第一話 物語り -終-
イムナは走った。
村の端、獣道とも言えないような森の隙間に飛び込んだ。月や星の明かりは木々の枝葉で遮られ、ほとんど暗闇のようになった森の中。木の根や草葉で足場も悪く走ることは出来なかったが、それでも進み続けた。息が切れ、進みたくても体力が持たず、とうとう木に背を預け、そのまま座り込んだ。
自分は何でこんなことをしているんだ。でも、あの場所には居たくなかった。離れたかった。
父母の種。自分を置いて逝ってしまった父母が残した、父母が生きた証。
それが、父母の知らない村で育っている。父母の苦労も知らない村で。
それが、許せなかった。
吐いた息が白い。思いは血を吐くようなのに、息は白い。
これから、どうしよう。
イムナは冷静になってきた頭で考えた。咄嗟に家を飛び出してしまったが、先のことは何も考えていなかった。
周りを見回した。夜の闇に慣れてきた目でも、暗くて一寸どころか半寸先も見えない。
相当に奥まで入り込んでしまったと思う。大人たちのいう、危険な場所まで来ているだろう。
じわり、と臓腑の底から恐ろしさが沸き上がってきた。動けなくなった。体力も尽きていたが、それ以上に暗闇への恐怖で身がすくんだ。
身勝手と思いながら、飛び出したことを後悔し、その後悔を打ち消そうとした。
もう自分の気持ちが分からない。
混乱する頭で、しかし暗闇の中にふたつの小さな、赤い点を見つけた時、イムナは疲れを忘れて立ち上がった。
赤い点。あれは松明の光ではないか。キサカイが、飛び出した自分を探しに来てくれたのではないか。イムナは進みかけ、足を止めた。
黒い霧のような、夜の帳の中から現れたのはキサカイではなかった。
人ですらなかった。
それは熊だった。赤い目は熊の双眸だったのだ。それも只の熊ではなかった。普通の熊は、闇の中で赤く目は光らない。毛皮の先が白く霜に覆われてなどいない。夜とはいえ、今はまだ秋に入ったばかりなのだ。霜が降りるほどの寒さではない。
その熊らしき獣が、イムナを見ている。
イムナは恐怖した。獣の目が、獲物としてではなく仇敵を見つけたような、憎しみをこめてイムナを見つめているような気がしたのだ。イムナは動けなかった。身をすくませる、ということを通り越し、息も止まるように、震えることさえ出来ないでいた。
自分は死ぬ、と確信してしまった。
この熊とも知れぬ白い獣に引き裂かれ、誰にも知られずに。そして忘れ去られるのだ。父母のように。
──違う。
そう、聞こえた気がした。
光が、イムナの目を覆った。
獣とイムナの間に、光が広がった。目を灼くような強さはない。包むような優しい光だったが、獣は怯み、よろけた。その光の中に、イムナはひとの横顔が見えた気がした。見たことはない。性別も分からないおぼろげな顔。
光の中の、そのひとと目が会ったような気がした。眉をひそめ、哀しげに、それでも微笑んだような気がした。
イムナを安心させるように。
直後、雄叫びが響き渡った。
同時に光が消え失せた。暗闇の中、獣の赤い双眸と、さらに赤く大きな光が獣の胸から飛び出していた。それは焼けた刃だった。肉を焼く臭いと煙が、傷口の周りからあふれ出ていた。
熱した血が地面に流れ落ち、煙を広げる。獣が暴れる。その背中に何かが取りついていた。継ぎ接ぎだらけの外套がひるがえる。
タイカだった。
獣の背後に忍び寄り、背中から剣を突き立てたのだ。
驚きに動けないイムナの腕が、引き寄せられた。暖かい、大人の体に包み込まれる。キサカイだった。片手でイムナを抱えたまま、後ずさる。もう片方の手には松明を掲げていた。この火でタイカの刃を焼いたのであろうか。
獣の抵抗は、激しいが短いものだった。焼けた刃で心の臓を突かれたのだ。即死してもおかしくないのに、あんなに激しく動けていたこと自体信じられないほどだ。
「刃を焼いていなければ、殺すことは出来なかったかもしれない」
獣が息絶え、獣を包んでいた霜が煙のように立ち上り、空へと消え去った後、タイカはつぶやいた。
その間、タイカは獣が斃れた後もキサカイとイムナには口と鼻を覆うこと、松明の光がかろうじて届く距離から近づかないように指示した。
「あれは、氷の精霊の残滓だよ」
氷の精霊。昼のタイカとの会話を思い出した。氷の精霊が憑りついた獣。ひときわ危険な存在。
《狂える獣》
倒れた獣の、鋭い爪を見て身震いした。あと少し、タイカの到着が遅れたら自分はあの爪に引き裂かれていた。
「だけど、命を断ち精霊が抜ければ、ただの獣に戻る」
タイカが安心させるように、穏やかな声で言う。
「夜が明けたら、皆に伝えてこの熊を運ぼう。精霊が抜ければ普通の熊だ。肉も皮も、有用だ」
「それよりも」
イムナが遮り、叫んだ。どうして来たんだと。
父母の居ない自分。キサカイにとっては血のつながらない居候。タイカにとっては、種を交換した夫婦の子供というだけだ。何の利益もない。
