3.昼下がりハンティングツアー
ぶわっと黒いものがタイロの頭の上を飛んでいく。
「おい、そっち行ったぞ! 気をつけろ」
「ひっ、ひえええ」
慌てて黒いねばねばしたものを避けつつ、タイロは建物の壁に背をつけた。
「ははー、危なかったな!」
ユーレッドの愉快そうな声が響いた。
(くそう、わざとだ。今の)
今のは囚人の飛び散った破片だが、絶妙にタイロにかからないように調整していたのだ。多分。
タイロは、ユーレッドをちょっとにらむ。
ユーレッドはというと、素知らぬ顔でタイロの五メートルほど向こうで応戦中だった。
付き合え、と言われて連れてこられたのは、そのあたりの路地の細い道をくねくねと深くまでいったところ。ずいぶんと入り組んだ場所で、何やら暗く、人気のない場所だ。
ユーレッドは、到着するまで「黙って進め」としか教えてくれなかったわけだが、
彼の言う通りに進んでいくとちょっと開けた場所に出た。
周囲を建物に取り囲まれた四角い広場。どん詰まりの行き止まりだ。
ユーレッドのことは、一定のところ信用しているタイロだが、流石に不安になる。
「何の用なんですか、こんなところで」
「何の用? お前、鈍いなあ。もうすでに見えてんじゃねえか」
ユーレッドがひきつった笑みを浮かべて、ちらりと視線を投げるのでそれをたどる。
と、視線をやった路地の片隅の暗がりが、どんどん黒くなっていく。おびえる間もなく、黒いものが溢れてきてそれが不定形な形になるのはそれほど時間が立たなかった。
「不定形型。しかし、ずいぶんと強い反応だな」
きゅ、とユーレッドの肩でスワロが同意するように鳴いた。
「え、用事って、コレですか? ちょ、なんです、これ?」
「なんです、って?」
ユーレッドは、大きな口でにやりと笑う。
「お前、そりゃあ食後の運動に決まってるだろ。馬鹿だな」
ユーレッドの楽しそうな顔。多分、タイロがビビるのをわかっていて、わざとなのだろう。
「話、きいてないですよ!」
タイロの叫びは虚しく無視されたのだった。
それで、結局、囚人ハンティングにつきあわされて、今に至る。
「どうして、こんな街中にこんなのがいるんだよー!」
タイロは思わずそんなことを叫びつつ、なんとか巻き込まれないようにする。ユーレッドがうまく抑えているため、囚人たちはタイロを直接襲うことはない。というより、タイロのほうに興味がいきそうになった奴からユーレッドが攻撃を仕掛けているのだ。
守ってくれてはいるみたい、だが、とても意地悪である。
ユーレッドは、ひきつったような笑みを崩すことはなく、余裕のある動作でつぎつぎと囚人を狩っている。
たっと地面を踏み切って、無駄のない動きで斬り捨てていくのは、いっそ芸術的だ。
今日の囚人は、不定形のスライム状のものだが、シャロゥグでみかけたものより黒い色が強い気がする。
しかし、ユーレッドはそんなものをものともしないで、華麗にすーっと刃を走らせて切り裂いていくのだ。
そして、ほぼ一撃で仕留める。相手のコアが見えているかのように、正確にコアを破壊しているらしく、大体、一回で囚人の姿がバラバラに崩れていくのだった。
(くそー、なんだかんだ言いつつ、かっこいいんだよなあ)
タイロは、ちょっと意地悪なユーレッドに腹を立てつつも、素直にそんな感想を抱いていた。
ずっと見ていられる……という気持ちもないではないけれど、いつ囚人がこっちに牙を向けないとも限らない。むしろ、早く終わらせてほしい。
「ユーレッドさあんん、なるべくお早くお願いしますー!」
そういったとたん、黒い返り血のようなものが飛んできて、タイロはうひゃあと声をあげながら避けた。
「ユーレッドさんんん、できたら穏便にお願いしますうう」
「注文の多い奴だな。穏やかにねえ」
あきれたような声でユーレッドはちらと彼を見て肩をすくめる。その左目がほんの少し歪んだように見えた。笑っているのか?
