未知との遭遇 ~First Contact~
「んー…」
ひと段落ついた書類をデスクの脇に積み、バーゼルは大きく伸びをした。
それでもまだ、目の前にうず高く積まれた他の書類に、その姿は半分ほど埋もれてしまっている。ネクタイを軽く緩め、書類の山を見上げながら、彼は小さく溜め息をついた。
「便利屋」の事務所をこの地に構え、はや十数年。
「何でもやります」と言い切ったこの看板がいかに重いモノであるかを、最近の彼は身に沁みて感じていた。
何しろ、依頼される仕事のほとんどが、いわゆる「手間と時間がかかる割には達成感の低い仕事」ばかりなのだ。
ビル清掃やペット探しなどは、まだマシな方と言えた。封筒貼りやペーパーフラワー作りのような内職じみたものを頼まれたこともあったし、子供の長期休暇の宿題らしきものを押し付けられたこともあった。
…図画や工作くらいは、自分でやった方がいいんじゃないかな…。
もっとも考えてみれば、「やりがいのある楽しい仕事」を、わざわざ金を払って他人に依頼するとは思えないので、それも当然といえば当然のことなのだが。
…ああ、でも、懸賞のクロスワードパズルを解いて欲しい、ってのは楽しかったかも…。
「バーゼル先生、大丈夫なんですか?ちゃんと寝てますか?」
書類の山を見上げたまま、ぼんやりと考え事をしていたバーゼルに声をかけてきたのは、この事務所に勤務する社員のロゼッタ・ギルフォードだった。
濃いめに淹れたお茶のマグカップをバーゼルの目の前に置き、彼女は口を開いた。
「ここのところ、休んでいるのをほとんど見ていないんですけどね。お仕事熱心なのもほどほどにして下さいよ」
バーゼルは苦笑いをしながら、ロゼッタの淹れてくれたお茶のカップを手にとった。
「やあ…。なかなか思うように仕事が片付かなくてね…」
「それは分かりますけど、最低限の睡眠時間は確保して下さいよ。社長に倒れられたら、俺は誰の指示で動けばいいんですか?」
皮肉をこめて言いながら、ロゼッタは自分でまとめた書類を取り出してそこに広げる。
「先日依頼を終了した例のところですけど、入金がまだのようだったので督促状を出しておきました。それから、昨日きた『伝説の剣を探せ』ってやつ。丁重にお断りしておきましたけど、良かったですよね?」
数年前、「求人広告を見た」と言ってふらりと事務所にやってきた彼女をほぼ無条件で雇い入れたのは、今考えれば正解だったと言えた。呑みこみが早く、判断が的確なので何でも任せられる上に、いかなる面倒な仕事でも嫌な顔をしない。あの頃に比べ、大幅に仕事量が増えた現在となっては、もはや彼女の存在は不可欠と言っても過言ではなかった。
バーゼルはお茶を飲みながら、ロゼッタの出した書類に目を落とした。
「あ、伝説の剣、断ったの?何だかちょっと楽しそうに思ったんだけど」
「勘弁して下さいよ!あんな落書きみたいな地図が一枚だけの手がかりで、何をどうすればいいんですか。言い伝えとやらも聞いたことのないモノだったし…。いくらウチが『何でもやる』って言っても、限度がありますよ」
「でもほら、その地図の場所に隠してある剣を探して息子さんに渡さないと、この世界が滅びるんじゃなかったっけ?」
必死で話をしていた依頼人の女性の顔を思い出し、バーゼルはこみ上げる笑いを懸命に噛み殺した。
「宝箱にでも入ってるのかな」
「宝箱に入ってようが、岩に刺さってようが、ドラゴンのシッポに入ってようが、俺は構いませんけどね」
ロゼッタは冷ややかな口調で言った。
「他人に探し出してもらった伝説の剣で世界を救う勇者様ですか。ずいぶんと頼もしい英雄ですよね」
「…ごもっとも。じゃあその件に関しては、お任せするかな」
軽く笑いながら立ち上がる…と、徹夜続きが応えたのか、バーゼルは軽い立ちくらみを覚えてよろめいた。慌てて机の角に手をつき、身体を支える。
「大丈夫ですか?」
ロゼッタが心配そうに声をかける。
「…ああ、大丈夫」
「あとは俺がやっておきますから、少し休んだらどうですか?」
「う~ん、仕事が溜まったままだと、落ち着いて眠れないんだよね…」
