20.消炭地獄の獄卒達-4
中庭から一階の廊下に入り込んだ二人は、裏の出口を目指している。
工場廃墟の一階は、すでに爆発に巻き込まれて火災の起きている場所があるらしいが、どうにか生きていた消火設備が動いており、場所によってスプリンクラーや防火シャッターが作動しているようだった。
おかげで煙には巻かれずに済んでいるが、最短距離で移動できない。
ユーレッドは元からこの廃墟をよく知っており、おそらく彼はここを宿代わりにしていたこともあるのだろうけれど、そんな間取りを知り尽くした彼でも、今の状況では自由に動くことが難しくなっている。
その中で外を目指している中、窓から外に出ようとしたこともあったが、工場として建てられたそこは窓自体も少なく、ようやく窓のある回廊に出たと思ったら、窓の外にびっしりと汚泥が張り付いているという有り様だ。流石に外に簡単に出られそうにない。
なかなか状況は切迫している。
アルルもそれがわかっているので、心配そうにユーレッドに尋ねてみる。
「ねえ、ユーレッドさん、窓から出られないかな。囚人なら襲ってくるけど、汚泥なら大丈夫なんでしょう?」
「そうだが、汚泥の量が多すぎる。俺はアイツらに"嫌われ"てるからいいんだがよ」
(あ、自覚ある? やっぱ、そういう体質?)
タイロが思わず反応するが、流石にユーレッドはそこは掘り下げてくれない。
「おひいさまは、アイツらの無害な部分に再プログラミングできるんだろ」
「うん」
ユーレッドがそれを知っていたことに、アルルは少なからず驚いた様子だったが、ユーレッドは、彼女の顔を見ずに周囲を警戒しながら続けた。
「だから他の奴らに比べると汚泥耐性は高いだろう。それでも、あまり濃度が高いとタダじゃ済まねえ。再プログラミングだって、囚人相手だと通用しねえし、汚泥の汚染具合や濃度にも影響を受けるって話のはず。危険を冒してまで、無理に外には出られねえよ」
アルルは目を瞬かせる。
「あの、でも、それって、ユーレッドさんは高濃度の汚泥に触っても大丈夫ってことだよね?」
「ああ、まあ大体はな。向こうも嫌がるし」
アルルがぱっと顔を明るくする。
「それじゃあ、私ができるだけ道を開けてみるから、それならいける?」
「道?」
うん、とアルルが頷く。
「一時間くらいなら、いうことを聞いてくれるはず。汚泥の子が道を開いてくれたら、並の弱い囚人を押しやってくれると思うんだ。ねえ、一時間あれば、なんとかなるかな?」
「そ、そりゃ、一時間あればなんとか……」
「やってみる」
「あ、おい!」
ユーレッドの返事を聞くや、アルルが唐突に近くの窓を開ける。
窓ガラスにはびっしりと黒い汚泥が張り付いている。ただ、囚人とまではいかないようで、彼らはまとわりついているだけのようだ。
(積極的に攻撃してくる囚人と、感染力はあるけど攻撃してこない汚泥はちょっと存在が違うのかな)
獄吏と言っても実はそこまで詳しいことは教えられていない。囚人や汚泥については、一般市民は知らなくても良い、または知らないほうが幸せな知識なのだ。だからこそ、ユーレッドのような直接囚人を狩る獄卒と、タイロのような直では囚人と関わらない部署の獄吏ではその知識の差は激しいのだろう。部署の人は誰も教えてくれなかったし、あるいは知らなかったのかもしれない。
(ユーレッドさんに、たくさん教えてもらわなきゃ)
そんなことをふと思う。タイロは、ユーレッドと出会ってから、色々なことが知りたくなっていた。
窓を開けた途端、汚泥は中になだれこんではくるが、積極的には襲ってこない。アルルはその汚泥を避けずに、迎え入れるように手で触れた。
ばっと一瞬閃光が走る。
アルルは目を閉じて手を握るようにして、汚泥に触れている。
(あれに平気で触れるんだ!)
