澪子が亡くなった日の説明を聞くことになった。
小さな小部屋に通され、担当の警察官は父に向って澪子が今朝早くに行政解剖に回されたと説明した。
湊は一瞬「行政解剖」という言葉に愕然とする。
同じく父も一瞬顔を曇らせたが、すぐ冷静に「そうですか」と応じた。
自身の母親の体が、死してなお傷つけられる。その事実は湊の心にずんと重たい石を乗せたような心地にさせた。
だが、それで澪子が死んだ理由がわかるなら。それは湊も父も同じ気持ちだった。
続いて警察官はタブレットを取り出すと、ある映像を湊たちに見せながら説明を続けた。
「これは、奥様が発見された川からほど近いスーパーの駐車場を映した監視カメラの映像です。奥様は駐車場に車を停められた後、そのまままっすぐに川の方向へと向かわれているのが確認できます」
その映像の場所は湊も見覚えがあった。
自宅から近く、冷凍食品が安いのだと、そう母が語っていた記憶がある。
平駐車場で、周囲をさえぎるものはなにもない。
監視カメラには、見慣れた古い軽自動車を運転してきた澪子が、車を停めるとそのままスーパーではなく敷地外へと出ていくところが鮮明に映し出されていた。
「この後、奥様は橋の欄干に自ら、川に身を投げられました。何か、心当たりはありませんか?」
警察の言葉の意味が一瞬わからずフリーズする湊。
その横で、父親がらしからぬ声をあげテーブルを叩いた。
「妻が自殺などするはずがない!」
バンッ!と大きな音が鳴り、湊もびくりと体を跳ねさせた。
そして、それと同時に『母親が自殺』という言葉の意味をようやく理解することができた。
「一昨日の晩も妻とは電話をしました!だが、そんな、自殺をするような様子はなかった!」
ともすれば、泣いているのではないかと思えるほどの父の叫びに、湊は思わず向けていた顔を警察官の方へと戻した。
すると、警察官が湊にも問いかけるような視線を向けていることに気づき、慌てて首を横に振った。
「あ、俺も、母さんがそんなことするなんて、信じられないです……。バイトに行く前に会いましたけど、そんな……、いつも通りで……」
「失礼ですが、ご主人と離れて暮らされていることを気に病んでいらした様子などは?」
「まさか!ないです!」
慌てて否定する俺の様子に、警察は険しい顔のまま、言葉を選びながら話をつづけた。
「川の近くに設置された監視カメラが、奥様が自ら橋の欄干を乗り越え飛び降りた一部始終を映しています」
「嘘だ!」
思わず、と言った様子で絶叫する父の様子に、警察官は重い息を一つついてから口を開いた。
「……通常、ご遺族の方にお見せするのはあまり勧められていないのですが、私からの言葉だけでは受け入れられないでしょう。ですので、奥様の最期の状況が映った映像を、少しだけお見せします」
警察官はタブレットで何か操作をすると、その画面を見やすいようにと湊たちのほうへとくるりと向けた。
恐らくスーパーのある方向からだろう。画面手前からまっすぐやってきた澪子は、画面奥に見える橋の中ほどで足を止めた。
そして、じっと川を見下ろしたかと思うと、おもむろにその欄干に乗り上げたのだ。
澪子に気づいた周囲が驚き、遠巻きからその様子を見ていた。
一人が近づき、何やら澪子に声をかけた。その身振りから、どうやら危ないから降りて来いと言っているようだ。
数分、いや。実際にはもっと短いのだろう。母がおもむろに足を踏み出そうとした瞬間。警察官が湊たちから隠すようにタブレットの向きを変えてしまった。
しかし、今の映像だけで、湊も父も、嫌でも理解できた。澪子が自らの意思で死んだのだと。
「……この後、奥様は自らの意思で、川へと飛び込まれました。目撃者も複数います。争った形跡は一切なく、司法解剖の必要もないと判断しました」
「なんてことだ……」父は顔を覆い、体が震えだした。「とりみだしてすみません。いえ、我々も、寝耳に水の出来事で。妻は明るく、昨日電話した時もそんな様子は少しも……」
警察官は父の言葉に静かに頷いた。
翌日、警察から行政解剖の結果、澪子の体から特におかしな点は見つからなかったと連絡が入り、父は酷く落ち込んだ様子で澪子の死亡届を提出し、火葬許可証を取得した。
父の実家は尾根市から遠く、元からそこまで交流があったわけではない。葬儀は最低限の規模で、参列者は父と湊のみで執り行われた。
警察署からの電話を受けてわずか一週間。澪子は小さな骨壺に入った状態で、ようやく家に帰ってきたのだ。
澪子の死から、ずっと憔悴しきっていた父親は、葬儀という一区切りを終えて気が抜けたのか、その日は部屋でいびきをかいて眠っていた
扉越しにガーガーとうるさいその音を聞きながら、湊は「あ」と小さく声を漏らした。
