20、皇太子が怒りました。
バルトの正体は、バイエル王国の皆にも驚きをもたらした。
けれど、イーリスの擁護と巨大イノシシから皇太子一行を助けた功績により、なんとかバイエル王国による処罰は免れた。
とはいえピュレル王国に伝えた時にどうなるかまでは分からない。
そのため、ひとまずこの件はバイエル国内のみの秘密として扱われることとなった。
バイエル王国の高官達の間では、バルトを通じてディパル王国の内情を探れるという思惑もあったようだ。
聖女「ミオ」を一目見ようと押し掛けてくる人々の数は、日を重ねても減ることはなく、むしろ増えていく一方だった。
聖女を求めて来る人達で街は賑わい、聖女はかなりの経済効果を上げていた。
そうなると出てくるのは、バイエル王国高官達による、聖女を絶対に他国に渡すな、という声だった。
「聖女様をより強固にバイエル王国に繋ぎとめましょう。」
「何かの拍子に他国に持って行かれでもしたら、堪ったものではありません。」
「聖女が我が国に属している証がない状態では、聖女様の取り合いが戦を生む可能性もございます。」
高官達の話し合いから、導き出された結論が、
「聖女様とゼフィール皇太子殿下に結婚していただきましょう。」
という話で落ち着くことになった。
「なるほど、そう来ましたか…、」
その話を自室で聞いたイーリスは、大きく肩を落とした。
聖女を呼び出そうと思った時には、小説通り皇太子と聖女が恋仲になっても致し方ないと思っていたけれど、いざそれが現実味を帯びると、やはりショックだった。
しかし、これほど小説とは違う筋書きにしようと頑張っているのに、どうしても小説に近い筋書きに戻ろうとする力が働いているように思えるのは、正直怖かった。
何をどう頑張ったとしても、結局私も、私の家族も国民も死ぬはめになるのかもしれない。そう考えることは、とても恐ろしいことだった。
「どうするのが一番良いのかしらね…、」
部屋で悩んでいた時、珍しくゼフィール皇太子がイーリスの部屋まで遊びに来たのだった。
「これは、皇太子殿下、わざわざのお運び恐れ入ります。」
イーリスは慌てて、ゼフィール皇太子に礼を取る。
「イーリス姫……、」
ゼフィール皇太子は、どこか気まずい顔をして、イーリスを見ていた。
「その、口さがない者達が、そなたに余計なことを吹き込んだと聞いて、話をしたくて来てしまったのだ……、」
「ああ、そのことでしたの。」
つまり聖女をどうするかという事について、わざわざ話をしに来てくださったと言うことなのだろう。
決めるのは国の決定になるのだから、婚約者の気持ちなど聞かずに決めてしまって良い立場でもあるのにも関わらず、こうして相談に来て貰えるのは正直嬉しかった。
「まあ、まずはお座りになりまして。」
イーリスは皇太子に椅子を勧めると、お気に入りの香茶とクッキーをお茶うけに出した。
「いただこう。」
皇太子がお茶を飲んで落ち着いたのを確認すると、イーリスは本題に入った。
「皇太子殿下のおっしゃる、『余計なこと』とは、聖女様との縁談のことですの?」
最初から切り込むと、ゼフィール皇太子は眉を寄せた。
「難しい問題ですわね。」
「難しいなどと、考えるまでもない話だろう。」
皇太子の考えはよく分からなかったので、イーリスはひとまず自分の考えから話すことにした。
「未央様がいらした世界は、一夫一婦制が法律で決まっていた世界です。」
「そうなのか。」
皇太子は純粋に、イーリスが聖女の元いた世界について知っていることに驚いていた。
「未央様にとって、二番目の妻になるのは、妾……、こちらの世界で言えば、情婦にされるのと同じくらい屈辱的に思われることでしょう。つまり、例え皇妃にしたとしても、皇后に私がいた場合、結婚を理由に聖女様をこの国に留めるのは、なかなか難しいかもしれません。」
「では、結婚という手段自体に効果は薄いという判断なのだな?」
「いえ、どうせ結婚なさるなら、未央様を皇后にしなくては、抑止力としての意味はない、と申し上げているのです。」
論理的に現状を話しただけの私の言葉に、けれど皇太子はどこか嫌そうな表情をしていた。
「何故そなたまで、聖女を皇后に…、などと言う言葉を口にするのだ?もしもそうしたのなら、そなたはどうなる?」
「私は、第一皇妃くらいにはしていただけましたらありがたいですわ。」
「第一皇妃?そなたはそれで良いのか?」
「もちろんピュレル王国としては、将来皇后にして貰えるだろうと思って私を送り出しておりますから、未央様が皇后になられましたら、ある程度の反発はするかもしれません。けれど、私から説得すれば、きっと分かってくれるでしょう。」
私の言葉を、皇太子は黙って聞き続けてくれていた。
「例え聖女様が皇太子殿下の伴侶は自分一人が良いとおっしゃられても、ピュレル王国とバイエル王国の繋がりも、また大切なもの。ですので、それを理由に私との婚約を破棄されるとしたら、それは得策ではないと考えております。」
「イーリス姫……、」
そこまで話して初めて、イーリスはゼフィール皇太子が傷ついたような表情をしていることに気がついた。
「それが、イーリス姫のお考えか……、」
ゼフィール皇太子からの、聞いたこともないような強ばった声に、何かを間違えたのだと悟る。
「分かった。イーリス姫のお考えは、参考にさせて貰う。」
ゼフィール皇太子はそれだけを言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
テーブルの上では、ほとんど口を付けられていない香茶が、すでに冷え始めていた。
「何か…、怒らせてしまったようですわ…、」
あんな不機嫌な皇太子を見るのは初めてだった。
何か自分が怒らせてしまったことは分かっても、何が一番皇太子の怒りに触れたのかが理解できていないまま、部屋に残されたイーリスは、ただ途方に暮れていたのだった。