あのタールみたいなどろどろの汚泥に触れるなんて、いくら自分が逃げるためでも、タイロでもぞっとする。しかし、アルルは躊躇していない。その姿は妙に慈悲深く、神秘的だった。彼女の優しい気持ちが伝わってくるようだ。そして、どこかしら気高い感じもして、タイロはその美しさに思わず目を見張る。
(この子、お姫様なんだな、やっぱり)
ユーレッドがどんな気持ちでそれを見ているのか知らないが、彼は目をすがめるようにしてそれを見守っている。
ず、とアルルの目の前の汚泥が反応する。
黒い汚泥はふわっと薄く伸び、彼女を守るように広がると、その手を離して後ずさるように窓の外へと這っていく。チカチカと青く小さな閃光が走り、後ろの汚泥にも波紋のように伝わる。イルミネーションみたいで綺麗だ。
「大丈夫。みんな、協力してくれるって」
アルルが目を開いて呟く。青い瞳がうっすら発光していて、なんだか別人のように見えた。
その光景は魔女というより、神がかりの聖女に近く、普段は美少女ながら、どちらかというと可愛さの先行する彼女が、妙に美しい特別な女性に見えてタイロですらドキリとした。
窓の外を見ると、アルルの言う通り、汚泥達は道を開けるように左右に広がり、それが続いている。囚人は押しやられたのか、端で蠢いてはいるようだが動きを止められていた。
「すげえな」
ユーレッドがぼそりと呟く。素直な賛辞だった。
それを聞いて、まるで神がかりの巫女のようだったアルルの雰囲気がふっと変わり、ふわっとスカートを揺らせて振り返る。
「えへへ、これなら大丈夫だね」
満面の笑みを浮かべてアルルは呼びかけた。
「ユーレッドさん、さあ、行こ……」
といいかけて、手を差し伸べようとして、突然ふらっとアルルがバランスを崩した。予想していたらしいユーレッドが、さっと抱えて事なきを得る。
「あれ、っ、ごめんなさい。ユーレッドさん、なんか、私、急に眠くなって……」
「当たり前だろ。無茶しすぎだぜ」
ユーレッドは、軽く嗜めるようにいう。
「あれだけの数の黒物質に再プログラムするなんざ、魔女のお前らでもそれなりに負担あるんだからな」
(ぶらっく? まてりある?)
なにそれ?
タイロは初めて聞く言葉に、思わずきょとんとする。だが、ユーレッドの口からその単語が出たのは、アルルにとっても意外のようだった。
「あれ、ユーレッドさん、なんでそれ……、知って……。魔女の力のこと……」
(そうだよ。ウィス姐さんと親しいって言っても、なんでそこまで知ってるの?)
「さあなァ? なんでだろうな」
ユーレッドははぐらかして、いたずらっぽく笑ったが、ふっと何かに気づいたのか、一瞬獣のような目になって後方を一度だけ睨んだ。
が、再び穏やかな表情に戻る。
「まー、ちょうどいいや。いいタイミングだぜ、おひいさま、少し寝てろ」
ユーレッドがそう言ってにやりとした。
「寝てる間に、こんなとこ抜け出しておいてやるよ」
アルルが慌てて身を起こす。
「えっ、だめだよそんな! ユーレッドさんに負担かけちゃうでしょ! 大丈夫。歩けるもん!」
「大丈夫じゃねえよ。無理すんな」
ユーレッドはやんわりと諭すように言う。
「本当は俺が抱えてやれればいいんだが、俺は右手が使えねえからさ。オヒメサマみてえに大切に抱き上げることができねえんだよ。その代わり、ちょっとおまじないをしてやる」
急に妙なことを言い出したユーレッドに、アルルも見ているタイロもきょとんとする。
「何も言わずに見てろ」
ユーレッドはそう言い置くと、小刀の方をすっと抜いた。それの刃の近くを持つと親指を軽く刃に押し付ける。
何をするのかとアルルが驚く。
「ユーレッドさん!」
「いいから」
血がじんわり滴る。なんの変哲もない赤い血。しかし、その一点が何故かとても黒く見えた気がして、ドキリとした。いや、血が真っ黒に見えるのはおかしいことではない。しかも、周りは暗いから余計。
しかし。
「こいつがいいかな」
ユーレッドは窓の近くにいた大きな汚泥の塊に目をつけると、ぐいとそれを掴んだ。汚泥が生き物みたいにばたばた暴れているようだったが、ユーレッドは構わず親指を押し付ける。
先程アルルがやった時と同じような光が、今度は汚泥の中をさーっと走る。
(ユーレッドさん、何を?)