バーゼルの言葉に、ロゼッタはデスクにうず高く積まれた書類の山に目をやった。その言葉通りならば、バーゼルはあと数日ばかり、徹夜をすることになりそうだ。
「じゃあせめて、気分転換に外に出てみたらいかがですか?今日は天気がいいですよ」
ロゼッタに言われて、バーゼルは窓の外に目を向けた。春先のような柔らかい陽光が、穏やかな陽気とともに窓辺に降り注いでいるのが目に入る。
「うん…。ちょっと、出歩いてくるかな」
促されるままに軽くうなずくと、バーゼルは壁にかけてあった上着を手にとり、玄関口へと向かった。
バーゼルの自宅兼会社は、郊外にある。市街地からはだいぶ離れており、すぐ裏には森が広がっているような場所であるのにもかかわらず、あれだけの仕事が入ってくるのだから不思議だ。
外に出たバーゼルはゆっくりした歩調で、森に足を踏み入れた。柔らかい光が木漏れ日になって、森の中に差し込んでいる。童話の挿絵にでも出てきそうな光景だった。
…確かに、気分転換にはなるなあ…。
仕事の重圧からしばし解放され、おのずと足取りも軽くなる。気の赴くままに、彼の足は森の奥の方へと向かっていった。
と、その時。
「?」
バーゼルの足が止まった。
落ち葉の敷き詰める森の小道の前方に、人影のようなものが見えたからだった。
比較的小柄に見える人間が、小道をふさぐようにして、うつ伏せに寝そべっているように見える。
…誰か…倒れてる!?
そのことに気付くと、バーゼルは急いでその傍に駆け寄った。
倒れていたのは、若い女性だった。長い黒髪をひとつにまとめ、短めのチェックシャツにジーンズのパンツという軽めの服装。
「大丈夫ですか!?しっかりして下さい!!」
声をかけながら上半身を助け起こすも、その瞳はかたく閉じられていて、身体もまったく動く気配がない。しかし、咄嗟に確認した呼吸はきちんとしており、脈も正常に打っていた。
…意識がないだけか…。
ここで倒れてからある程度の時間も経過しているらしく、顔や手に触れるとだいぶ冷えているのが分かった。このまま放置するわけにもいかない。
目立った外傷もないようなので、彼は女性の身体を抱き上げた。ここから自宅まで、さほど遠い距離を歩いてきたわけではない。バーゼルは踵をかえし、急ぎ足で来た道を戻っていった。
「ロゼッタくん、ちょっと手伝って!」
ようやく帰宅したバーゼルは、玄関でロゼッタに助けを求めた。
「早かったですね。どうかしたん…!」
出てきたロゼッタが、女性を背負ったバーゼルに気付き、言葉を切る。
「森で倒れてたんだ。来客用の部屋のベッドを用意してくれる?」
「…はい!」
すぐに状況を察したロゼッタは、急いで奥へと走っていった。
素早く用意された奥の部屋のベッドに、二人がかりで女性の身体を横たえる。ロゼッタはそのシャツの胸元のボタンを外すと、上から毛布をかけてやった。
二人で心配そうに様子を伺うが、女性はぐったりと横たわったまま、しばらく意識の戻りそうな気配はない。ただ、その表情はさほど険しいわけでもなく、深い眠りについているかのようにも見えた。
「何があったんでしょうね、この子…」
冷え切った女性の手を自分の手で包み込むようにして温めながら、ロゼッタがその顔をそっと覗き込む。
「…わからない。だけど服装も乱れてなかったし、怪我してる様子もないから、変質者や強盗に遭ったわけじゃなさそうだ」
「じゃあ、行き倒れですかね?黒い髪だし、アンタレス辺りからの難民かも…」
「う~ん、でも、長旅に出るような格好でもないよなあ…」
確かに女性の服装は、覚悟を決めて自国を後にしてきたとは考えにくいような軽装だった。また、バーゼルの記憶する限り、周囲に荷物のようなものも落ちていなかった。
…もちろん、持ち物だけ盗まれた可能性だってあるけれど…。
彼は首をかしげながらも、部屋の隅から椅子を持ち出してきた。
「まあ、気がついたら事情を訊くことにしようか。ロゼッタくんすまないけど、彼女の意識が戻るまで傍にいてやってくれないかな。僕はとりあえず仕事に戻るから、何かあったら知らせて欲しい」
「了解」
ロゼッタは軽く肩をすくめると、用意された椅子に座り込んだ。
さまざまな考えが、次々に脳内を支配していく。
…さあ、早く、ここから逃げなきゃ…!