「わかったよ。……しょうがねえ奴だな。そこ、動くなよ!」
「へっ?」
不意に動くなと言われて、タイロがなんだろうと思ったとき、ふと隣の壁際に黒いものが見える。不定形型囚人がどろどろと這い寄ってきているのだ。
「のわあっ!」
「動くなよ!」
タイロが悲鳴を上げたのと、ユーレッドがそれを気合の声にしてだっと地面を踏み切ったのが同時だった。
スライムみたいな姿からぐわっと鎌首を持ち上げた蛇のようになった囚人が、タイロ向けて襲い掛かってくる。タイロが悲鳴を飲み込んだその時、闇よりも黒い囚人の首みたいな部分が真っ二つに引き裂かれて飛んでいく。その手並みにほれぼれする暇もなく、タイロの頭の数十センチのところにユーレッドはその囚人の破片をたたきつけた。
「これで最後!」
いつの間にか目の前に立っていたユーレッドが、唇を引き攣らせる様に笑ってタイロを一瞥する。
流石にぞわっとしてしまうタイロににやあっと冷たく笑みをくれて、ユーレッドはその場に崩れ落ちた汚泥を見やった。
「んー、スワロのレーダーにも俺の勘にも引っ掛からねえから、これで終わりだな」
まだ黒い液体の滴る刀に血ぶるいをくれてやると、地面でびしゃりと生々しい音が鳴った。
「穏便にって言ったのに、ひどいじゃないですか!」
ようやく、声が出るようになったタイロが、むーっとユーレッドを睨みつついうが、ユーレッドは余計楽しげな顔だ。
「穏やかにしたろ? そうじゃなきゃ、お前に返り血被せてるぜ」
ユーレッドは意地悪くニヤニヤし、懐紙を取り出している。刃の表面を拭うのだが、ユーレッドは右手が使えないので柄の部分をくわえてからぐっと刃に懐紙を当て拭き取る。いつもは囚人の体液はどす黒くなった血のようだが、今日はもっと黒い。まるでイカ墨みたいだ。
「ま、被せたくもなかったんだがな。ここの囚人は汚泥の濃度が高い。スワロがこいつを吸収しきれてないのは、濃度の高さにも関係がある。見ろ、この色。真っ黒だぞ。イカ墨みたいだろう」
「それは俺も思いました」
拭った懐紙を見せながらそんなことを言う
ユーレッドだ。ユーレッドみたいな男でもイカ墨とかいうんだ、とちょっと安心する。
そうこうしてユーレッドが鞘に刀をおさめていると、例の戦闘態勢に変形していたスワロが上空からゆるっと戻ってきて、パキパキと元の丸い姿に戻っていく。
「ご苦労。こいつは流石に美味じゃなかったか」
ユーレッドはそう声をかけ、スワロを肩先にとまらせる。
「ま、管区が違うんでまるまる俺の成績にはならねえが、食後にちょうどいい運動だったぜ」
ユーレッドはそういってからっと笑ったが、改めて座り込んでいるタイロに目をやって眉根を寄せた。
「なんだァ、結局腰抜かしてるじゃねえか。大丈夫か、お前」
「こ、腰は抜けてないです!」
慌ててタイロは立ち上がり、強がってみた。
「ほ、ほら、立ち上がれますもんね!」
ユーレッドはその様子をみて、ふふんと笑う。
「それは結構だな。でも、膝ガクガクじゃねえかよ」
「こ、これはー、そのー、ちょっとした武者振るい的ななにかですよっ!」
「ははー、口だけは一丁前だな」
ユーレッドはからかうように言いながら、肩をすくめた。
「ま、逃げ出さなかったのは褒めてやるよ。そこだけは及第点だなー」
明らかに楽しそうに、にやにやするユーレッドをタイロは思わず睨む。
「あー、ひょっとして俺を試したんです?」
「まさか。俺は難しいことを考えるのは好きじゃねえから、そういうややこしいことはしねえよ。逃げ出してくれれば楽だなあとは思ったがな」
意地悪くそう言うと、タイロに背を向けて、ユーレッドは改めて囚人の残骸を見やった。
「だが、たしかにおかしいんだよな。なぜこんな街中、しかも真っ昼間に、コイツらが、しかもこんな汚泥濃度の高い奴がいる?」
「うーん、そういわれると……。わからないですね。それにしても、汚泥ってすごいな。濃度が高いとこんなイカ墨みたいなのになるんですね」
タイロは、ユーレッドが壁に叩きつけた囚人の残骸にそっと手を伸ばしかける。
「それに触るな」
ユーレッドがやんわりと、しかし、タイロの指先が触れない的確なタイミングで警告する。
「無力化したっていっても、汚泥はてめえらには毒だ。しかも、こいつら、シャロゥグの郊外にいるやつらより濃度が桁違いに強いぞ。下手したら、火傷じゃ済まねえぜ?」
