15.ドクター・オオヤギ-2
「エリック……」
ぽそりと反芻して、ジャスミンははっとする。
「い、いえ、これは……」
「隠さなくて良いよ」
机に左手だけで頬杖をつき、ドクター・オオヤギは柔らかく笑む。その表情は、かたくなな心を溶かしてしまいそうだ。
「君、エリックが何者か、どうせ知らないんでしょ? 彼ってば、昔からそういうとこあるんだよね」
ひどいよねえ、とにっこりする。
つられて安堵しそうになり、ジャスミンは気を引き締めた。これはいけない。相手のペースにはめられる。
「別に僕、エリックのことは嫌いじゃないんだよ。ただ、僕に会う前に、フカセくんがとっとと彼を追い返しちゃうんだ。それで連絡してないだけでねえ。でも、彼が僕に何を聞きたいかは予想できるよ」
にっとオオヤギが笑う。
「アルルちゃんのことでしょう? 彼女、行方がわからなくなってるってね?」
「どうして、わかるんですか?」
ジャスミンは冷や汗をかきつつ聞き返す。
「どうしてって? レコを連れてきてるんだもん。それぐらい予想できるよ。でも残念。僕も詳しい情報は持ってないんだ。それで自分で調べてるところ。何か情報得られたら、協力はしてあげるよー」
ドクターはそう言って、小首を傾げる。
「って。エリックにもそう伝えておいて」
む、とジャスミンが詰まったところで、オオヤギが先に動く。
「って、まー、君は君で子供のお使いじゃあるまいし、このまま手ぶらで帰れないよね。エリックのことを教えてやってもいいけど、仕返しされたら嫌だしなあ」
(仕返しって……)
もちろん、ジャスミンだって、あのエリックとかいう男のことはわからない。信用しているわけではないが、彼がシャロゥグの管理局のえらいさんであることは間違いなく、それなりの信頼性はあるのだ。目の前のオオヤギよりはよほど。
だが、ドクター・オオヤギの柔らかな態度には、彼女ですら懐柔されてしまいそうだった。
「あー、でも、ジャスミンちゃんが本当に知りたいのは、エリックやアルルちゃんのことじゃないだろうね?」
とべらっと喋って、彼は確かめるように言った。
「知りたいの、本当は、ネザアスのことだよねえ? そんな感じする」
「ネ、ネザアスって、獄卒の……ユーレッドさんのこと、ですよね」
思わずジャスミンは乗り掛かる。それは確かに図星だ。
「あーそっか。今はユーレッドだったね」
「ネザアスと呼ばれているのは、知っています」
ドクターは苦笑する。
「その名前、僕から聞いたって言わないでね。彼、結構その名前、特別扱いしてるらしいから。もったいぶってて、よほど親しくないと教えないのよ」
ユーレッドの話をするドクター・オオヤギは、ちょっと楽しそうで、彼に対する愛情がうかがわれる。
獄卒、しかも、かなり評判の悪いユーレッドにそんな態度をとる者は少ない。
エイブ=タイ・ファも、それなりに彼を信頼はしているようだが、一線をひいていた。
そういう、ドクター・オオヤギの誰に対しても大らかなところと、ちょっと軽いところが、なんとなくタイロを思い出させる。
「君が、アルルちゃんの事件を知って、彼に興味を抱いたんだろうなーってのは予想つくよ。エリックの作戦でしょうね? でも、彼を調べる理由は別のもあるかも? なんとなくだけど、君、彼に良いイメージなさそうだよね」
ドクターはそう言い当てながらも、あくまでやわらかく言う。
「君が彼とどういう関係があるのかは、僕はわからないけども。お友達が彼に絡んでるのかなと思う。仇みたいな、直接の恨みはなさそうだもんね」
まるで心をよんでいるかのように、核心を突いてくる。ジャスミンはそこがちょっと気に食わない。
「だから安心していうんだけど、まあ彼、悪いやつなんだけど、君や君のお友達なんかには害はないと思う。彼は基本的に一般市民には手を出さないはずだよ。それに、アルルちゃんに対しては、本当に大切にしているから」
あー、でもー、と何か思い当たったようにいう。
「逆に君は、気をつけた方がいいかぁ。彼、君みたいな女の子に優しすぎるから。……特に最初、敵対的な態度で接すると、なんかとあぶないよ? ギャップってのが人間は危ないから」
にやりと含み笑いをする。
「彼、子供……あー、いや、君が子供ってことじゃないんだけどさ」
