6.消された名前
射撃場のロビーは、いろんなものが置いてある。ガラス張りのそこからは、野外の練習場も見えていたが、車がたくさん置いてあった。
スワロは興味深げに、それを観察している。最新式のものもあって、なかなか興味深い。
今日は平日なこともあって、客も少ないらしく、受付の職員も事務所に入っていて、ロビーは他に人がおらず、がらんとしていた。
「スワロさん、お待たせー」
手洗いから帰ってきたタイロは、ハンカチで手を拭きつつ、スワロに声をかける。
「何見てんの?」
きゅ、ぴぴー、とスワロが鳴く。
スワロの言葉は、相変わらずタイロには伝わらないが、なんとなく言いたいことは想像できる。
「わあ、すごい。武器とか車とかたくさんだねえ!」
ロビーのケースには、レプリカの銃などもあるが、タイロは特に車両関連に視線が向いている。戦闘訓練に積極的ではないタイロは、武器より他のものに興味があるようだ。外にもたくさん置いているので、ついつい視線がガラスの外に向けられる。
と、スワロの視線を感じ、タイロは慌てて言った。
「え? 俺、見に行かないからねっ!」
タイロは慌てて行った。きゅー? とスワロが小首をかしげる。
「だって、100%見にいくとか言われたんだよ。ここで見に行ったらカッコ悪いじゃない」
むーん、とタイロはうなる。
「男の沽券に関わっちゃうんだからね。俺だって子供じゃないんだから。ユーレッドさんも失礼だなっ!」
と、おかんむりだ。
「じゃ、戻ろう!」
きゅー、とスワロは、意外そうにしながらついていく。
が、タイロは程なく足を止めていた。
ちょうど目の前に、新型のバイクの展示がある。何やら専門的な、多分汚泥や囚人関連の戦闘用計測器もついていて、デザインもかなり格好いい。
「あー、えー」
タイロは、さらっとスワロを振り向く。
「やっぱり、ちょっと見ていっていい」
あまりに素早いてのひら返し。きゅっ、とスワロが鋭く突っ込む。
「い、いやー、やっぱりー、こういうとこでしか、最新式の見られないもん。そ、それにねー、ウィス姐さんも、たまにはユーレッドさんと二人でいたいかなーって。俺としましては、気を遣っちゃうわけですよ」
と言い訳しつつ、タイロは誤魔化すように笑う。
「だからねっ、そのー、男に二言はないとか、そういうの古いし、俺、こだわらない人だからね。やっぱ、見る!」
きゅー、とスワロが呆れたようにタイロをみる。が、どうせそうなると思っていたらしい。こういう時、ご主人のユーレッドの見立ては鋭い。ちゃんと当たるのを、スワロはよく知っている。
「でもさー。これ、超かっこいいね」
タイロは、もはや体面とか気にせず、バイクに齧り付いている。
「そういえば、ユーレッドさん、こういうの乗るんでしょ? すっごい似合いそう! ねえ、あとで車も乗りたいよね」
きゅーと同意しつつスワロが、タイロの頭に軽く乗りかかる。
「俺は免許持ってないし、免許取るの、大変そうでやだなーって思うけど、こういうの見てると欲しいよね。自動車教習もユーレッドさんに教えてもらっちゃだめかなぁ」
スワロから見ても、そのバイクは最新式で、しかも、デザインも格好が良く、なおかつ車体がちょっと派手。
きっと、ご主人も好きに違いない。
ユーレッドはファッションセンスは終わっているし、奇抜なものも好きだが、車やオートバイなどは普通に格好いいものが好きだ。
なので、その辺はスワロは安心している。ただですら悪目立ちするご主人なので、年甲斐もなく暴走族の真似事だけはやめてほしい。
タイロが計器類や汚泥センサーなどの付属品に夢中になっているのを、スワロは頭の上からじんわり眺めていた。
「スワロさん」
不意にタイロが尋ねる。きゅ、と首を傾げるスワロに、タイロは続ける。