「えっ、そうなんですか?」
慌てて手を引っ込める。
「こいつらの濃度は、荒野の深いところにいるレベルの度合いだ。これくらいになると、お前ら一般人は皮膚が火傷したみてえに爛れるぜ。靴底にも付けないほうがいいな」
「そうなんですかー!」
タイロはややびびりつつ、爪先立ちになる。
「しかし、そんなもんを俺の頭の先数センチのところで」
「俺は方向は考えたぞ。実際、お前には飛沫もかかってねえじゃねえか」
「そりゃーそうですけど」
ユーレッドなりの気遣いらしいが、それにしても乱暴じゃないか。タイロの不満をさらりと無視しつつ、
「それに、一番濃度が高いのはコア周辺だ。だから、お前にかかりそうだった破片なんかはひどい影響はねえよ。ただ、踏むとなると、どこ踏むかわからねえから、宿に帰ったら靴底は洗え。アルコールで拭いてもいいぞ」
「りょ、了解です」
急に怖いことを言うので、タイロはおどおどしつつ、ユーレッドを覗き込む。ユーレッドはというと、しゃがみこんで囚人の残骸を確認している。
「汚泥が意外と危ないのはわかりましたが……、ユーレッドさんはそれ触って平気なんですか?」
「俺か?」
尋ねられてちょっと意外そうにしつつ、
「獄卒にそんなこと聞くか、お前」
「あっ、すみません。気になったのでつい」
「構わねえよ。大した理由じゃねえし。お前みたいな獄卒管理の獄吏なら、俺たちのことはもっと知っておかなきゃならねえし、教えてやる」
ユーレッドはそういうと、タイロの方に向き直った。
「獄卒は対汚泥向けに強化された肉体を持つのは、お前も知っているだろ。そうはいっても、限界はあるわけだが、ま、お前ら一般人よりかなり丈夫で対策はできている。こんなふうに」
と、ユーレッドは素手で汚泥を掬い上げた。
「まずもってこの程度では、皮膚が爛れたりはしない。まあでも、お前は真似すんなよ。それにな」
とユーレッドは黒い汚泥で汚れた指を下に向けた。どろどろしたそれが、それでもするりと落ちていく。手を振ると残りが綺麗に落ちて、ユーレッドが懐紙をぐしゃっとやって拭き取ってから手を開いて見せる。汚れは見た限り見当たらなかった。
「汚れも落ちやすい。どういう仕組みかわからねえけどな。だから、俺だって紙切れで手を拭うだけで事足りるんだ」
「すごいですね!」
「別にすごくはねえだろ。そういう稼業だからだ」
「でも、獄卒の人って丈夫だし強いし」
「代わりに精神は紙切れ同然の奴もザラよ。それに、致命的な弱点もある。さっきインシュリーにやられてひっくり返ってた奴がいたろ。なにも便利なだけの体じゃねえぞ」
ユーレッドは薄ら笑いを浮かべつつ、ふとちょっと凄むように歯を見せて言う。
「俺も獄卒。その気になればお前でも俺に勝てるかもな」
「それはないですよー」
タイロが軽く返答する。
「ユーレッドさんみたいな人と喧嘩するとか嫌すぎますし。絡まれたらお金払って穏便に済ませた方が百倍いいですよ」
タイロはさらっと笑っていう。あくまで軽い。
「勝てるってわかっても、後が怖いんでやらないですって」
それにちょっと拍子抜けしたのか、ユーレッドは思わず呆気に取られてしまった。
「お前なあ。いや、ヘタレな割にお前は本当……」
ユーレッドはちょっと唸って、
「なんてえか、心臓に毛が生えてんな」
ユーレッドはしみじみと苦笑して言う。タイロは不本意そうに口を尖らせた。
「えっ、そんなことないですよう。俺なんか、超謙虚じゃないですか!」
「てめえだけが知らねえのだろう? ま、いい」
ユーレッドは肩をすくめる。
「でも、こんな奴らが日中、街中にいるの、マリナーブベイだと、当たり前なんでしょうか? さすが危険な街ですね」
「まさか」
ユーレッドは薄く笑う。
「それならもっと街中が荒廃してるぜ。ここに住んでる奴がどうだか知らねえが、囚人にすすんで喰われたいやつなんざあ、そうそういねえからよ。普通なら大混乱だぞ。棲み分けができてるんだよ。不自然なことにな」
「それもそうか。でも、囚人って理性ない感じなのに、棲み分けとかできるんでしょうか?」
「なにかある。こいつらは、ここの住人を好き勝手食ってるわけじゃねえ筈だ。そうでなければ駆除されなけりゃあおかしい。それにこの濃度。やっぱり、気になるよな」
ユーレッドは腑に落ちないといった顔で、小首を傾げた。