…でも、どうやって?
…だいたい、何で逃げなきゃいけないの??
延々と自問自答を繰り返しながら、理不尽な不安に気持ちばかりが追い詰められていた。
…何か悪いことしたっけ?私…。
…いや、何か悪い奴に追われてたような…。
…よく分からないけど、何かがヤバい気がする!
…早くしないと…。
…早くって、何が?
何を恐れているのか、自分でもよくわからない。ただ本能だけが危険を感じ、自分自身に警鐘を鳴らしている…そんな感じだった。
…早く!早く逃げないと…。
「!!」
虹野和泉は、飛び上がるかのように跳ね起きた。全身がじっとりと、汗ばんでいる。
…夢?
かなりの長い間、何か悪い夢を見ていたような気がする…が、たった今の事なのに何も思い出せない。
「あ、気がついた」
すぐ傍で声が聞こえ、和泉はびくりとして顔を上げた。
そちらに目をやると、自分と同世代くらいに見える見慣れない女性がひとり、椅子にかけてこちらを見ているのが目に入った。
そして、同様に全く見覚えのない部屋。
「ここは…?」
「ここは…って、どう答えたらいいのかな?この場合」
椅子に座った女…ロゼッタは、読みかけの本を閉じると脇に置いた。椅子の背に寄りかかり、少し考えるような仕草で頭に手をやる。
「バーゼル便利屋事務所って所なんだけど」
「バーゼル…?外国人の方ですか?」
「外国人?」
和泉の言葉に、ロゼッタは眉をひそめた。
「だってそれって、日本人のお名前じゃないですよね?」
「ニッポン…?」
どうも、話がつながらない。和泉は困惑したように、前髪をかきむしった。
目の前のこの女性は、髪の色といい瞳の色といい、日本人のように見えるのだが…。
「えっと…すみません。バカなことをひとつ訊きますけど、いいですか?」
「…ああ、どうぞ」
ロゼッタの方もちょっと対応に困った感じで、先を促す。和泉は胸に手を当て、軽く呼吸を整えた。
「あの…ここは、『日本』という国で、いいんですよね?」
一瞬、不自然な沈黙が流れた。
「…どこ?」
かすかに自分の耳を疑って、ロゼッタが確認するように尋ね返す。
「えっ?だから、この国は間違いなく『日本』なんですよね?」
…
「…いや、違う」
そう答える以外に、言葉が思い浮かばなかった。
「じゃあ…どこ?」
「レグルス王国っていうんだけど…」
「はい?どこですか、そこは」
「いや、だから、この国が」
和泉はまっすぐにロゼッタの目を見ながら、戸惑ったような表情を見せた。
「ええと、どこにある国ですか?アジアですか?ヨーロッパですか?」
「…何、それ?」
どうにもかみ合わない会話に、双方がかすかな苛立ちを覚え始めていた。
「…わかった!」
突然、和泉がぽんとてのひらを叩いた。
「ここは、違う世界なんだ」
「?」
その言葉がよく理解できず、ロゼッタが首をかしげる。
「異世界ですよ。パラレルワールドっていうんですか?平行して存在する、本来は全く関係のない世界で…。何かがあって、私がそこを移動してきたんだ…たぶん」
ロゼッタは何も言わず、和泉を見ていた。
…どうしよう…こいつ、変な奴だ。
「…ちょっと、失礼。楽にしてて」
椅子から立ち上がり、部屋を出る。まともに話をしていると、こっちの頭が混乱してきそうだったからだった。
とりあえず、女性の意識が戻ったことだけでもバーゼルに報告しようと思い、事務所のある居間へ向かおうとしたその時。
「あれ、ロゼッタくん。どうしたの?」
廊下の角から、バーゼルが姿を現した。何か皿を乗せた盆のようなものを、手に持っている。
「先生!」
「彼女、気がついた?だいぶ身体が冷えてたみたいだから、野菜スープを作ったんだけど。飲めそうかな」
「いや、意識は戻ったんですけど…。何か、変な子で」
ロゼッタの返答に、バーゼルは不思議そうに首をかしげた。
「変?」
「…とりあえず、話してみて下さい」
バーゼルは言われるままに、和泉のいる部屋のドアをノックした。
「失礼しますよ」
静かに扉を開いて部屋に入ると、バーゼルはベッドに半身を起こしたままぼんやりとしていた和泉に、にこやかに微笑みかけた。
「…あ、どうも…」
顔を上げた和泉が、慌てて頭を下げる。
和泉が見た限り、こちらの男性は先ほどの女性とは違い、確かに外国人のように思えた。染髪にしてはあまりにも自然なダークブラウンの髪をしていたし、肌の色も日本人と比較すると白く見えた。鼻筋も高く通っていて、瞳はかすかに青みをおびている。
「あの…私は、どうしてここに…?」
