22.消炭地獄の獄卒達-6
ユーレッドの背後で、半分人のような姿になりかけていた汚泥が、変化途中で硬直していた。いつのまにか、ユーレッドは手にしていた刀をそのまま背後に向け、近づいてきた汚泥の塊を貫いていた。
「ふん」
ユーレッドが涼しげに、鼻でせせら笑った。
「舐めくさりやがって! ふざけんな、ビンズ」
「な、何故わかった! アシスタントですら感知できていなかった筈だ!」
ビンズの声が濁り始めていた。汚泥の塊がどろどろと溶けていく。
「確実にアシスタントの索敵能力は削っていた。しかも完全にあんたの視界の外だった筈」
「馬鹿にすんな。甘くみやがって、三下風情が! こんな俺が今まで視覚だけに頼って戦ってきたとでも?」
ユーレッドは居丈高に言い放つ。
「俺は見えてなくても、お前らみたいな奴のことは勘でわかるんだよ!」
ユーレッドがぐっと力を込めると、汚泥の一部が砂のように変化する。
「ふふふ、なるほど。これはおれが甘かった。次には、もっと気をつけるぜ。次は殺すよ、旦那」
「次があると思っているなら、よほどの間抜けだな。それは俺の台詞なんだぜ?」
ずざ、と砂のようになった汚泥の塊が、刀をすり抜けて落ちて散らばる。
ビンズ・ザントーの声は聞こえなくなっていた。
ユーレッドは振り返り、刀の切先で貫いたばかりのコアをかきわけた。砂のようになったそれの中に小さなチップのようなものが見えた。
「コイツ、汚泥に擬態してるが、汚泥じゃねえな。別のナノマシンかなにかでできたもんみたいだが」
ユーレッドは眉根を寄せつつ、チップを小突く。
「このチップでビンズのやつが操っていた。ビンズのやつ、なんかしら囚人や汚泥に関する能力も持ってそうだったが、これは単なるラジコン操作みたいなもんだろう」
ユーレッドは傷ついたチップを払い除けつつ、刀を振って、吸い取り切れていない表面の汚泥の汚れを振り落とし、一度腰に戻した。
「残念ながらアイツの本体じゃない」
冷静に分析しつつ、鼻先で笑う。
「まあいい。今日はシンプルにムカついたぜ。次は殺す? ふざけたこと言いやがって! 俺がどれだけ今お前をぶち殺したいか、視覚化して見せてやりたいもんだぜ」
ユーレッドは、微かに口の端を歪める。
「アイツ、次は確実に消してやる」
ユーレッドは静かに言ったが、目が完全に据わっている。基本、短気の部類のユーレッドだが、彼のような男が本気でキレるときは、逆に声を荒げないものだ。
発していないだけで、どうやらスワロに手を出されたことに相当腹を立てているようだった。
しかし、そう言い放つことで、ユーレッドはある程度の冷静さを取り戻したようだった。
「飛べるか?」
と肩にいたスワロに尋ねる。
きゅ、とスワロは返事をして、ふわっと浮かぶ。動きは安定しているようだ。
「よし。俺との接続は無理にしなくていいぞ。汚泥が入り込んでいるから、不都合が出るかもしれねえからな。ふむ、外にはりついてる破片を見ると、確かに普通の汚泥で、アイツの特注ナノマシンの類ではねえらしい。探知されたりはしなさそうだ。よかったな」
ユーレッドは、スワロの背後のカバー付近を確認する。
「レコとの通信がまだつながってるなら、そっちの監視優先しろ。ああそうだ」
そう言ってからユーレッドは、先ほどから静かなウィステリアのことを思い出したようだ。あの女なら、スワロに異変を感じれば連絡ぐらい入れてきそうなのだが。
「ウィスとは連絡取れそうか?」
ぴ、と鳴いて、ふるふるとスワロが首を振った。
「あの口うるさい女が黙ってるとは、アイツの側も妨害されてんな。くそ、ビンズが追加で何か仕掛けてそうだから、聞きたかったんだけどよ。レコとの通信が切れてないだけマシか」
