第二話 祝り -弐-
その日、アガネは村の子供たちに文字を教えていた。
子供たちの教育は、社を守り祭祀を務めるアガネの役割のひとつであった。 豊かな畑を得た代わりの役割といっていい。
この役割を、アガネは気に入っていた。隣に立つ精霊が、子供たちの元気な姿を見て喜んでいることを感じるから。
木の枝を筆替わりにして、地面に文字を書いて皆で音読する。紙は貴重品だから滅多なことでは使えないし、練習の度に木版の表皮を削っていても手間だ。文字ひとつひとつを読んだ後は文章だ。歌のことも多い。子供たちも子供たちで仕事があるのだから、学びに来られる子らも数人が良いところだが、今日は多い。村の空に響く子供たちの歌声が、空気を一層澄んだものにしてくれるような気がした。
授業がひと段落し、子供たちがそれぞれの仕事に戻る中、ひとり残った女の子がいた。今日は仕事がないので、もっと文字を教えて欲しいと、その子は言った。
エキという名のその子が、アガネの裾をつかんでねだる。隣に居た精霊と一瞬重なるが、精霊がそっと間を開ける。精霊を見ることが出来れば、まるで子供を挟んだ夫婦のように見えるだろう。
そう、見える者。アガネがそうだった。そんな連想をしてしまい、何故か気恥ずかしくなる。
気を取り直し、エキと二人して地面にしゃがみこみ、文字を描く。エキに教えるのは、絵のようにやや複雑な、難しい文字だ。エキは勉強熱心な子で簡単な文字は習得済みである。エキだけに教えるなら、こうした難しい文字が良い。エキも新しい文字に目を輝かせていた。
生徒が熱心なら授業にも熱が入る。
「エキ」
声にふたりして顔を上げた。気付けば日も大分傾いてた。
声をかけてきたのは、ややふくよかな、優しい面差しの女性だった。
エキの母である。そして寡婦であった。
エキの父は数年前に死んでいた。村の家畜を狙って入りこんだ狼たちを追い払おうとして怪我を負い、その傷が死因となった。勇敢な男だった。傷を負ったのも村の仲間を庇ってのことだった。
元々の蓄えもあり、また村の財産を守って死んだ男の家族なのだ。エキもエキの母も村で守ろうと、エキの父の墓前で皆が誓いを立てた。
無論アガネも同じ思いなのだが、エキはともかく、エキの母はどうにも苦手だった。エキの父も母も、アガネにとって知らない仲ではない。幼馴染で、兄と姉のようなものだった。
子供の頃は畑仕事でも家畜の世話でも一緒だった三人だったが、アガネが《祝り》となると会う機会はめっきり減った。自分の後継にしたいと長老がアガネを養子に望み、長老の子として生家から移ったからだ。
それから関係が復活したのは、エキの父母が結婚し、アガネも自分の畑を貰い、長老の子というより補佐役としての立場を確立してからだった。
エキの父とはすぐに旧来の関係を取り戻し、俺、お前と呼び合えるようになった。しかしエキの母は、アガネの知る少女ではなくなっていた。アガネはその変化に戸惑い、以来距離感を掴めずにいた。
「この子は、遊んで回るよりこうして学ぶ方が好きなのね」
「昔の君とはまったく違う」
「そうだったかしら。まあ、あの人には似ていないわよね」
エキの母の言うあの人、とはエキの父のことだろう。
「そうだな。あいつなら暇さえあれば棒切れを振り回していた」
「それが豚の尻に当たって、豚が暴れて大騒ぎになったこともあったわよね。全く、私やあなたまで怒られて、とんでもない迷惑だったわ」
楽しそうに笑う彼女の横顔を見て、アガネの胸が痛んだ。幼い頃一緒に過ごした三人。その中のひとりがもういない。
哀しいのだ。それなのに、なぜか彼女を見ると胸の痛みとは違う、靄が掛かったような感覚になる。
「さあ、お母さんがお迎えにきたぞ」
まだ教えて欲しい、とねだるエキを立ち上がらせ、エキの母に押しつける。
「ありがとう、アガネ。またね」
手を繋いで帰る母子に、つい手を伸ばしかける。そんな自分に気づく。
何をやっているんだ。
