第三話 焔の少女 -弐-
少女は洞窟を見つけた。
その奥で動物の巣の跡のような、枯れ木の塊も見つけた。
枯れ木の塊に火をつける。消えかけていた火が炎となって燃え盛る姿に、ほっとして息を吐いた。
だが、それだけだ。
枯れ木の塊もやがて燃え尽きる。裸足で駆けた足は傷だらけだ。
食料も水もない。下手に洞窟から出れば男たちに捕まるかもしれない。
炎を見つめているうちに、いっそこの火に身を捧げ、共に果てようかという気分になる。
炎から、強い拒絶と、憂慮の感情が伝わってくる。
大丈夫、そんなことはしない。まだ。
足からの出血のせいか、頭が鈍ってきた気がする。
このままではいけない。せめて水だけでも確保しないと。
そう思い、少女が立ち上がりかけた時、外から足音がした。
咄嗟に身を隠そうとし、隠れる場所などないことに気づく。暗くする為に火を消すことなど論外だ。この火は自分の命よりも尊い存在。失くせるはずがない。
枯れ木の端をつかむ。
襲ってきたら突き付けてやる。そう思い、身構えていた。音の先を睨みつける。
闇の中から、男が現れた。見知らぬ男だった。
背の高いその男の影が、洞窟の壁に揺らめいた。
頭巾つきの外套を羽織っていた。外套は継ぎ接ぎだらけで、色違いの布まで貼ってある。頭巾は被っておらず、黄色と黒の、斑色の髪が炎に反射して光っていた。そして瞳。黄色と黒。左右の瞳の色が異なっていた。
少女は震える手で枯れ木を掲げた。恐怖を押さえつけ、男を見つめる。
「やあ」
声は穏やかだった。少女が想像した脅しでも威嚇でもない。まるで古くからの知人に話しかけるような口調。それが余計に不気味だった。
「洞窟内で火を焚くのはお勧めしないよ」
男は優しく言った。
「近づかないで」
細い、掠れた声しか出なかった。
「あいつらの、仲間か?」
「私は誰の仲間でもない。ただの旅人だよ」
男は立ち止まり、ゆっくりと両手を広げた。色の異なる左右の瞳が、火に揺れている。悪意は感じなかったが、油断など出来るはずがなかった。
「火は、木を食べるだけではない。空気も食べるんだ。私たちの呼吸に必要な空気だよ。頭がぼうっとしないかい。空気が少なくなっているせいだ」
ここを出よう、と言い手を伸ばしてきた男に、少女は枯れ木を振り回した。先端には火がついている。
慌てて、男が手を引っ込める。
「せめて手当をさせてくれ」
男が少女の足を見て訴える。次いで、火の方に目を向けた。しばしの無言の後、腰の油燈を外し地面に置いた。
「この枯れ木では、火勢が強過ぎる。空気も多く使ってしまうし、枯れ木もすぐなくなるだろう。これなら、まだ油も十分ある」
男の口調が、いっそう優しくなった気がした。その言葉は少女へだけではない。火の中、少女の愛しい存在へも向けられていた。
まさか。少女は驚きに声を震わせた。
「おまえ、見えるのか?」
「君を心配している。それは伝わるよ」
男が油燈ランタンの覆いを開けると、火が蛇のように宙をうねり、油燈ランタンに収まった。驚く少女に、男は水筒を渡した。
「まずは水を飲むんだ。ゆっくりとね。次に足の治療。その後で話をしよう」
男はタイカと名乗った。《物語り》だという。
「《物語り》って?」
タイカは微笑み、袋から何かを取り出すと掌を開いた。様々な形の種が並んでいる。
「これは北の村で得た種。こちらはまた別の村で得た種だ。それぞれの村では、小さな実しかつけなかったけど、別の村では大きく育った」
「そんなことが?」
「種や土、気候にも相性があるんだ。育て方も違う。そうして様々な場所に知識を撒く」
「それが《物語り》?」
「私などは、まだまだだけどね。もっと多くを撒き、広めている人もいる」
どこか、遠くを見るような目でタイカが言った。
火も大人しい。怒りや憎しみも感じない。何よりタイカの、火を見つめる視線は優しい。
「とりあえず、安全な場所へ行こう。数日歩くことになるけど、知り合いの居る村がある」
「……」
少女は何も語らず、無言で頷いた。タイカも追求しない。
タイカは背嚢から厚布を取り出し、手当した少女の足に巻き付けた。靴の代わりである。
「歩けるかい。無理そうならおぶるけど」
「歩ける」
少女は立ち上がった。多少痛むが、この程度の痛みなど慣れている。
そうか、とタイカもそれ以上は言わない。油燈ランタンは、少女に持たせてくれた。
洞窟を出る。日は大分傾いていた。空が赤い。夕刻なのだろう。
「少し歩くと、池がある。今夜はそこで休もう。焚火で何か暖かいものをつくろう」
幸い火種には困らない、とタイカが笑った。
夜が更けていた。池の岸辺で焚火を囲み、タイカが差し出した食事──干した果物を少女はまだ手に取れないでいた。
「毒も、悪いものも入っていないよ」
タイカはひと口千切って、食べて見せた。
「ほらね」
ほらね、と言われても。少女は戸惑った。優しい態度が自分を攫った男たち、そして知っている大人たちと違いすぎる。
「なんで、助けてくれたの?」
何を望んでいるのか、どんな見返りを求めているのか少女には分からなかった。