「もしかして、スワロさんは、俺が無理して明るくしてないかって、心配してくれてる?」
尋ねられて、スワロがちょっとうつむいて、きゅーと小声になる。タイロは苦笑する。
「大丈夫。俺は無理してはないよ」
ぴ、とスワロが軽い電子音で鳴いた。
「うん。そりゃあさあ、自分の生い立ちわかるって大ごとだし、俺だって全く思うところがないわけじゃないんだけどね」
タイロはバイクにまたがりつつ、頭の上のスワロと話す。バイクは小柄なタイロにはちょっと大きくて、あまり似合わなかった。
「でも、自分でも驚くほど衝撃なかったのも、本当でね。だって、もっと悲惨なことかなって思ってたから。幸せにしてたところで一家全滅して……とか言われるより、なんか変な組織にいたけど、結果的に助け出されて、今、幸せになったんだ、って方が後味良いもん」
きゅー、とスワロが鳴く。
「俺、給料安いし、彼女もいないけど、同年代少ない支部の中では、友達も少ないわけじゃないしさ。ヤスミちゃんみたいな可愛い子と幼馴染だし、めっちゃ恵まれてる。しかも、今は、ユーレッドさんやスワロさんにも遊んでもらえて、すごく楽しい。今でも、あの時、助けてもらってよかったなって思えるから、それって、とても幸せなことだと思う」
きゅきゅ、とスワロが同意するように鳴く。
「うんうん」
タイロはしみじみとうなずく。
「だからね、メガネ先輩が、なんか逆恨みしてるとしたら、本当に不幸なことだよなあって。なんでそんなに感じ方違うんだろうね。皆、立場や事情が違うんだろうけどさ。感じ方だけで幸せになれないなら、かわいそうだよ」
タイロはため息をついた。
「あの人、嫌味だし、超冷たいし、腹立つこと多いから、俺、正直好きってわけじゃないけど、一応、同僚だもん。なんとかしてあげたいかもあるし。直接、事情聞ける気はしないけど、なんか印象変わっちゃうよねえ」
きゅうう、とスワロがうつむく。
「うん。まあ、俺が気にしてても仕方ないっか。ごめんね、暗い話して」
タイロは明るくそういうと、立ち上がってガラス張りの外を見る。野外練習場に人はいないようだ。
「外の車とかも見てみよっか! レンタルできるみたいだし、気分転換にユーレッドさんに郊外にドライブ連れてってもらおう。できるなら、カッコいい車借りたいよね」
きゅきゅ、とスワロが同意する。
「それじゃ、寄り道決定!」
タイロは頭の上のスワロに笑いかけ、野外練習場に向かった。
*
甘くて素朴で美味しい。
可愛くて美味しい。
彼女にとって、ドーナッツは、昔からそういうお菓子だ。
珈琲をテーブルにおき、貰ったドーナッツを口に運びつつ、ウィステリアはタブレットのニュースサイトで流れる広告映像を見ていた。
広告の映像は、畑に降り注ぐ恵みの雨。なんのCMだろう。
向こうでは、ユーレッドがヴァーチャルモードに切り替えて、射撃訓練をしている。ヴァーチャルにすると、実弾を使わない上、ゲーム形式になる。ゴーグルをかけて映像を見ながら遊ぶのだが、ヴァーチャルモードでも使う銃の反動だけはリアルだった。
ゲーム内のミッションの難易度を考えると、あのタイロでは、レベルイージーでもなかなか厳しそうだ。
一方、ユーレッドは。
「いやっはー! 絶好調だな、オイ! はっはー! 月間MVP狙ってやるー!」
(タイロくんとどっちが子供なんだか)
なんだかテンションの高い声が響いているところをみると、よほど成績が良いらしい。どうやら、このごろの彼は本当に調子が良いらしいのだ。
そんな彼から目を離して、タブレットを見やる。CMはまだ雨の映像だ。畑に降り注ぐ恵みの雨の中、少女が舞い踊っている。そして、何者か男が現れて、少女は彼女に笑いかける。男は優しく傘を差し出す。
保険会社のCMのようだ。しかし、何かを思い出させる。
