第一話 物語り -弐-
「こちらが麦畑。右の奥の方で冬野菜を植えています。今は土を休めているから何も植えていません」
キサカイの家を出て、最初に会った辺りの場所から案内を始めた。タイカは土を手で堀り、感触や匂いを確かめている。
「君は。いや、イムナ。今、何歳なんだい?」
「十歳と少しだと思います。ちゃんとは知りません」
「そうなのか。しっかりしているね」
「そんなことないです。でも、村長のお世話になっているし迷惑をかけないよう努めているつもりです」
「努めている、か。君くらいの年だとあまり使わない言葉だね。何か学んでいるのかい?」
「父母が残してくれた書き物は読んでいます」
紙は貴重だ。書き物のほとんどは木の皮を削り紐で結んだ木簡で、それらはイムナの部屋に山積みになっている。
「奥の畑も見に行きますか」
「うん。お願いするよ」
黙って、歩き始める。タイカは飄々としているように見えるが、イムナにはこの沈黙が重かった。胃の辺りに圧し掛かる違和感も、昨晩から消えることなく続いている。
「タイカさん」
堪え切れず、声をかけてしまった。
「なんだい?」
「昨日の夜。種も運んでいるって言っていましたよね」
「そうだね。《物語り》が運ぶ知識のひとつだ」
タイカは袋の中から、小さな種を取り出し、見せた。
「種が、知識なんですか」
「ここの土地が、大きな森の中にあることは知っているかな?」
「はい。大森林って言うんですよね」
「そのままの名前だけどね。とても広い。そして人が暮らすには何かと厳しい。土地も元々は人が食べるような穀物や野菜を育てるには栄養が少ない。それでも、相性というものがある。例えば、この種は君の村では育てにくいけど、他の村なら」
「育つ可能性がある?」
「その通り」
タイカが微笑んだ。
「そうやって互いの知識の橋渡しをしている。まあ、作物を育てにくいことを除いても森は危ないけどね。森には獣たちもいる。中でも氷の精霊に取り憑かれた《狂える獣》は別格だ」
「氷の精霊?」
「村でも土地の精霊を奉じていると思うけど、それとは別の存在だ。まあ獣以外でも、森には危険な部分が色々あるけど」
森の危険は分かる。少しでも奥に踏み込むと迷ってしまいそうだし、キサカイら大人たちにも深入りは厳禁されている。せいぜいが山菜を採るため村が見える範囲をうろつく程度だ。
だけどこの土地が瘦せているかどうかなんて分からない。他の土地を知らないから、比較しようがない。
「そうだね。比較というなら大森林を超えた南の土地は開けていて、ずっと豊かだ。人も多い。石造りの街が幾つもあり、千人とか万人単位の人が暮らしている」
信じられない数だ。村にそんな人間がいたら、一日とかからず飢えてしまう。
「反対に、北へ行くほど寒さが厳しくなる。大森林の北の先には、果てしない氷原が広がっている」
永久氷原、とタイカは呼んだ。
いずれにせよ、イムナには想像の埒外だ。イムナが見ることの出来る世界はこの村と、村を囲む木々と、木々の頭越しに見える黒々と連なる山脈だけだ。
「どうしてあなたは、そんな色々な場所をご存じなんですか」
「あなたに、ご存じか。難しい言葉を知っているね」
「すみません、子供らしくないですか」
「いや、こちらこそ済まない。別に悪い意味で言った訳じゃないんだ。そうだな、私は実際に行ってるんだ。南の街々、南方諸王国にも永久氷原にも」
「大森林の中を」
往来しているというのか。信じられない、と言いかけたが、そうだ。この謎めいたひとは、大森林を抜けてこの村へ来たのだ。
「森を渡る術もまた、《物語り》の知識のひとつなんだ」
イムナは、はっとしてタイカを見つめた。
「そういえば、書き物にもありました。森を抜け、村々に知識を撒くことを生業としている人がいることを」
父母の残してくれた木簡。その中に書いてあったのは、このひとの話だ。背の高い、穏やかな口調で様々な農法を知っていたという。
「父の書に書いてあったのは、あなたのことかもしれない」
「君のお父さんのことはよく覚えているよ。お母さんのこともね」
君にも会ってるんだよ、覚えていないだろうけど。とタイカは言った。
タイカが以前、村に来たのは七、八年前だと昨晩、キサカイは言っていた。となると自分はまだ三歳か四歳だ。確かに覚えていない。
その数年後、土砂崩れに巻き込まれて父母を亡くしたこと、土の中から見つかった父母の青白い顔より昔のことは、思い出せない。
「君のご両親にご挨拶もしたい。案内してもらえるだろうか」
村外れの共同墓地。その中の父母の墓の傍らに座り、イムナはタイカから父母の話を聞いた。
村を豊かにしたいと、熱心に麦種のことを研究していた。村で使っている作物の肥料の幾つかは、イムナの父が提案したものでもあり、それは父の残してくれた木簡や村人たちの話から、イムナも知っていた。
