ウミノチ
冷たいそよ風 波はやや高め
漁船が、青海原に一隻たたずむ。
「休むな!突き落とされてぇのか!おい新人、お前に言ってんだ。はやくこれ処理しやがれ。あれもだ」
「.......」
そこには、すべてのヒレを根こそぎ切り取られ、芋虫のようにもだえるサメ。
甲板端を見ると、それが山のように乱雑に集められていた。
ボクはしばらくその場で動けずにいた。
「ビクビクすんな!はやくしろってんだ馬鹿野郎!!こうすりゃいいだけだろうが!どけ!」
男はそう言って、それを思い切り蹴飛ばした。
派手に血が舞った。
海面が赤く染まる。
ますます体が固まった。
「いちいち手間かけさせんな。何しに来た?もういい。何もできねぇならあの救命ボートに湧いてる虫でもどうにかしとけ」
「..はい....」
ヒレを失ったサメは、生きたままただゆっくりと沈んでゆくのみ。
海底では、数えたくもないほど無数の、深緋色のノロシがあちこちで立ち込める。
それはまるで、誰かに助けを求めているようだった。
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これはシャークフィニングと呼ばれ、高級食材として高く売れるサメのヒレを狙った乱獲である。ヒレだけを余すことなく切り取ったのち、生きたまま海に投棄するその残酷さ故に多くの国で禁止されており、世界中の海洋保護団体や動物愛護団体から広く問題視されているらしい。
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漁を終え、皆が船内へ戻っていく。
ボクは独り、救命ボートの上で嘔吐していた。
ボクはニートで、それを親に心配され、貴重な体験だからと無理やり連れて行かされ、ずっと憂鬱だった。船長は、今朝船着き場で挨拶したときには優しいおじいさんって印象でちょっと安堵してたのに、いざ漁が始まると怒鳴り散らす老害だったし、おまけに与えられた仕事が....
その時、ボクの思考は止まった。
鈍い音が響き、船体を尋常でない衝撃が襲ったのだ。
視界が激しく振動し、前も見えない。
ボクはその場に倒れこんだ。
間もなくして収まった。
恐る恐る顔を上げ、あたりを見回す。
船内で警報音が鳴り響いている。
甲板は派手に潮を浴び、船体が徐々に傾いている気がする。
鼓動が高鳴る。
皆が慌てて飛び出してきた。
「エンジン回せ!はやく!!誰か後ろの救命ボート降ろしとけ!!」
乗員の一人がクレーンを操作し、ボクの乗ったボートを海面に降ろした。
大波が、ボートを大きく揺らす。
「船長!ボート準備できましt」
再び強い衝撃。
これにより船体右舷が大破。船は完全に転覆した。亀裂から重油がすごい勢いで流出する。
ボクは、皆を引き上げるために急いでボートのエンジンをかけようとするも、手遅れだった。
船は瞬く間に、乗員もろとも濁った海に飲み込まれていった。
それは、沈んでいったというより、何者かによって引きずり込まれていったかのように見えた。
海面一帯を黒い重油が覆っていたために、ボクはその正体を目視することはできなかった。
不憫に死に絶えた海洋生物達の怨念「ウミノチ」が、今回は''彼ら''のSOSに応えたのだ。
そして、彼らもまたその一部となった。
またもやかすかに膨張したウミノチは、形を持たない怨念として、暗い海中へと、徘徊を再開するのであった...