(雨か)
ユーレッドと初めて出会った時。あの時も、ひどい雨が降っていた。あの時も、あのひとは傘をさしかけてくれたのだ。
(あのひとは、彼とは限らないけれど)
そう。あのひと、"彼"が、目の前のユーレッドであったかどうか、ウィステリアは未だによくわからないのだけれど。
ここの管理局が今のように整備されてはいなかった時のこと。まだ少女だったウィステリアは、強化兵士の一人として荒地に送り込まれた。
生還することすら絶望的な状況に、護衛として派遣され、現れたのが"彼"だ。
彼は怯える彼女に新しい名前とドーナッツを与え、敵から救ってくれた。
中央管理局直属の、特殊な強化兵士であり、騎士であった彼は、優秀な戦士だった。乱暴な一面もあったが、ウィステリアに対しては兄のように振る舞い、優しかった。
その優しい男と、彼女はしばらく行動を共にした。彼はウィステリアを守る命令をされていただけの騎士だったが、それでも、相応以上に優しくされ、大切に守られ、彼から愛情を受けたのは確かだった。
そんな彼にウィステリアは初めての恋をした。彼の方は、気づいていなかったかもしれない。彼にとって、自分は妹のようなものだったと思う。
その彼は、とっくに死んでしまっていて、公式記録は今では抹消されているけれど、やがて彼女の前に現れたユーレッドは、死んだはずの彼とよく似ていた。
実のところ、ユーレッドと同じ容姿の人間は、さほど珍しくもない。
オメガ・ラインが創造主αの遺伝子を、無闇に子供にくみこんだみたいに、優秀な強化兵士の複製はかつては乱用されたものだ。結局、騎士の彼ほど優秀な人材はできなかったと聞いている。その生き残りが獄卒に堕ちても、なんの不思議もない。
それでも、その男にユーレッドはあまりにも似ている。それだけではない。彼は、時折昔のことを知るような、惑わすようなことを言う。結局、はぐらかすけれど。
ともあれ、ウィステリアにとって、かつて雨の日出会った優しい兄のような男と、目の前の凶悪な獄卒は、確信のないままほぼイコールで結ばれている。
だからこそ、ある一点が気になった。違和感しかなかったのだ。
「ははは! 今月の最高点塗り替えてやったぜー!」
ゴーグルを外しながら、ユーレッドがご機嫌で戻ってきて、どかっと椅子に座る。
「お前も試しに遊んでくれば? 俺の成績に挑戦させてやるぜ」
「何子供みたいなこといってるのよ」
ウィステリアは呆れたようにいったが、本当は気もそぞろだった。
ユーレッドは、ふふふーと鼻歌を歌いながら、成績表を眺めている。今日は機嫌がいい。確認するなら、今しかないと思った。
「ねえ、旦那」
「あん?」
「あの、気に障ったら、ごめんなさい」
ウィステリアが、妙に改まる。ユーレッドがきょとんたした。
「なんだよ?」
「創造主のこと、その、本当に知らないの?」
「何かと思えば?」
ユーレッドは両手で肩をすくめる。
「知らねえよ。オオヤギと繋がりあるんだっけ? 俺が知ってる古参のヤベー奴は、オオヤギと、お前の上司と、ドレイクと、あとはオオヤギにくっついてる変な方言喋る上に、性格悪りぃクソクラッカーのやつだけだな」
「クラッカー? あ、ああ、タイゾーさん?」
ウィステリアも彼のことは一応知っているが。ユーレッドはあからさまに嫌な顔をする。
「そうだ。あのフカセのヤローがオオヤギの連絡先管理してやがるからな。普通に電話するとヤツが出るんだよ。で、選別してから、オオヤギにつなぐと」
「そうなんだ」
「あー、オオヤギといえば。そうそう、さっき、タイロの連れの娘が、レコを連れていてな。どうやら、ドクター・オオヤギはマリナーブベイに来てるらしいぜ」
ユーレッドが思い出してそう告げる。