「潤子さんに、連絡しなきゃ」
生前、澪子は潤子のことを双子の妹であると湊に言って聞かせたことがあった。
湊自身が潤子と面識があるわけではないが、家のことを大嫌いと言っていた母が唯一明るい笑顔で語ってくれた人物だったので、その名前だけはよく知っていた。
湊の知る限り、澪子と潤子が直接やり取りしていた様子はなく、ただ季節ごとのハガキでのみやり取りを続けていたようだった。
そして、湊はそのハガキを澪子が大切そうにお菓子の空き缶に保管していたことをふと思い出したのだ。
あまりにも突然過ぎた澪子との別れに、湊は今日一日ずっと何をするでもなくぼうっと骨壺を眺めることしかできなかった。
なぜ母さんは死を選んだんだろう。
母さんは、死ぬまでの間水の中が恐ろしくはなかったのだろうか。泳げもしないのに。
湊の頭には、ずっとそんな考えが渦巻いていた。
しかし、ここにきて『しなければならないこと』を見つけたことで、ようやく湊は動き出すことができたのだ。
澪子の部屋には、今父親が眠っていた。
なので、湊はその父親を起こさないよう、静かに戸をあけて澪子の部屋に入った。
遺品整理など手つかずの部屋には澪子の気配が色濃く残っていた。
今にもひょこりと顔をのぞかせ、「あらやだ。お父さん帰ってきてたの?」なんて声が聞こえてきそうだ。
湊はそんなことを考えながら、部屋の押し入れに手をかけた。古い押し入れ特有の、防虫剤と衣類や古紙の香り。香水をつけない澪子は、これに洗剤と柔軟剤。それから汗の交じった臭いを、いつも身に纏っていた。
ツンと目頭から涙が零れ落ちそうになった湊は、咄嗟に指で目頭をつまんだ。
湊は、まだ自身の母の死を受け止めきれていないのだ。
今はそれよりも潤子さんへの手がかりを見つけなければ。
湊はその一心でなんとかこぼれそうな涙を押さえつけた。
父親が眠っている以上、部屋の電気をつけることははばかられた。かといって、廊下からわずかに漏れ入る灯りだけで暗闇の中特定の何かを探すことはあまりにも難しい。
ポケットから取り出したスマートフォンのライトをつけると、あまりの白さに一瞬目を眇めた。
すぐに明るさに慣れた目を開くと、雑多なもので詰まった押し入れが目に入った。
「母さん……、なんでも取っておく人だからな」
思い出に浸りたい気持ちもやまやまだが、今は潤子と連絡を取る手がかりを見つけなければ。
そんな使命感にも似た思いから、湊は押し入れの中のものを一つずつ静かに確認していった。
どれほどかかったのだろうか。しかし、湊はついにハガキが収められたお菓子の缶たちを見つけることができた。
押し入れからは、いくつものお菓子の缶が見つかった。
おかきのラベルが貼られた一斗缶にぎゅうぎゅうに詰まったハガキを取り出すのは骨が折れる。比較的小さく、しかしところどころに錆の浮いた年季の入ったクッキー缶を手に取り、開ける。
恐らく、澪子が家を出てからずっとやり取りをしていたのだろう。はがきの一枚を手に取ると、紙が日焼けで黄色く変色している。
潤子の文字は、お世辞にも綺麗とは言えず、良く言えば味のある、言葉を選ばずに言えば悪筆と言わざるを得ない。
書道を習っていた澪子の整った文字とは比べる以前の問題だ。
しかし、その内容はどこまでも姉である澪子を気遣うもので、湊は自身の母と叔母の絆に自然と顔から笑みがこぼれた。
ふと、一枚のハガキが目に入る。
日付は二十年前の、湊が生まれる数か月前。ハガキを彩る文字の中に、自身の名である「湊」を見つけ、それを手に取り読んでみる。
「……『姉さんの子供の名前を考えてみたの。姉さんみたいに人が集まってくるような人になってほしいから『湊』なんていう名前はどうかしら?』か。潤子さんが俺の名前を考えたんだ」
思わぬ真実に、湊の心にある一つの願望が沸き上がる。
「……潤子さんに会えないかな」
湊は、父に「ここでの手続きをすべて終えたら単身赴任先へ戻るが、ついてくるか?」と聞かれたことを思い出す。
しかし、湊には大学があるし、そうなればいずれはまた一人でこの家に戻ってこなければならない。
その時、たった一人でこの母の気配が色濃く残る部屋を片付けることができるだろうか。
それならば、いっそこのまま澪子の遺品整理をしながらゆっくり母の死を受け止めるほうがましかもしれない。
そんなことを考えていた湊の元に、もう一つの選択肢が現れる。
潤子さんに会う。
一緒に母の死を悼み、悲しみ、もしかしたら遺品分けの名目でこの部屋を片付けるのを手伝ってもらえるかもしれない。
そんな、甘えにも似た願望が沸き上がる。
何はともあれ、その潤子と連絡が取れなければ意味がない。
湊は早速ペンを取ると、ハガキに記載された住所あてに手紙を書き始めるのだった。