子供扱いにむっとしたジャスミンが、過敏に反応したのを察知して、慌ててオオヤギが言い直す。
「とにかく、年下の子に対しては、あくまで魅力的に振る舞うように訓練されててねー。彼はそういう役こなしてたから、本人は自覚まったくないんだけど、長年やってると身に染みついちゃってるらしくて」
オオヤギは肩をすくめた。
「もし、君のお友達が、彼に目をキラキラさせてしまうなら仕方がない。彼も別に悪気ないし、自分が悪いやつって自覚の方はあるから、それなりに距離は取るさ」
ジャスミンはその意味を反芻して、目を瞬かせた。
「どういうことですか? 訓練されてる?」
「まぁ、なんだろうね。ひとことでいえば、遊園地の迷子センターの保父さん? または、ゲームのチュートリアルの先生って感じ? 子供に好かれなきゃだめだから、元からの素質もあるけれど、彼は彼なりにシミュレートして訓練もしたのさ」
ドクター・オオヤギは遠くを見るような目になる。
「絵本の読み聞かせ、子どもの好きな食べ物、どうしたら彼らが自分の話を聞いてくれるのか。どうすれば好かれるか。そんなものまで研究してね。彼は乱暴で不良だけど、変なところで生真面目で、任務を与えられると余計なところまで完璧にこなそうとする。だから、完璧に準備しすぎたの」
オオヤギは、悪戯っぽく含み笑いをする。「だから、彼、その道ではプロだよ。気をつけて」
「ま、迷子センター? 何言ってるんですか? あのひとは、攻撃性の強い獄卒じゃ……」
あんな危険な人物が? と言わんばかりのジャスミンをドクターはそっと留めた。
「獄卒だけど、最初から獄卒だった人はほとんどいないよね。彼だって、本当はそうだよ」
ドクター・オオヤギは微笑んだ。
「獄卒って呼ばれる人にも何らかの事情があって、同情すべき人もいれば、そうなって当然みたいなやつもいるし、色々いるよ。彼なんかは特に事情が込み入ってる。彼は乱暴だけど、彼にもそうせざるを得ない事情もあってね。まあ、彼、本当、イイ性格はしてるけど」
とオオヤギは付け加えて、少し遠い目をする。
「まあでも、僕がしてあげられるのは、彼がせめて楽しく、けれど、逸脱しすぎずに、この世界で生きる手伝いをしてあげるだけだよ。その点には僕にも責任があるからね」
「責任?」
ジャスミンはふと気になってそう呟き、続きを聞こうと口を開く。
が。
「というようなところでね」
と、先手を打って、ドクター・オオヤギは立ち上がった。その口元に、ほんのりいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「僕、今、お姫様のことでなにかと忙しくてね。これぐらいで勘弁してくれる?」
「ち、ちょっと待ってください!」
彼のペースにうっかり乗せられていたジャスミンは、我に返って立ち上がる。
「まだ肝心なことを聞いていませんよ!」
「っていってもー、言えないこともあるわけで。いいじゃない。ネザアスに関する深めの話をしてあげたわけだしさ」
ドクターはごまかすように笑いつつ、隣のドアのノブに手をかける。ジャスミンが武器を取るべきかと殺気立つ。
「あー、あー、そうねー。それじゃこうしよう」
ひかないジャスミンに、ドクター・オオヤギはにこりと笑う。
「このコンピューターね」
とオオヤギは診察室のコンピュータのタワーをこんこんと叩く。クリニックでも通常小型の端末を使うものが多いので、オオヤギのコンピュータは明らかに標準より大きい。旧式でないのなら、それなりの性能があるということだろう。
「こいつ、僕のクリニックのセキュリティーシステムを統括してる。これを攻略すると隣の部屋にも入れるし、僕の秘蔵データも見放題なんだ」
「それを今すぐ解放してくれるんですか?」
「まさかぁー。こいつ、僕のいうこともきかないんだよ?」
オオヤギは肩をすくめた。
「この状況じゃ僕が見せろって言っても無理。でも、ジャスミンちゃん、その若さでここにきてるってーことは、どうせただの獄吏じゃないんでしょ」
オオヤギは少し挑戦的な目をする。
「こいつのシステム、"彼"をどうにかしてみせてくれたら、なんでも中の資料持っていっていいよ」
「そんなこと言っていいんですか?」