「え、そうなの? それは聞いてなかったわね」
ウィステリアは目を瞬かせる。
「連絡したの?」
「いやまだ。だって安易に連絡したら、フカセが出るだろ。まあでも、スワロのこととか、一回オオヤギに診せておきたかったから、アイツがここに来てんのは好都合なんだがな」
どうやら、ユーレッドはフカセ・タイゾウがあまり得意ではないらしい。
ユーレッドは、彼と同じ顔のT-DRAKEに対しても、正直一歩引いてはいるが。傍若無人なユーレッドも、ドレイクには確かに一目置いているらしい。
「ま、オオヤギについては、レコからその後の連絡くるだろうし、その内俺からも連絡するさ」
「そうね。それがいいと思うわ」
ウィステリアは、ふっとため息をついた。なんとなく気が抜ける。
「そっか、じゃあ、その、知らないのね」
やはり、あの昔の彼と今のユーレッドには、何かしら断絶がある。本人ではないのかもしれない。それはそれで寂しいけれど、覚悟はできていたことだ。
それに、"あのひと"は、見捨てられて死んでしまったのだ。あんな気持ちを、ユーレッドに味わっていて欲しくなかった。
「知らなくていいんだわ。"アマツノ"さんのことなんか」
ウィステリアのその言葉は、ほとんど小さな独り言だった。
が。
「アマ、ツノ?」
ユーレッドが思わずそれを拾って反芻する。見える方の左目が見開かれ、微かに揺れる。
「旦那?」
ユーレッドは、ウィステリアのことが見えていないかのようだ。微かに息が乱れる。
「どうしたの?」
「ア、アマツノ……」
呆然とユーレッドは呟く。
「ア・マ・ツ・ノ・マ・ヒ・ト」
とユーレッドは不意に顔をしかめた。
「ぐ!」
うめき声をあげて、頭を押さえてうずくまってしまう。
「ユーさん!」
ウィステリアが立ち上がる。ユーレッドの息が荒い。
「つつッ! くそ!」
「だ、大丈夫? あ、あの、ここ、救護班が常駐してるから! よ、呼ぶね!」
「ま、待て!」
慌てて連絡しようとする彼女を、ユーレッドは軽く手をあげて止めた。
「あ、安心しろ。たまにあるヤツだ」
ユーレッドは青ざめた顔で、ウィステリアに視線を向けて苦笑する。
「す、すぐ治る。落ち着け」
「でも!」
「大丈夫だから」
ユーレッドは強くそう言って、息を整えた。しばらくすると落ち着いたようで、ユーレッドは頭から手を離して長く息をつく。
「くそ、なんだってんだ。まったく!」
ウィステリアは狼狽していた。
「ご、ごめんなさい。あたしが、余計なこと言って……」
「いいよ。お前のせいじゃねえよ」
ユーレッドはそう言って、まだ青ざめた顔で苦笑いした。
「ただ、その名前。しばらく出さねえでくれよな。ぶり返すから」
ユーレッドは、ペットボトルの水を飲みながら目を細めた。
「あ、あの、なんで? そんな……」
「ふふふ、それは俺が廃盤の、ポンコツの骨董品だからだよ」
ユーレッドが苦笑した。
「それな、何度も聞いてんのもわかってる。でも、その都度、消えちまうんだよな、その名前。知ってる、多分、それ、創造主の名前だろ」
ユーレッドは深くため息をつく。
「オオヤギから聞いてるし、俺もうっすら覚えてる。なんかしら、深く関わりあるんだろ」
ウィステリアは、黙っていた。
「名前とそれに関する事柄が、強制的に記憶から抜け落ちるようになってる。俺の記憶の虫食いはそれが原因なんだって、本当はわかってんのさ。今のはその消去に伴う頭痛みたいなもん」
ユーレッドはそう言って、にやりとした。
「俺みたいな旧式にはよくあるんだ。そういうな、製作者側の設定した、制約みたいなもんがな。特定の記憶を思い出さないようにって、引っかかるたびに消去するやつ。今のそーゆー奴らには、最初から都合の悪いのは記録しねえ機能があるんだろうけど、俺の時はリアルな人間らしさの方が追求されてたもんで。ふふ、どっかでバックアップされてんだろうな。なんかの拍子にフラッシュバックすんだよ。なんで、後付けで、それを消すようにされてる。なんていうか、大昔にかけられた呪いみたいなもんだぜ。オオヤギも、これだけは破れねえらしいからな」