いつのまにか汚泥は大人しくなり、掴まれるままゆらゆらしているだけになった。
「さて、おまじないは完了だ」
「ユーレッドさん?」
アルルはタイロと同じ反応だ。一体、ユーレッドは何をしたのか。
と、その時、目の前で汚泥が不意にずるずると動き出した。にゅるんと持ち上がったと思えば、人のような姿を取り始める。ほんの一分もかからない間に、それは不完全ながら人のシルエットを象った。遠目には長身痩躯の男の影が、立体化したという風だった。
「面白い手品だろ。だが、俺がこんなことできるの、秘密にしとけよ。バレると面倒なことになるんでな」
ユーレッドはアルルを抱え上げ、その汚泥にアルルを抱えさせた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「ユーレッドさん、これ?」
「お前の再プログラムのお陰で、こいつらは正しい命令を受け入れられる状態になっている。で、俺が無理矢理上書きしてやった。命令した形になるようにな」
呆気に取られたアルルにユーレッドが言う。
「お前の魔女の力は、本来、黒物質の造型に関するものだろ。書き換えられて悪意に染まった汚泥と呼ばれる黒物質の、まだ無事な部分を使って元の正常な状態に戻し、命令を書き換える。俺の場合はちょっと違うがな。俺はアイツらと相性がいいから、俺の命令を強制的に聞かせることができるんだぜ。それで、俺の情報を渡してある。今なら、お前のおかげでコイツらは不定形以外の形になれるからよ。で、こいつには俺が設定した目的地に向かうよう"命令している"。わかるな? 先に待ってろ」
「ユーレッドさん? まさか、これ、ユーレッドさんの、コピー?」
そういえば、不完全なその汚泥の姿は、どこかしらユーレッドのシルエットに似通っていた。
「そんな上等なもんじゃねえよ。リモコン操作のぬいぐるみみてえなもんだ。だから、ただのおまじないだと言ってるだろう。だから、そう長くはもたない。せいぜい形保てるのも、三十分ってとこだ。ただし、それまでは他の囚人や汚泥も寄り付かねえ。安心して寝てろ」
アルルは眠りそうな目を必死で見開きつつ、ユーレッドの袖を掴む。
「ユーレッドさん、なんで? ユーレッドさん、もしかして? やっぱり……」
目を潤ませて尋ねるアルルにユーレッドは首を振る。
「話は後でな。レコ、お前はついていけ」
ユーレッドはさらっとそういうと、レコがきゅ、と鳴いてアルルに寄り添う。
「後で俺が無事なら話してやるよ」
ユーレッドはアルルの手をそっと袖ごと払い、行けと低い声で命じる。
「待って、ユーレッドさん!」
アルルの声を無視して、汚泥がざっと走り始める。その背格好が、さながら両手のあるユーレッドが彼女を抱き抱えているように見える。
ユーレッドは窓から彼女を見送ってから、手を下ろす。まだ親指から血が滴っている。さっきの黒さは見間違いだったのか、赤い血が手首の方まで流れているだけだ。
しばらくその流れる様を見ていたが、ユーレッドはその親指をぺろりと舌で舐めた。
獄卒は傷の治りが早いと、彼本人が言っていたが、ユーレッドの親指の血は既に止まっているようだった。
ユーレッドは、自嘲するように口の端を引き攣らせた。
「ふ、嫌なもんだよな。まだこう言うことができるんでやんの、俺」
ユーレッドの呟きは、スワロにすら聞かせるつもりがない、心の中の声がぽつりと出たかのようだった。
それから、ユーレッドはすっと表情を引き締めた。
「スワロ、さて、さっさと終わらせて後を追うぜ」
きゅ、とスワロが鳴く。
「アルルのことが気になる。レコとの通信が遮断されてないなら、お互い映像繋ぎっぱなしにしろ」
きゅる、っとスワロが鳴くと、画面の下側にレコの側の映像が現れた。
東の空が明るくなっている。アルルは睡魔に耐えきれなくなったのか、眠っているようだった。
それをスワロを通して確認し、ユーレッドは改めてぐっと目を細めると廊下の向こうを睨みつけた。
「気合い入れろよ! 折良く、めんどくせえやつの登場だ」