ジャスミンはちょっと挑戦的に答える。
「オオヤギ先生の言う通り、あたし、ハッキング能力買われて獄吏になっているんですよ? いいんですか?」
「いいよぉー。だって、こいつ、僕が見せろって言っても見せないし、見せるなって言っても見せるやつだから。僕に選択権ないわけ。僕よりこいつと交渉してくれる方が早い」
ドクター・オオヤギは気怠くそういうと、肩をすくめた。
「まー、そこはそいつとお話ししてちょーだい。……それじゃっ!」
一瞬のスキをつき、ガチャ、バタン。と隣の部屋のドアをすばやく開け、ジャスミンが止める間も無く、ドクター・オオヤギは隣室に消える。自動ロックのかかる音がした。
ジャスミンは診察室にぽつんと取り残されていた。
「お話しね。ふーん、まあいいわ。そういうことなら、寧ろ直接話聞くより気楽だもの」
ジャスミンはにやりとした。いつのまにか、レコがジャスミンの肩にもどっている。
どうするのか? と言わんばかりのレコだが、ジャスミンはバッグから小さなカードを取り出した。
「甘くみてもらっちゃ困るわ」
そういうと、ジャスミンはモニターをつける。電源はずっと入っているのはわかっていたが、モニターがパスワードの入力を示す画面を映している。電源を落とすことはできないらしく、強制終了が効かない。
しかし。
「なるほど、生体認証じゃないんだ。簡単にいけそう」
(まあ、生体認証でも一緒だけどね)
と、ジャスミンは、鼻で笑う。
勝手にキーボードを操作してモードを変え、有線でカードを接続し、中身を書き換えるべく、直接自作のプログラムをインストールしてやる。
パスワードを求める画面がふっと消え、黒い画面にモニターにA共通語のアルファベットの文字が浮き上がる。
そして、再稼働し、モニターにロゴマークが映し出された。
System Tyrant。
「なんだ。変なシステム使ってると思いきや、Tyrantじゃない」
ふんとジャスミンは鼻を鳴らす。
「舐められたものだわ。あたし、Tyrantは管理局制定OSより詳しいぐらいなのよ」
System Tyrantというのは、オープンソースのOSだ。シェア率も非常に高く、管理局制定OSもタイラントをもとにしている。
その開発はそれこそTYRANTというハンドルネームの、天才プログラマーと噂される人物によってなされているが、その実像は明らかになっていなかった。一人とも複数とと言われていて、掴みどころがないうえ、彼の態度は反政府的とも言われている。知る人ぞ知る有名人だ。
ただ、別に彼の出しているプログラムには別に悪意のあるものはなく、規制されていないので上記のごとくよく使われている。
「でも、暴君だなんて、何考えてつけたのかしらねえ。まあ、これ、すごく便利なんだけど、改造もしやすいし」
あのロゴ画面をみると、いつもそんなことを考えてしまう。ジャスミンにとって、謎の開発者TYRANTは身近だが不思議な存在だ。
ともあれ、ジャスミンが侵入するためのソフトのインストールは完了していた。
「これで書き換えてしまえば、なんとでも」
レコがあまり手際が良いのに、ちょっと驚いてきゅっきゅ、と鳴いているのを無視して、ジャスミンはテキパキと作業を進める。
「ふふーん、簡単簡単。フォルダの中身だってこれで見放題だわ。患者の予約表とか。でも、それは後のお楽しみだわ」
ジャスミンは並んでいるファイルのリストを眺めつつ、今度は建物のセキュリティシステムの掌握にかかる。
まずは隣室の扉を開けて、オオヤギをもう一度捕まえなければ。
「ここのドアキーはここをさわればー」
何かしらキーを打ち込んで、たんとエンターを押したところで、先程オオヤギが消えた扉の鍵の開く音がした。
「よし!」
ジャスミンは立ち上がる。
レコがおいていかれそうになり、きゅっきゅと鳴いて慌ててついていく。
ジャスミンは扉をあけて、中に入った。
「ドクター、解錠済んだわよ」
勝ち誇るように中につげて、部屋に入る。
部屋は電気がついておらず薄暗いが、窓からの陽光が優しく降り注いでいる。
「ドクター? あれ?」
先程、オオヤギが逃げ込んだはずの隣の部屋だが、何故か人の気配がなかった。
「隠れた?」
いや。そもそも人の気配がない。
(逃げた?)