ユーレッドが苦笑する。
「俺は多分、連中にとって都合の悪いことを知りすぎてるんだろ。俺とドレイクは、そういう仕事してたんだ。ドレイクのやつもそういうの、あるんだろうけどな。まあなんだ、結局、廃棄寸前の旧式は辛えよな、って話」
ユーレッドはすっかり落ち着いたようで、右手の義手とで両手を組んで、頭の後ろにもっていく。
「あの、ごめんなさい」
ウィステリアは、落ち込んだ様子で謝る。
「不用意に過去に触れるようなことして。ごめんなさい」
「は? なんでお前が謝るんだよ?」
ユーレッドは苦笑いした。
「あたしが、変なこと言ったのが悪いから……。ご、ごめんなさい」
「だから謝んなって言ってんだろ」
ユーレッドは立ち上がる。
「ウィス」
ユーレッドはそう呼んで顔をあげさせる。あのひとと違って、ユーレッドの声はもっとハスキーで掠れているが、懐かしい響きだ。珍しくユーレッドの声は、てらいもなく優しい。
ユーレッドは背が高いから、大人になっても、ウィステリアは彼を見上げる形のままだ。
「すぐに治ったろ。お前が話しかけてきたから治ったんだよ。お前の声は、俺たちを鎮静させる効果があるからな。それは、心身共に対する話で、俺なんかはお前の声で体のダメージも回復しやすい。この話、知ってるよな?」
「う、うん」
ウィステリアは、反射的にあどけなく頷く。
「でも、今も、そうかわからなくて」
「ははっ、いつまでも自信ないやつだな、お前は。俺は最近調子いいっていってるが、それな、癪だけどお前の声聞いてるからだぞ」
ユーレッドは、ぽんと頭をはたきつつ、
「まあな。お前は、本当はいい家に引き取られたお嬢さんだったからな。元々の気のやさしさみたいなのがあってよ、今でも、そういう弱いとこあんの、可愛いと思うぜ。でも、ダメだぜ? 俺みたいな悪いやつにつけこまれる」
ああ、まただ。
(なんで、あたしがお嬢さんだったこと、知ってるの?)
ユーレッドはそんな疑問には答えないが、けれど当然のように続ける。
「今のお前は、もう凄腕調査員の姐さんなんだから、もっとビシッとしてろよな。俺が調子悪くしたら、逆に日ごろの恨み晴らしに殴りかかるくらいの強い女じゃねえと。タイロに見られたらー、あいつの言葉でなんだったか、えーと、そうそう、"キャラ崩壊"っていうやつだぞ、それ」
ぐしゃっとウィステリアの前髪を撫でやって、ユーレッドは目を細める。
「自信持てよな。お前はすげえんだって、俺、昔から言ってるだろ?」
その眼差しは、彼がスワロやアルルに向けるものに近く。本来、大人の彼女には向けられることがないはずのものだ。
「わかったな。ウィステリア」
彼はあのひとと違ってひねくれた獄卒。
そして、彼女は、昔と違う大人の女。今では優しくされることもないはず。
けれど。
ごく稀に、ユーレッドは、昔のあの人みたいに優しい眼差しをすることがある。
「うん」
「よし!」
うなずくと、ユーレッドはにっと笑って頭を軽く撫でた。
「じゃ、あいつらが戻ってくるまで、ちょっと休んでようぜ」
そういうとふらっと席に戻ってしまう彼は、もう彼女に興味をなくしたように、素気なく自分の成績表を覗いている。
(本当に)
ウィステリアの見ていたタブレットの広告は、傘の男と少女の静止画で止まっている。
かつての雨の音が、彼女の耳に幻聴のように聞こえる。
(卑怯よね。"ネザアス"さん)
そう思いながら。ウィステリアは、ユーレッドを責めることができないのだった。