第十話。 矢立
「みてみて。珍しいものもらっちゃった」
マリコさんが帰り道に見せてくれたのは、金属でできた柄杓のような形をしたものだった。水を汲むのにあたる部分に蓋があって、蟹がハサミを振り上げている。
「おばあちゃんからもらったんだけどね、矢立って言うらしいの」
「ふーん。武器?」
「違うわよ。ここを開けるとね……」
マリコさんが蟹のところを指先でくっと開くと、中には真っ黒いものが詰められていた。
棒を下に傾けると、細い筆が滑り出してくる。
「墨付き携帯筆入れってところかしら。筆ペンみたいなのがまだない昔は、こんなの使っていたみたい。ちょっとした骨董品かも。なかなか見かけないもんね」
筆の先を、黒いところにチョンチョンと当てる。墨汁が含まれているらしく、筆の先端が湿って黒光りしはじめた。
「ね、この前アジサイ寺にいった時の句って、何だっけ?」
「俺も忘れちゃった。……いや待てよ、『岩黒く細雨に濡れる紫陽花や』だっけな?」
マリコさんは和紙の細長い束を取り出すと、すらすらと筆を滑らせる。
「はい。こうやって書くと、それなりに風情が出るでしょ」
筆で縦書きしただけで、なんか格好いい。縦に伸びた柔らかなひらがなの線は、まるで流れる水のようだ。
実は、崩し字はなんて書いてあるのか全然読めないけれど、線の動きを見ているだけで、霧雨も、紫陽花も、ふっと脳裏に浮かんでくる。
「へぇ……。なんかいいじゃん。このまま床の間に飾っても良さそうだな」
「じゃぁ、あげるよ」
「さんきゅっ」
「えへへ……。久瀬くん、もしかして、また私に惚れた?」
「ああ、惚れたね」
「そうですか。またまた惚れましたかぁ……」
マリコさんは満足げに頷いている。
こうして外で、筆を動かすのも面白いかもしれない。
帰り道、途中の文具屋に寄って、カバンに筆ペンを忍ばせてみることにした。