ユーレッドは、そう言って廊下の先を見た。攻撃が止んでいるが、それはビンズの乱入の影響によるものだ。彼が去った今、再び攻撃が始まるのは時間の問題だった。
もちろん、ユーレッドは、そんな悠長なことはしない。
「奥にいるな。アイツ」
ユーレッドは、右足を軽く引きずりながら進む。足元に血が滴るが、特に痛みがないのか、ある程度の痛覚が遮断されているのか、彼は意に介していないようだった。
進むと廊下に溜まっている汚泥の量が多くなる。足元を這いずる彼らは、ユーレッドの血を恐れるかのように避けていた。
「一撃でカタをつける」
ユーレッドは再度呟く。
「やはりアイツが張ってる後ろが、裏口だ。ちょうどいいぜ。アイツを殺って、そこから抜ける。ゲームのクリア感あっていいな」
ユーレッドが不穏だが、妙に呑気なことを呟いた時、突然、角の向こうからしゅるるっと黒い触腕が伸びてきた。
「さて、スタートだな!」
ユーレッドはそれをさっと避けると同時に、だっと左足で踏み込んで角を曲がった。走っているときは、あまり右足を引きずらず、スピードもさほど落ちていなかった。
「ゆううれっどおお」
奥にいるらしい囚人の濁った声が、彼の名前のような物を呼んだ。彼の存在を感知したらしい。
「やれやれ」
ユーレッドは肩をすくめた。
「あのクズ野郎。聞き取れる声で話しかけてこいよなア」
当然相手は話も聞いていない。ただ、ユーレッドの存在を認識して、囚人が興奮したようだった。
「まだ、いぎていだかああ! ごろしてやるるるううう!」
ふっ、とユーレッドは冷たく笑って無言で、相手の攻撃をいなす。
「ごこから外にでられなぎゃ、お前はじぬんだあ! はばばばばば!」
穢れた笑い声をユーレッドは無視して、触腕を切り落として角を曲がる。
と、その奥、裏口のドアを占拠して、床の汚泥と繋がっている黒い不定形な巨大なものがいる。かろうじて人の姿を感じさせるフォルムだが、異形の化け物はぐおおおと静かに唸る。
(あれは、ユーレッドさんに何かと突っかかっていた、巨漢の獄卒だ)
もはやほとんど面影もなく、あの痩身の獄卒ほどの理性もなさそうだが、手らしいものに握られている大きな剣に見覚えがある。
元獄卒の囚人は、暴力的な快楽に濁った声で笑い声を上げた。ユーレッドに元から激しい敵意を示していた彼は、この姿になってもやはり彼に対しての敵対心を失っていないらしい。
今はユーレッドを圧倒できる力を持ったとばかり、高笑いしているようだった。
ユーレッドはもはや無言。
そして、かつーんと足音を立てて一歩進む。足を軽く開いて睨み合う。
いつのまにか、ユーレッドは、剣帯から引き抜いた刀を鞘ごと手にしていた。
一撃でカタをつける。
スワロに言う通り、ユーレッドはどうもそのつもりらしい。全身から、静かながら冷たい殺気がほとばしっている。
遠くで爆発音が聞こえるが、ユーレッドは固まったように動かない。
と、その時、相手が動いた。元獄卒の囚人が蠢くようにずるっと床をすべるように這い、罵声らしきものを叫びながらユーレッドに迫った。
その瞬間、ユーレッドは左足から踏み込んだ。
走りながら鞘の下緒をくわえて、そのまま柄に手を滑らせる。
獄卒の剣が閃くが、ユーレッドの方が早い。今度は邪魔をするものがいない。ユーレッドはそのまま剣を引き抜いた。刀身が赤く光っていた。
獄卒の剣を握った触腕が吹き飛び、首のあたりから黒い汚泥が噴き上げた。
「ゆー、れっどおおお」
獄卒が断末魔の叫びをあげながら、近くの鉄パイプを力任せに引き抜いたが、それまでだった。