「このすぐ裏の森で倒れてらしたんで、失礼ですが勝手に連れて来ちゃいました。森でお昼寝しているようには、ちょっと見えなかったので」
話をしながら、バーゼルは持っていた盆をサイドテーブルに置いた。
「スープ、飲めそうですか?良かったら」
差し出された皿からほんのりとしたコンソメの匂いが立ち昇り、和泉の鼻孔をくすぐる。にわかに空腹感を覚え、彼女はとりあえずその厚意に甘えることにした。
「あ…ありがとうございます」
渡された匙でスープをすくい、そっと唇に流し込む。時間をかけてじっくりと煮込まれた野菜の旨味が、じんわりと胃の腑に染みわたっていった。
「美味しい…です…」
「良かった。お口に合ったようで」
バーゼルは穏やかに微笑んだ。
「申し遅れましたけど。僕は、この家に住んでおります、バーゼルと申します。自宅で会社というか…ちょっとした商売をやっていまして。こちらの彼女がその助手を務めてくれている、社員のロゼッタくんです」
「あ、ロゼッタ・ギルフォードです」
バーゼルの紹介を受け、傍らに控えていたロゼッタも慌てて軽く手を上げる。二人の顔を見ながら、和泉もベッドの上で深く一礼した。
「あの…、虹野和泉と申します。何だか助けて頂いたみたいで…。何とお礼を申し上げたら良いのか…」
「ニジノさん?ちょっと珍しいお名前ですね。あなたの故郷では一般的な女性の名前なんですか?」
バーゼルの言葉に、和泉は慌てて首を振った。
「あ…いや、『虹野』は名字なんですけど…」
「えっ、名字が先なの!?」
ロゼッタが思わず口を挟んだ。
「東洋なら…結構多いんじゃないですか?」
「東洋…東方ってこと?俺も東の端っこの方の国だけど…」
「東の端?」
和泉は身を乗り出し、掴みかかりそうな勢いでロゼッタの顔を凝視する。
「それって、日本ですよね!?やっぱりあなた日本人なんでしょ??」
「いや、だから違うってば!」
強い剣幕に、ロゼッタはたじろいだように和泉を両手で押しとどめた。
「ええと、話を聞かせてくれないかな?」
先ほどまでその場にいなかったバーゼルだけが話をのみこめず、二人の間に割って入る。いくらか落ち着きを取り戻した和泉が、下で組んだ手の指先を見つめて話し始めた。
「いまお話ししたように、私はこの国の人間じゃないんです」
「あなたの髪や瞳の色から、それは想像がつきましたよ。先を続けて下さい」
相手に安堵感を与える笑顔を見せ、バーゼルが先を促す。
「ここは、レグルス…っていう国なんですよね?私、ここに来るまでの記憶がないんです。森で倒れてたって話ですけど、森のような場所に行った覚えもないし…。確か、午後からの講義に出ようとしてたと思うんですが、大学まで行ったのか…その辺りの記憶も曖昧で…」
…この子、学生か…。
和泉を見ながら、ロゼッタが内心でつぶやく。鞄を持っていないなど不可解な点はあるが、学校の講義に出ようとしていたところならば、ラフな軽装には納得がいく。
「私の住んでいた国…日本っていうんですけど、お二人ともご存じないですか?」
バーゼルは考え込むような仕種で、頭に手をやった。
「ニッポン…。僕は、聞いたことがないなあ。ロゼッタくんは?」
「いや、さっきまで話をしてましたけど…俺もちょっと分からないですね」
腕を組んでその場に立ったまま、ロゼッタも首を振る。和泉は溜め息をつくと、力が抜けたように肩を落とした。
「…やっぱり、違う世界なんだ」
「…と、言うと?」
バーゼルが疑問形で言葉を返す。和泉は顔を上げ、バーゼルの目を見た。
「私は、この世界の人間じゃないんです!何かの原因で、ここと並行している別の世界…異世界から移動してきたみたいなんです。…たぶん」
ロゼッタが、また始まったかと言わんばかりの表情で軽く頭を振った。。
…知的障害者じゃなさそうだが…、妄想癖があるのかも知れないな…。
「…」
バーゼルの方も急なことで言葉が出ず、困惑したようにただ和泉の目を見ている。場が微妙な空気になってしまっていることに気付き、和泉が必死で言葉を続ける。
「信じてもらえそうにないのは分かってます!私だって、この逆の立場だったら信じないと思うし…。でも、私の故郷は島国ですから、一瞬で外国に行くことはできません。ここまでの話を総合して考えると、別の世界に飛んだとしか考えられないんですよ」
「…なるほど、良く分かりました」
しばらく無言でじっと考えるような様子を見せたのち、バーゼルが静かに言った。
…ええっ!信じるの!?