「昔ね、私も助けてもらったことがあるから。それに」
焚き火を見つめ、タイカが微笑む。
「君の火。私たちは精霊と呼んでいるけど、そのひとも心配している」
同意の感情が、焚火の中から伝わってくる。間違いなく、タイカは少女の愛しい存在が見えている。見えているばかりではない。思いを聞き、何より寄り添おうとしてくれている。
少女の心の中に、少しだけ暖かさが生まれた。ためらいながらもそっと手を出す。タイカは微笑み、干し果物を少女の掌に乗せた。
口に含む。甘さが舌に広がった。
「良かった。口に合ったみたいだね」
タイカが微笑む。優しい表情だった。
「こんなの」
思わず、つぶやいてしまった。
「知らない。優しくしてくれたのも、助けてくれたのも、私の火だけだった」
少女の瞳が、焚火の炎の向こうを見つめる。遠い記憶の中へと。
少女は奴隷だった。
「おい」「そこの娘」と呼ばれることも、床で眠ることも、少女には当然のことだった。他の生き方など知らない。ただ、毎日同じことの繰り返し。掃除をして、薪を運んで、言われたことをする。それだけが、少女の知る世界の全てだった。
そんな彼女に与えられた唯一の、彼女だけの役割が火の番だった。
『火は神聖である』
そう教えは説いていた。かつて火の番は館の主かその跡取り、一族の選ばれた者だけが担う崇高な務めだった。だが──。
「火の番など、熱いばかり。そこの」
と、主の息子が少女を指さす。
「娘にでも。奴隷にでもやらせればいい」
主は僅かに躊躇した後、了承した。主の手には古い火傷の跡があった。火の番の名残であり、我が子に辛い役目を押し付けるのも気が引けたのだろう。
そして選ばれたのが、少女だった。奴隷の身である。否が応でもない。
だが、少女は内心喜んでいた。
初めて「自分だけの」何かを与えられた。火の番は少女だけの仕事。誰も代わってくれないし、誰にも邪魔されない。炎を見つめる時間だけは、完全に少女のものだった。
美しい、と思った。こんな感情を抱いたのは初めてだった。形を変え続ける炎は、少女が知る唯一の「変化」だった。毎日が同じ無色の世界で、炎の赤と橙だけが輝いていた。
その輝きの前には、肌をひりつかせる熱さも飛んできた灰で火傷を負うことも気にならなかった。
だが、そんな少女の姿が主の息子の気に障ったようだった。
理由など分からない。弓を握り足音高く館へ戻ってきた姿からすると、狩りが不調だったのかもしれない。
「気に入らない」
主の息子はつぶやき、少女の腕を捻り上げた。
「なら、もっと火と仲良くしてみるか」
そう言い放つと、彼は少女を暖炉の中へ放り込んだ。灼熱が少女を包んだ。声を上げる余裕もない。いや、余裕があっても声など出さないだろう。自分は死ぬのか。そんな諦観だけが少女の心を占めていた。
──違う。
ほんの僅か、心残りがあった。火だ。火をもう見ることが出来ない。あの美しい姿を、まだ見ていたかった。だけど、その火に包まれて死ぬのだ。なら、これでいいのかもしれない。
──違う。私も君と一緒にいたい。生きて、君と。
そう考えた瞬間、熱い痛みが消えた。
──だから、君を守る。
火が、少女を薄衣のように包んだ。螺旋を描いた炎の先端は、主人の息子に向いていた。そして──。
絶叫が響いた。主の息子の喉から。
頬を抑え、主の息子が床を転げ回る。
「おまえ。おまえみたいな、奴隷風情が」
主の息子が少女を睨みつける。彼の絶叫を聞きつけ、主とその側近たちも部屋へ飛び込んできた。
側近のひとり、老年の剣士が少女に切り掛かったが火が渦巻き剣士を弾き飛ばした。
「止めよ。手を出すな」
主人が止める。次々と起きた衝撃的な出来事に、少女の精神は限界を迎えつつあった。
薄れゆく意識の中で最後に見たのは暖炉の上の鏡。鮮やかな赤色に変わった自分の髪と瞳だった。
「その後、館の部屋に閉じ込められた。仕事もしなくてよくて、食事も見たこともない豪華なものになったけど、館の人たちはみんな怖がった。私を見るたび、怖い顔をした」
タイカは何も言わない。穏やかな瞳で少女を見つめ続けていた。
「でも、ある時食べたものから変な味がして、どんどん気持ち悪くなって。気を失って」
気づいたら森の中、荷台で運ばれていた。
少女は、大きく息を吐いた。長い話を語った為か、ひどく疲れた気がする。こめかみの辺りにも鈍い痛みがあった。
「喉が乾いただろう?」
タイカが湯気の出ている杯を差し出した。僅かに緑の色がついている。鼻を抜けるような香りがした。
「心を落ち着かせ、体力も回復してくれる」
うなづき、受け取る。口に含んだ。少し苦味があるが、苦味が消えると不思議な爽やかさが口内に残った。
「今は眠りなさい。私と君の火が、番をするから」
優しい言葉が耳に響く。疲労と、そして緊張が解けたせいか眠気が強い。閉じゆく瞼に何かが触れた気がした。冷たい感覚と、それを拭う指。
冷たい何かは、涙?
私は、泣いていたの?
じゃあ、それを拭ってくれたひとは──。
そんな疑問を抱きつつ、しかし既に朦朧としていた少女の意識は緩やかに沈んでいった。