確かに窓がひとつある。が、内側から鍵がかかっているし、そもそもそこから出た形跡もなかった。
忽然と彼の長身は消えている。
静まり返った部屋には、タブレットが一台と、簡易なベッドとカラーボックス。
机と椅子。机の上には読みかけの本が置きっぱなし。
オオヤギの趣味なのか、写真たてや置物がちらほら置いてあり、アナログで雑然とした部屋だ。その割に妙に落ち着くのは、彼の雰囲気とよく似ている。
ベッドの上に脱ぎたての白衣が投げ出してあり、慌てて脱いだのがわかるが、そこに箱が置いてある。中を覗くと白い粘土のようなものが、みっしり詰まっている。
「なにこの、粘土みたいなの?」
それかパン生地。おそるおそる手に触れるが、ふわりと柔らかいだけ。害もなさそうだ。
本当にパン生地を無造作に箱に詰めたものに見える。
「これ何かわかる?」
レコに尋ねるが、レコもくるりと傾いてわからないと答える。
改めて呆然と部屋を見る。狐につままれた気持ちだ。
ささやかに部屋に降り注ぐ陽光で、テーブルの上の写真たてが目に入る。
それは男と少年の映っている写真だった。
長身の白衣の大人と、ぶかぶかの白衣の少年。なんてことはない。きっとドクター・オオヤギと誰かの写真だと漠然と思ったが、ジャスミンはその写真に目をとめた。
思わず目にとまったのは、その双方に、特に少年の方に見覚えがあったからだ。
ばっ、と写真たてをとる。
「これ、泰路? タイロじゃない!」
大人びたすました表情をした眼鏡の少年は、どう考えても幼馴染のタイロ・ユーサの少年の頃のものに見える。
「それに、これ、もしかしてあの人?」
オオヤギだと思った隣にいる白衣の医師らしき男も見覚えがある。優しい雰囲気だが、その顔立ちはあの獄卒のユーレッドとそっくりなのだ。
「どうして、あの人……、ユーレッドが? タイロと?」
きゅきゅーとレコが、怪訝そうに鳴く。
「あの二人、何か過去に関係あるの?」
と漠然と呟いた時、不意に背後から低い男の声がした。
「それはネザアスとはちゃうで」
当然、がちゃん、と扉が閉まり、ロックされた音がする。
ジャスミンは思わず後ろを振り返り、護身用のテーザー銃に手を伸ばした。
「だ、誰!」
暗闇に人影が浮かび上がる。ふっと低く誰かが笑う。
「ねーちゃん、なかなかやるやないか」
部屋の隅の闇から、もぞもぞと何かが蠢き出していた。
「あの短時間で俺の構築したシステム破って入り込むとはなァ。なかなか見どころあるわ」
黒いジャケットを着た男が、ふらっと立ち上がったようだ。
「そやけど、まだまだ未熟やな。あれくらい自動修復できるんやぞ。お前みたいなクソジャリが侵入してくることは想定してあるからな、時間差で修復かけてハメてやったワケやな。まー、なんや、ちょっとした罠やなァ」
どこかで聞いたような西方方言。
気怠げで物憂げな物言い。その痩身は、どこかニヒルなたたずまいだ。
(なんだろ。見たことが、ある気がする)
男がゆらっと陽光の差し掛かる場所に歩いてくる。
「まー、俺の方が一枚上手やっちゅーことやな。年季が違うわ」
うっすらと嘲笑う口許、すらっと通った鼻筋に冷たい切長の目。率直に言って美男子の部類のニヒルな男。
しかし、ジャスミンを驚かせたのは、そこではない。
「あなた」
ジャスミンはさっと顔を青ざめさせた。
「ご、獄卒T-DRAKE……」
男は気怠く、そう呟くジャスミンを見やった。