「おまえは、私の息子のようなものだよ」
キサカイが言う。息をひそめる様に。その声音に、幾分傷ついたような思いを感じ、イムナは恥じた。だが一方で、それも父母の種を引き渡したことからの罪悪感からではないか、と疑ってしまう。そんな感情を抱いてしまう自分を、イムナは嫌悪した。
「私はほとんど君を知らない」
今度はタイカが言った。
「私が君を見たのは、七年以上前。君が物心つく前だ。君の父母は知っている。だがそれも七年以上前の、数日話しただけだ」
タイカは言葉を切り、宙を見つめた。何かをつぶやいている。
「うん。そうだね。私は君をずっと見てきたひとを知っている。そのひとが、君を大切にしている。だから」
だから、案内しよう。タイカはイムナとキサカイに、村へ戻るよう促した。
光が広がっていた。横に横に、鮮やかな黄色い布を何枚も重ねて波立たせているかのように、淡い光が広がっていた。
麦畑が光っていた。イムナもキサカイも、立ち尽くしていた。
「何が、起こっているんだ」
「最初から、ずっといましたよ」
キサカイのつぶやきに、タイカは微笑んだ。
「イムナを探してくれた。イムナの危険を教えてくれた。何に襲われているかも」
タイカは言葉を続けた。
「見えない。言葉も交わすことも出来ない。でも、だからと言って想いがない訳ではない。喜びも悔しさも知っている」
知ってもらいたい、とタイカは言う。
「あなたたちは、精霊を見た。神秘の一端を知った。そして今は真夜中。感覚が研ぎ澄まされた今なら」
イムナはそれ以上、聞いていなかった。麦畑に駆け出していた。
麦畑の中にふたつの姿を見た。忘れかけていた、しかし完全に忘れることなど出来ない二人。
おとうさん、おかあさん。
手を伸ばす。突き抜けた。たたらを踏んで、振り向く。二人は、泣きそうな顔をしていた。
ごめんなさい。
口が、そう動いているような気がした。そう感じた。
謝っているのは、二人なのか。
違う。これは父母ではない。父母の姿を借りた、何か。でも不愉快な感じはしない。
これはイムナ自身が、その何かに投影してるんだ。自分が望んで、その姿になって欲しいと、見たいと望んでいるんだ。
だから、それは悪くない。
ごめんなさい。それでも、それは謝り続けた。
あなたのおとうさんと、おかあさんを助けることが出来なかった。声は届かなかった。
そうか。助けようとしてくれたんだ。そして僕を助けてくれた。タイカを通じて。
精霊。タイカはしきりと口にしていた。その土地の精霊。見守ってくれていたんだ。
自分は独りではなかった。触れることは出来ないけど、温もりは感じる。
それも徐々に薄まり、そして消えた。
元の麦畑だった。明かりは月と星々と、キサカイの持つ松明だけ。松明に照らされたキサカイの顔は驚き、畏れ、そして呆けたような表情を浮かべてたが、それでもイムナを見つめていた。
ああ、ここにも心配してくれている人がいた。
「家に帰ろう」
キサカイの言葉に、イムナは頷いた。肩を寄せて二人は歩き始めた。
タイカは麦畑の方に小さく目礼すると、二人の後に続いた。
その顔に浮かぶ微笑みには、静かな喜びがあった。
翌日。タイカは旅路についた。
まだ滞在してほしいと願うキサカイとイムナに、タイカは「冬が近づいてきている」と断った。最後に、タイカはイムナに手紙を渡した。巻物の様に丸めて封がしてある。
「ご両親の種が芽吹いた村からの手紙だ。あとで読んで欲しい」
この場では駄目か、と問うイムナに「出来れば自分が居なくなってからにしてほしい」とタイカは頼んできた。
不思議に思いながらも、タイカを見送った後、イムナは村外れの社へと向かった。
手紙は、ここで読むべきだと、何となく感じたのだ。
手紙の内容は、種への感謝だった。手紙の中には、良く太った麦の穂が巻かれていた。そして麦の名も記されていた。両親の名だった。
名前と共に。この恩は忘れないと。
顔を上げた。タイカが去った方向を見つめる。あのひとが伝えたのは、種だけではなかったんだ。
「何と書いてあったんだい?」
気付けば、キサカイが横に居た。イムナは手紙の内容を話し、尋ねた。あのひとは何者なんだと。
「タイカは、《物語り》であり《祝り》なんだ」
《祝り》
精霊に祝い寿がれた者。精霊の意志を、言葉を感じ取ることが出来る者。人と精霊を繋ぐ者。父の記録にもあった。かつてこの村にも、そんな存在がいたらしいと。
「そうだ。だが、お前の父に《祝り》ではないかと言われた時、彼は曖昧にしか答えてくれなかったらしいけどね。どうも、この話はしなくないらしい。仲介が出来るにしろ、自分が居なくなった時、意志を交わすことが出来なくなるから。その結果、あらぬ誤解が生まれるかもしれないからと」
だけど今回は別だった。イムナと精霊と、両者の悲痛な思いを感じてしまったから。
イムナは森の奥、タイカが去った方を見つめた。
── 第一話 了 ──