ロゼッタが顔を上げ、思わずバーゼルの方を見る。バーゼルは悪戯をする子供を見るような表情で、和泉に微笑みかけた。
「随分と想像力の豊かな方なんですね。小説か何かを書いてらっしゃるのですか?ご自分のアイディアを体験談のように話して、我々の反応を見て、今後の作品の参考にしようと考えている…そういうことでしょう?」
「…」
和泉はしばらく、無表情のままバーゼルの顔を見ていた。
根本から話を信じてもらえていない…。そのことに気付くのに、さほどの時間はかからなかった。
…そう…だよな。突然こんなこと言われて、素直に信じる方が逆にスゴいよね…。
…だいたい私自身、自分で言ってて良く分からないし…。
かつて経験したことのない孤独感が、和泉を包み込んだ。
帰れるものならば、今すぐに元の世界…日本に帰って、母親に抱きつきたい。友人たちの前で、この奇妙な体験を酒の肴にして話してやりたい。
…でも、どうやって?
どうやってここに来たのかさえも分からないのに、どうして帰る方法が分かるだろうか。
…もし、このまま一生帰れなかったら、どうする?
それを考えるだけで不安に胸が押し潰されそうになり、瞳にじわりと涙が浮かんだ。
しかし和泉は、その涙をバーゼルとロゼッタに見られたくなかった。咄嗟に毛布を頭にかぶり、窓際の方を向いて横になった。
「…すみません、変なことを言って。あと少しだけ休ませてもらったら、私はここを出て行きます。本当に、ご迷惑をおかけしました」
つとめて明るい声を出して言う。しかし、その声の端がかすかに震えていることに、バーゼルは気付いていた。
聞いた話は、とても信じられるものではない。が、この娘が冗談を言ったり、こちらをからかおうとしている様子も感じられなかった。だいたい、初対面のバーゼル達を騙したところで、この娘に何らかのメリットがあるとも思えない。
部屋の中に、わずかな沈黙が流れる。
「仮に、あなたが本当に異世界から来たのならば、出て行くとは言ってもご自宅に帰ることは出来ないってことですよね?」
やがて和泉の背中に向かって、バーゼルが静かに声をかけた。
和泉はそれには答えず、無言のままじっと目の前の壁を見つめている。バーゼルは構わずに、言葉を続けた。
「あなたのお話があまりにも突飛なので、僕もにわかに信じることは出来ないんですけれど。もし、どこへも行くあてがないのなら…」
一旦言葉を切り、和泉の反応を窺うかのようにひと呼吸いれる。
「良かったら、ウチで働いてみる気はないですか?」
「!?」
その言葉に耳を疑い、和泉は思わず頭を起こしてバーゼルの方を振り向いた。同時に、隣で黙って話を聞いていたロゼッタも、驚いたようにバーゼルの横顔を見る。
…この人…本気か!?
