6.インシュリー
急に不穏な空気が流れ、タイロは緊張した。
唐突に流れる重苦しい気配。やたらと殺気に満ちて、普通に息を吸うのもはばかられるような、そんな雰囲気だ。
(え、なんなの、この空気。えっ、何、この二人、知り合い?)
先に動いたのはユーレッドの方だった。ふっと笑って肩をすくめる。
「これは珍しいとこで会ったな。インシュリー。こんなところに来ているとはな」
インシュリーは無言のまま、彼を睨みつけている。
「つーか、なんだ。お前。E管区でみかけねえと思ったら、こんなとこにきてたのかよ」
ユーレッドの言葉はちょっととげとげしいものの、彼にはそれでも多少は友好的な気配はある。
「ご苦労なことだぜ」
喧嘩を売るときのユーレッドの態度はもっとあからさまだ。彼なりに気をつかってはいるようだった。
それに比べて、問題なのは、むしろインシュリーの方だった。
インシュリーは明らかにユーレッドを敵視している。そういえば、彼は獄卒には厳しい態度をとっていたが、それにしたって、これほどの殺気を感じるのは尋常ではない。
(なんなの、この感じ。知り合いとか聞いてないんですけどー)
タイロは焦りつつも、ちらちらと様子を見る。
(どういうこと? なんか、色々あったの?)
ユーレッドの方は比較的涼しげな表情のままだ。
先程出かけている間に、肩にかけていた襟が黒地に花柄模様のある白ジャケットには袖を通し、サングラスは胸ポケットに直されている。腰には専用の剣帯に二本の刀。そんな彼の肩にスワロが怖がるように寄り添っている。
至って平静な普段のユーレッドだ。
と、ふとタイロは何かに気づいて、あっと声を上げた。ユーレッドは、ジャケットの左袖から左手にかけて赤黒い液体を滴らせていた。
「えっ、ユーレッドさん左手!」
慌てて声をかける。
「なんか、お怪我とか?」
「馬鹿野郎、返り血に決まってるだろ」
タイロが尋ねると、さも当然のようにユーレッドが返してきた。
「か、返り血?」
不穏な言葉に不安そうにするタイロだが、ユーレッドは眉根を寄せて左手を振る。
「どうも子機が近くにいねえと吸収率が悪くてな。刃の表面は落ちるんだが、袖が汚れちまったぜ」
ユーレッドは思い出したように懐紙を取り出し、うまく手やジャケットの袖あたりを拭う。それでも少しは苦労していたが。
「何を斬った? 貴様、まだそのような……」
インシュリーがそんな彼をにらみつけながら尋ねる。
意外に几帳面に袖をぬぐっていたユーレッドは、手を止めて薄ら笑いを浮かべた。
「ふん、まさか俺が一般人斬ったとでも?」
インシュリーは無言。しかし、まっすぐにユーレッドを睨みつける。
「あのな、あの一件以後、俺には晴れて獄吏監視がついてるんだぜ。こんな白昼堂々、なんで通り魔しなきゃならねえんだ?」
ユーレッドは肩をすくめて、ふき取って綺麗になった手で煙管を取り出し、くわえる前に見せつけるように手元で振った。
「”これ”だって、そうだ。飲みたくもねえ”鎮静剤”の吸引なんざあ義務付けられてな。俺はな、これでもそれなりに真面目にやってるんだぜ。たまに獄卒斬るぐらいシュミとして許してくれてもいいもんじゃねえか」
「え、それ煙草じゃ……」
『泰路、それ本当よ』
話を聞いていたらしいジャスミンが小声で、タイロにだけ伝わるように言う。
『彼、確かに、殺人衝動抑制用のクスリが処方されているわ。一日一本以上が義務。といっても、彼には囚人を狩ってもらわないといけないし、効き目はさほど強くないらしいんだけれどね』
「え、そうなの?」
『あれからもうちょっと詳しくデータ調べてみてたら、彼の処方箋までは探れたのよね。あとでデータ送るわ』
ジャスミンは、いったいどういうルートでその辺の情報を探ってくるのか。タイロはかなわないなと思うのだ。