自身の行動に戸惑うアガネを、精霊が見つめていた。アガネ以外は見ることの出来ない、精霊のその顔には、眉をひそめるような、微笑んでいるような、奇妙な表情が浮かんでいた。
その日の夜は雨だった。
食事を作る気になれず、アガネは村で唯一の食堂に来ていた。酒場も、雑貨屋も兼ねている。
昼のことを思い出し、麦粥を匙で掬っては落としてる。どうしたんだい、と台所から食堂を切り盛りしている老婆が声をかけてくる。
「どうもしないよ」
気のない返事を返す。
「そんな様子じゃ、精霊様も心配するんじゃないかい」
「平気だよ。別に病じゃないんだ。俺が本当に病気だったら、気付かないはずがない」
隣の椅子に座っている精霊を上目使いで見る。微笑む精霊に、何故かアガネは視線を落としてしまう。
何だろう、後ろめたい思いなんてないのに。
と、その時。外から水を弾くような音が聞こえてきた。
扉を開けて、男が入ってくる。
背は高く、体も大きい。色違いの布や革があてがわれた、継ぎ接ぎだらけの外套をまとっている。肩口当たりの布は最近縫い付けたのか、白さが目立っている。
男が、雨に濡れて重そうな頭巾をめくった。
アガネは驚いた。男の髪が自分と同じ、麦穂のように黄色かったからだ。
いや、違う。
食堂の灯火に黄色い光が反射したが、よく見ると黄色い部分と黒い部分が斑になっていた。そして瞳。片方は自分と同じ黄色。しかしもう片方は黒い瞳だった。
奇妙な男だった。髪だけなら染めることも出来るだろうが、瞳は色を変えることなど出来ない。
変えることが出来るのは精霊だけだ。
男と、驚いているアガネの目が合う。男は何やら照れたように会釈した。ここは宿ですか、と老婆へ男が尋ねる。
宿ではないが部屋ならあるよ、と老婆が答える。老婆も最初驚いたようだが、人好きのする男の様子に警戒心を緩めたようだ。
だが、アガネはそうはいかない。見ない顔、つまり余所者でこの容姿だ。
「あんた、どこから来たんだ」
何となく棘のある言い方になってしまったが仕方ない。
「西の村から来ました。とはいえ、そこの生まれではないのですが」
タイカといいます。そう名乗った男は、自身を《物語り》だと言った。
《物語り》
村々を巡り、知識や知恵を交換、伝導する者。村に時折訪れる商人たちのように物品は扱わず、農耕や薬草、家畜などの知識や知恵を交換するのだという。
「あとは種ですかね。穀物や野菜の」
そう言って懐から幾つかの種を取り出して見せる。
「《物語り》さんかい。私が見たのはもう何十年前になるだろうねえ」
「この村に来たのは、初めてですね」
外套を脱ぎ、その下に背負った背嚢を降ろす。大きな体に見えたのは背嚢のせいで、思ったよりは細かった。
アガネの左隣の席に座る。腰の油燈を外し卓に置くと、布を取り出し拭い始めた。
「随分と、いかつい油燈だねえ。まあ油燈なんて滅多に見ないけど」
「年代物なんですよ」
老婆と談笑を始めるタイカを、アガネは胡乱な思いで見つめていた。
《物語り》という存在は聞いたことがある。見せてくれた種も、この辺りにはない種類だ。腰の二振りの剣も旅の自衛の為ということなら納得しよう。
だが、いかにも怪しい。
男は、最初右隣の椅子に座ろうとした。だが、途中で手を引き左隣に座った。アガネの右隣には精霊が座っていた。この土地の精霊。アガネにしか見えないはずの精霊が。黄色い髪と瞳は土地の精霊の祝福だ。確かにタイカは、半ばとは言え黄色い髪と瞳をしている。だが精霊、特に土地の精霊は契りを結んだ《祝り》にしか見えない。
火の精霊なら宿った炎、氷の精霊なら霜や吹雪によって自らの姿を表現するかもしれない。だが、土地の精霊はそんなことはしない。土くれを隆起して姿を造るようなことはしない。アガネが他所の土地に行ったとして、土地に精霊がいたとしても、その精霊は見えないだろう。
だがこの男、タイカは精霊が見えるかのように振舞った。
「あんた、このひとが見えるのか」
「あなたはこの土地の《祝り》ですよね」
質問に質問で返されてしまった。この髪と瞳の色だ。《祝り》の知識がある者であれば判るだろう。