二人同時に、同じ事を考えていた。
「いや、どうも最近仕事が忙しくて…。二人でもちょっと厳しくなってきたところなんですよ。お家に帰れるめどが立つまででも構わないんで。本当に、もし良かったら…なんですけど」
「ええと…どういったお仕事なんですか?」
返答に困ったあげく、和泉はごくありきたりに言葉を返した。
「う~ん…まあ、便利屋というやつです。可能な範囲なら何でも、頼まれ事を引き受けることになっています。資格とか特技は特に必要ないですから…。それぞれに出来ることをやってもらう感じですね」
営業をするときのような口調で、バーゼルは言葉を続けた。
「お世辞にも高給待遇ってわけにはいきませんけど…。一応、この国で生活するのに差し支えない程度の待遇はお約束しますよ。それにこの部屋、空き部屋なんで、良かったらここに住んでもらっても構わないし…。あ、ドアに鍵くらいは付けられるんで、そこはご心配なく」
すぐに返答する気にはなれず、和泉はその場で考え込んだ。
もちろん、帰れるものならば、丁重にお断りして日本に帰りたかった。大学に在学中なので、欠席が続けば単位を落としてしまう。アルバイトのシフトだって、無断欠勤は許されず自分で交代要員を見つけなければならない。そして何よりも先日、貯まったバイト代で自動車を購入したばかりなのだ。暇を見つけてはドライブをして、早いところ運転に慣れようと思っていた矢先のことだった。
しかし、ごくごく当たり前のはずだったその生活には、すぐには戻れそうにないように思えた。どのような経緯で移動したのかは定かではないが、少なくとも現在いるこの場所は見知らぬ異世界。当然のようだが、帰る方法などは見当もつかない。
帰還方法を探してこの世界をあてどもなく歩き回るよりは、住む場所と収入の安定しているこの申し出を受けた方が、いくらかは得策であるように思えた。
覚悟を決め、和泉は顔を上げてバーゼルを見た。
「もし、私で良ければ…。こちらでお世話になっても良いですか?」
「もちろん!こちらこそ、むしろ助かります」
バーゼルは満面の笑顔で大きくうなずくと、嬉しそうに和泉の手をとった。
「宜しくお願いしますね。ええと虹野…、じゃなくて和泉さん」
改まって深く頭を下げる。和泉は慌てて首をふった。
「いえ。私の方こそ、助けて頂いた上にお世話になるわけだし…」
いとも簡単に事が決まる様子を、ロゼッタは傍でぼんやりと見ていた。
…そんなにあっさりと、知らない人を雇っちゃうもんなのかな…?
しかしよく考えてみると、確か彼女がここへ来たときの採用状況も、これと大差はなかったような気がする。そのことを思い出すと、ロゼッタは思わずくすりと笑った。
…ちょっと変な子みたいだけど…。ま、いっか。
「ロゼッタさん、でしたよね?ちょっと急ですけど、どうか宜しくお願いします」
ロゼッタに軽く微笑みかけ、和泉が遠慮がちに手を差し出してきた。
「ロゼッタでいいよ」
その手を握り返し、ロゼッタも笑顔を返す。
…本当に、これで良かったのかな…。
そんな考えが、ふっと和泉の脳裏をよぎった。
このバーゼルという人もロゼッタという人も、どうやら悪い人ではなさそうだった。むしろ、助けてもらった上に生活手段を与えてもらえる訳なのだから、感謝するべきと言えるだろう。
しかし、そんなに簡単にこちらでの生活を決めてしまって、果たして本当に良かったのだろうか。もしかしたら、ほんの少しの何か簡単なことがきっかけで、すぐに元の世界に戻れたりはしないだろうか?
いやいやどうして、そう甘い話でもないようだ。簡単に異世界間を行き来できるものならば、目の前のこの二人はもう少し素直に和泉の話を信じてくれているだろう。
実はこれが長い夢で、目が醒めたらそこにはいつもと変わらない朝があって…という、いわゆる夢オチに、儚い期待を寄せていたりもしたのだが…。
どうやらそれも、無駄なことのようだと悟る。
今ごろ元の世界では、行方不明となっているはずの和泉をみんなで捜しているところだろうか。心配をかけているであろう家族や友人たちを想うと、いたたまれない気持ちになった。しかし、自分の意思ではないのだから、どうすることもできない。
そう言えば、友人にゲームソフトと攻略本を借りたままだったことを思い出した。週末にみんなで集まって、運転練習を兼ねたドライブに行く予定だったことも。
分担して講義のレポートを片付ける約束もしていたし、それからそれから…。
考え続けていれば、それこそキリがなかった。和泉は軽く頭を振り、後ろ髪を引かれるようなその思いを振り払った。覚悟を決めて顔を上げ、窓の外を見上げる。
…みんな待っててね。いつか絶対に、元の世界に帰ってみせるから。
和泉は心の中でそう呟き、日本で見るのと同じ青い空をいつまでもじっと見つめていた。