一方、タイロとジャスミンの話を聞いてもいないユーレッドは、薄く笑いながら話を続けていた。
「っても、獄卒は獄卒斬っても、藁人形斬ってるみてえで、大して気持ちよくはねえんだけどな。元から同志討ち防止用にそう”設定”されているんだそうだ。……って話ぐらい、今のテメエには当然わかってるよな、インシュリーよ」
ユーレッドの右肩にスワロが身を寄せるようにして縮こまっている。それを軽く撫でやりながら、彼は小首をかしげるようにした。
「てことで、今の俺が獄卒斬るのは、どうしても気持ちが抑えられなくなった時でな、……そうでもなけりゃあ、普通に囚人狩る方が”満たされる”。目の前にうまいエサがぶら下がってたらそっちの方に行くに決まってんだろ。だからよ、囚人狩りだよ」
ユーレッドは嘲笑うようにいった。
「てめえらが囚人をちゃんと管理しねえからこんな街中にも出るんだろ。掃除してやった俺に礼の一言もナシか?」
「え、やっぱり、いたんですか?」
「ああ。さっきからチラチラ嫌な気配がしてな。気になって仕方がねえから、始末してきただけだ。文句言うならそっちで管理しろよ」
「えっ、でもスワロさんもまだ気づいてなかったのでは?」
思わずタイロが尋ねると、ユーレッドがにっと笑う。
「スワロのやつは俺が片付けてから気づいている。だから警告しなかったんだろ。汚泥そのものについては感づいていたぞ」
あと、とユーレッドは補足した。
「それに、相手が近い場合はスワロより俺の方が気付くのが早いんだよ。ま、なんだ、勘ってやつでな」
「え、すごいなあ……」
うっかりとタイロが称賛の嘆息をついてしまう。その様子をジャスミンが不機嫌そうに見つめているのに、彼は気づいていない。
「で、インシュリー、貴様はなんだってここに来た?」
ユーレッドは問いかけたが、インシュリーは返事をよこさない。しかし、ユーレッドの方も返答を期待したわけでもなさそうだ。
「ま、おおよそ、テメエだって囚人に引き寄せられてここまで来たんだろうな」
ユーレッドは肩をすくめた。
「この街、どうかしていやがるぜ。いくらなんでも俺だってこんな街中の片隅で囚人が出るのもどうかと思うぞ。だが、まあ、他人のシマの話は俺にはどうでもいい。どうせ俺はこんなところに住み着くつもりもねえんだし? しかし、目について気になるのは止められねえから綺麗にした。そのことは感謝されこそすれ、咎められるいわれはないぜ」
「それなら我々に報告すればいい。相変わらず殺戮を楽しんでいるだけだ」
インシュリーが重たい声で告げる。
「お前は何も変わっていない」
「はは、変わってねえって? なんで変わる必要がある?」
ユーレッドは嘲笑う。
「大体、それはしょうがねえことだろ。俺は元からそういう風にできてる。文句があるなら”造ったやつ”に言えよ」
ユーレッドは肩をすくめつつ、煙管をくわえて一息ふかした。
「だが、それでもこの世界の役には立ってるんだろう。それこそ獄卒の本分だ。俺みたいなロクデナシですら、"平和維持に役に立つ"だろ。お前らが望んで作った世界じゃねえか」
インシュリーは黙っている。ユーレッドは左目だけを軽く見開くようにして言った。
「で。俺の話はこれで全部だが。お前の方はなんかまだ話があるのか?」
インシュリーは、まだ黙っている。ユーレッドも薄ら笑いをおさめて無言におちる。
一種異様な空気が流れ、タイロはびりびりした緊張感に思わず身をすくめた。
『泰路、なんか様子が変だわ。インシュリーさん……』
ジャスミンが不安げに小声で声をかけてくるが、タイロは返事ができないでいる。
ふっと冷たい空気が流れて、インシュリーが一歩足を踏み出す。ざり、と砂の音がした。
「お前がここに来たのはベール16の差し金だろう。まだベール16とまだ付き合っているようだな」