だが、研究熱心なあまり母を何度も怒らせていたことや、それでも最後には母が許してしまっていたこと。夫の熱心さに絆され、結局自分も一緒になって研究に打ち込んでしまったことなど、木簡からは読み取れない、活き活きとした人としての話は、青白い両親の死に顔しか残っていないイムナの記憶に、僅かながらの色彩を与えてくれた。
タイカのくれた干し果実も驚くほど甘かった。タイカが腰の小袋から取り出したその食べ物を、最初イムナは遠慮したが、両親の話で警戒心も緩んでしまったのか、つい受け取ってしまった。
「二人は、君のことをとても大切にしていたよ。土地の精霊に君のことをお願いしていた」
「そうで、しょうか」
「ああ、そこの」
と、墓地の入口にある社を見やる。
黄色い丸木で組まれたその社は、大人が屈んで潜れる程度に小さく古びていたが、手入れは欠かしてないのだろう、汚れはなかった。
「社に、君のことを願ってお参りしていたのを覚えている」
「そんなに熱心にお参りしていたのなら、僕ではなく両親を守ってほしかった」
罰当たりなことを言ってると思う。でも言わずにはいられない。よりによって土砂崩れなんて。土地の精霊。土に宿る精霊なら、土砂も何とかならなかったのか。それに、何で自分を置いて二人して亡くなったのだとも言いたい。ずっと一緒に居たのなら、自分も死んでいたはずなのだ。
土砂が崩れるような危険な場所には連れていけない。そう思ったのかもしれない。頭では理解しようとしている。だけど、気持ちが納得できていない。
「精霊も万能ではないんだよ」
「こんな風に祭られているのに。せめてそこは危ないよ、とか教えてくれてもよかったのに」
村の大人には決して言えないことを、村の大人よりも恐ろしく感じていたこのひとに何故か言えてしまった。不思議とすっきりしていた。
タイカは黙っていた。堪えるような、難しい顔をしていた。
これは怒られるかな、と身構えたが。
「他の村の話でもしようか。この村でも祭りはあるだろうけど、他の村では、また変わった祭りをやっていてね。変わった、といっても本人たちにはそれが当たり前で、そんなこと言えば私が変な顔をされるのだけど」
「聞かせて下さい」
やや強引に話題を変えてきた。イムナは乗った。不器用なひとだな、と思った。思い、微笑んだ。
胃の辺りの重みが薄れている。違和感の正体は、きっと父母の書き物にあった《物語り》の、 タイカの記録を思い出せなかったからに違ない。そう思うことができた。
その日の、夜までは。
二夜連続の宴にはならず、その日の夜はキサカイとイムナ、タイカだけの夕食となった。
朝食と同じ麦粥に、少々の塩漬け野菜だけだが、朝食に比べればずっと砕けた雰囲気になった。キサカイは上機嫌で、酒に付き合ってくれとタイカを誘い、イムナは早々に自室へ戻った。
寝台で横になるが、なかなか寝付けない。
珍しい話を聞いたせいだろうか。そんなことで興奮して眠れなくなるなんて、タイカには色々言われたが、それでも自分もやはり子供らしい。
父の書き物を読みたい。そう思ったが灯は貴重だ。月明りでは木簡は読めない。広間の方から明かりが漏れている。話し声も聞こえる。
明かりは灯明皿のそれではない。タイカが腰に引っ掛けていた油燈の光か。金属の窓があり光量を絞ることも出来る。日中見せてもらった時には欲しいとは言わなかったが、羨ましい気持ちが表に出たのか「これはあげられない。大切なものなんだ」と本気ともからかいともつかない口調で笑われてしまった。
二人ともまだまだ起きているなら、隅で木簡を読むくらいは許してもらえるだろうか。寝台から起き上がり、巻いた木簡を手に広間へ向かう。広間の手前で二人の会話の内容がはっきりと聞こえた。
足を止めた。血の気が引いた。自分が青ざめていく音が聞こえたような気がした。
「おまえさんには感謝しとるよ。イムナにもよくしてくれた」
「イムナは頭の良い子ですね。父親似なのかな」
「母親似でもあるなあ」
「お二人には感謝しています。二人の配合した種は、この土地には合わなかったけど別の村で芽吹いています」
「あんたに預けてよかったよ。代わりに貰った種は、うちの村を豊かにしてくれた」
昨晩の違和感。そうだ。無償で種をくれる訳などない。
奪ったのか、種を。自分の両親が育て生んだ種を。違う。多分、両親も納得して交換したはずだ。記録にはタイカを悪く言うような部分はなかった。
でもキサカイがそんな内容の木簡を捨ててしまったということはないか。
そんなことあるはずがない。それに種は別の村で育てられ、役に立っているというではないか。
だけど。得をするのは、賞賛されるのは誰だ。タイカではないか。
頭が痛い。ここに居たくない。イムナは駆けた。駆けて、家を飛び出した。
扉が開いた音に、キサカイとタイカが振り向いた。
タイカが落ちていた木簡を拾い上げた。