ユーレッドは、核である汚泥コアを今の一瞬で見極めて破壊していた。
首のあたりから溶け落ちて、どろどろとそのまま崩れていく。
そんな囚人をちらりと確認し、ユーレッドは剣を振って鞘に納めると、ようやくそれを口から外して剣帯にぶち込んだ。
ふと長く一息つく。ユーレッドの全身の緊張がほんの少し和らいでいた。
「行くぞ、スワロ」
何事もなかったかのようにそう呼びかける。きゅ、とスワロが後に続く。
ユーレッドが、裏口の扉を左足で蹴りあけると、外の冷たい空気が入り込む。
空はもう白んでいた。
「さて、三十分はまだ経ってねえ。デートに遅れるのはカッコ悪いからな」
ユーレッドは、ふと苦笑する。右足を地面でとんとん叩きつつ、
「後はこの足でどこまで走れるか。なんとか間に合うかな」
ユーレッドはそう推測して、外に足を踏み出す。スワロがその背中についていく。
と、獄卒の残骸がびくびくと動いた。
「ゆー、れ、づ、ど、おおおおお」
その濁った断末魔の声をユーレッドは聞かなかったか、些細なことと判断して無視したが、スワロは確かに聞いた。その性質上、スワロは分析を優先する。
主人の脅威になり得るかもしれないそれに対して、分析してしまうのだ。
ふと、囚人の残骸が不穏にうごめいた。引き抜いた鉄パイプが持ち上がる。
この動きは囚人の意思とも思えない。
「スワロ?」
その時、ユーレッドが、スワロがついてきていないことに気づいて慌てて戻ってくる。
「馬鹿っ、そんなやつほっとけ!」
持ち上がる鉄パイプに気付きつつ、ユーレッドは慌ててスワロを掴んで抱き寄せる。
スワロのいた場所に鉄パイプが振り下ろされ、黒い血のような汚泥がユーレッドに降りかかる。
「ビンズ、まだいるな!」
「ははっ、勘のいいことだ! しかし、アシスタントには優しいんだな! ユーレッドの旦那!」
ぐねぐね動く囚人の残骸の中で、ビンズ・ザントーの笑い声が響いた。
「だが残念だ。そろそろ、花火の時間だよ! 仲良く地獄に堕ちろ!」
「ちッ!」
ユーレッドは意味を理解して、慌てて外へと飛び出す。
外に出た瞬間、囚人の汚泥の奥で爆発が起きた。爆風が二人を襲い、流石のユーレッドも背中から吹っ飛ばされて外に投げ出された。元獄卒の囚人の残骸が、爆発に巻き込まれて散っていく。
しかし、例の引き抜いた鉄パイプは、最後に残された腕に掴まれていた。それはビンズ・ザントーに操られた腕だ。
「死ね! ユーレッド!」
爆風の煽りを受けながらも真っ直ぐにユーレッド目掛けて投げつけられる。あの獄卒の恨みを込めたそれは、尖った断面をユーレッドの背中に向けていた。スワロはそれを捉えていた。
「危ない!」
タイロは思わず声を上げる。
聞こえるはずもない。これは映像なのだ。
しかし、ちらとユーレッドがこちらを見た。目があった。
多分、ユーレッドは、その瞬間、スワロを見たのだ。
直後、ユーレッドの薄い体を尖った鉄パイプが貫く。
スワロを抱きしめた彼の表情が歪み、身体が反った。
続いて建物が大きく爆発する。ユーレッドはその爆風にさらされて、抵抗もできずに飛ばされて、地面をボロ雑巾のようになりながら転がる。スワロを抱いている手が外れる。先にスワロが地面に落ちる。
衝撃で映像が乱れて、ノイズだらけになり途切れる。
真っ暗な中、タイロは内心うろたえていた。これは映像。映像なのだが、さっき、ユーレッドは。
程なく、再起動の表示があらわれ、目の前が明るくなった。スワロが鳴いて動き始める。
ユーレッドは少し離れたところで、うつ伏せに倒れ込んでいる。その彼の背中から、鉄パイプが覗いていた。