「なんだ、聞きたいのはそんなことか」
ユーレッドはふんと鼻で笑う。
「お互い持ちつ持たれつってやつだ。だが俺は依頼されてここにいるだけのこと。来たくて来たわけじゃない」
ユーレッドは探るように彼を見やっていたが、
「まさか、奴とまだ女の件で揉めてるのか?」
インシュリーが軽く眉を動かす。ユーレッドは眉根を寄せて苦笑する。
「お前の女の件にはな、以前も今も俺は関わってねえ。ベールとてめえの問題で、俺がてめえと戦ったのは別件で、だがそれも終わった話だろ。テメエが勝って、今みたいに出世して、俺の方は本部監視付きの不良獄卒。それでもおさまらない話があるのかよ?」
インシュリーは直接答えない。ユーレッドは追い討ちをかけるように告げた。
「しかし、何だな、だったらなおさら、何故マリナーブベイなんぞにいるんだ。女ほっぽって来るほど、おもしれえことでもあったのかよ?」
インシュリーがぴくりと反応する。
「お前、E管区じゃ失踪扱いだったな。てめえの上司だかなんだかが聞きにきたぜ? 俺は何にも知らなかったが、なるほど、さては調査員にでもなったか? そりゃ女捨てて出世選んだってことだろ。だったら、なおさら、ベールの奴に気を付けなければな」
「貴様!」
インシュリーが距離を詰めて、ユーレッドの胸ぐらをつかむ。ユーレッドは目を細めた。
「なんだ、図星か? 今日は勘がよくあたる日だ」
ふん、とユーレッドは嘲笑う。
「だがそういう話は俺は知ったことじゃねえ。てめえらが、勝手にやってりゃいい。別にお前の女がどうなろうが知ったことじゃねえし、お前の今の身分になんか興味ねえよ」
ユーレッドはインシュリーを睨みつけるように見る。
「俺がテメエに用があるとすれば、勝負する気があるかどうかの時だけだ。こんなところにいるんだ。テメエだって、そういうつもりがあってここに来たんだろう?」
「お前は私と違う! お前は殺戮を楽しんでいるだけだ」
インシュリーの手をばっとユーレッドは払って間合いを取る。
「そりゃあそうだとも。俺とお前は違う。俺には何もないからな。望みも希望もなにもない。所詮、貴様みてえに何でもかんでも"持っている"ような奴には一生わからねえ話だ!」
と一拍おいて、ユーレッドは目尻を歪めて笑った。
「とか、次会ったら言ってやろうとずーっと思っていたんだがなア……」
と笑みを収める。
「なんかな、どうもなア。嫌な感じがするんだよなア、今のおまえ」
ユーレッドは目をすがめる。
「俺は同類は匂いでわかるんだぜ。大体血の匂いがするからよ」
ユーレッドは絡むような口調になる。
「昔のお前には、確かにこんな匂いはしなかった。腕は立つが、世間知らずの人のいいおぼっちゃまって感じでな。だが、何故かな。今のお前からはひでぇ匂いがする。そりゃあ好きな女も放置して、こんなところまで来るわけだ。一体、なんでそんな気になったんだ、お前」
インシュリーは答えない。軽く間合いを取っている。その瞳は静かなようで明らかに殺意を灯していた。
いつでも剣を抜けるような距離。ユーレッドも手をそっと刀の柄に近づける。
「インシュリー。その全身の血の匂いを、てめえどこでつけてきた?」
返答はない。
その代わりに、インシュリーの手がざあっと刀の柄にのばされる。
「やるのか、インシュリー」
ユーレッドはまだ棒立ちだが、微かに気配が変わっている。インシュリーが静かに告げる。
「獄卒の体質は分かっている。対抗しても以前と同じだ」
ユーレッドが、ハッと嘲笑う。
「ああそれな。てめえらに一発食らったら失神する話かよ。さて、どうだかな? やれるものならやってみろ」
インシュリーが素早く剣を抜く。それに応じてユーレッドが素早く柄を握った時、ふと、彼の目の前に影が割り込んだ。