「そこの椅子は丁度、人が座っているように引かれていました。そしてあなたは《祝り》だ。なら」
そこに精霊が居るのは自明の理でしょう、とタイカは答えた。
自明の理とは、村では長老しか使わないような言い回しだ。
「なるほど。頭が回るんだな」
「そんなことは」
「知識が欲しいなら、俺と交換しよう。俺は《祝り》で、長老の養子だ。このひとと長老と、両方から知識を授かっている。あんたの知識を教えてくれ。それが村の役に立つなら、俺も教える」
「勿論です。いや、私は運が良い。初めての村で、こんなにすぐに伝手を得るなんて」
疑問が溶けると、今度は知識欲が勝った。長老から得た知識は村の役には立っているが、共に語れるような相手は、それこそ師である長老しかおらず、しかも長老も齢には勝てず頭の働きが鈍ってきていた。
「まずは、この村の土の質と育ちの良い作物を教えてくれませんか。着いたのが夜でしかもこの雨です。まともに見ることもできなかった」
老婆が音を上げるまで食堂で話し続けた二人だが、それでも足りずアガネはタイカを自分の家へ誘った。
長老は血縁の家族と暮らしており、アガネは養子といっても今は独立して自分の家を持っていた。
話を続けたいとアガネは思ったが、夜まで歩き詰めで来たタイカの疲労の色が濃い。遅まきながらアガネは気づき、明日畑を案内する約束をすると、床に就いた。
翌朝、二人は長老の家へ挨拶に行った。タイカの斑髪に驚いた長老だったが、いくらかの知識と持ち込んだ種を披露すると、長老はタイカを歓迎する旨を伝え、同席していたアガネに接待役を命じた。
元よりそのつもりだったアガネは、早速村を案内した。
行き交う村人たちは、見知らぬ旅人が《祝り》であるアガネと同行していることを不審がり、その都度アガネが事情を説明する。
「お手数をかけてすみません」
「何、構わないよ。皆、《物語り》が珍しいんだ。商人ではない旅人なぞ、初めて見るだろうし」
「《祝り》を知らない村で、しかもこの髪や目だと呪いだとか言われて追い払われてしまうこともあるので」
「ああ、それは心配ない」
と、アガネは自分自身を指さす。
「前例があるからな」
「助かります」
「しかし、その髪と目。《祝り》ではないにしろ、地の精霊に所縁があるのかもしれないな」
「生まれた時からこの見た目なので。多少なりとも精霊のご加護があるのかもしれません」
生来の姿とは、昨晩も聞いた話だ。
なるほどなあ、と嘆息したアガネだが、不意に身を固くする。何事かとタイカがアガネの視線の先を追うと、そこにはエキと、エキの母が歩いていた。二人とも、両手に筵を抱えている。
そして二人とも、タイカの姿を見て驚いている。
「アガネ、そのひとは」
「昨日村に来た。村に益のある旅人だ。《物語り》というお役目の人だが、聞いたことはないか」
知らない、とエキの母は首を振る。だが、アガネが身元を保証したことで安心したようだ。
一方、エキはタイカを珍しそうに見ている。
「背の高いひと。髪も変な色ね」
「生まれつきなんだよ」
失礼だとアガネと、エキの母も叱ろうとするが、タイカが笑って止めた。変と思うことを変だというのは当然だ。そう話すタイカに恐縮し、エキの母は娘を連れて食堂へ向かった。筵を収めにとわざわざ言ってから、そして足早に去るあたり、余所者であるタイカとあまり関わりたくなかったのかもしれない。
「すまないな。エキが失礼な真似をして」
「気にしてないと言ったじゃないですか」
「悪い子じゃない」
「ええ、分りますとも」
「勉強熱心な子でな」
「大丈夫ですよ」
「だがな」
「ええと、もしかして」
なんだ、とアガネが聞き返す。
タイカが宙に目を泳がせた。傍らに立つ土地の精霊と目があったような気がした。だがタイカには見えないのだ。そんなはずがない。
「いえ。何でもありません」
私が口を出す話でもなし。タイカのつぶやきが聞こえたような気がしたが、追及する気にはならなかった。