10、城下に行きました。
婚約式には、バイエル王国の主要な貴族達は皆出席していた。
牧師を呼び、神前において婚約の成立を誓う。その中で結納品と取れる、互いの宝物を交換し、その後、バイエル王国に代々伝わる婚約指輪が、イーリスの薬指へと贈られた。
儀式が終わると、後には饗宴が続き、イーリスは山のような人数の、バイエル王国の貴族達と延々挨拶が続いた。
バイエル王国に嫁ぐと決まった日から、バイエルの貴族達のことはしっかり勉強していたのは、誰か分からずに困ることはなかったけれど、全員と挨拶をするのは、中々骨の折れる仕事だった。
貴族達への顔見せでもあった婚約式が終わると、翌日からは城下と孤児院の視察が始まる予定だった。
普通であれば、各貴族との交流や、荷物の整理などが先にも思えたけれど、こんなにも早くに城下の視察が予定されるのは、それだけイーリスが政治的にも期待されている表れだろう。
ピュレル王室と貴族達は、あまり自国を留守にもできないので、イーリス王女お付きの者と数名の騎士を残して、翌日には再び空飛ぶ馬車で帰って行った。
帰り道は、バイエル王国の騎士達も護衛に付いたので、また往路のような襲撃に合ったとしても、今度は問題はないだろう。
少しの不安はあったけれど、この時点で両親であるピュレル国王夫妻が死ぬことはないと「知っている」イーリスは、城の庭から、天空を駆ける馬車の一群を見送っていた。
神の前で誓った婚約は、基本的によほどのことがない限り、破棄されることはない。
予定で言えば、これから2年6ヶ月後の4月、私が18歳になるのを切欠に、私とゼフィール皇太子は結婚式を挙げることになっていた。
けれど、小説通りに物語が進めば、今から一年後に、この庭の噴水に異世界から来た少女が現れ、聖女と呼ばれるようになるのだ。
私は嫉妬に駆られ、私の両親はゼフィール皇太子の暗殺を企てる。
そして2年半後の結婚式を待たずに、私は婚約破棄され、死ぬ羽目になるのだ。
その破滅エンドを回避するためには、まずは皇太子を好きにならなければ良いのかと考えていた。
嫉妬などせず、嫌がらせなどせず、聖女と皇太子の仲を応援し、ひっそりを身を引きながら、両親に決して戦などしないように働きかければ、破滅エンドにはならないのではないかと。
けれど、コトはそう単純な話ではないのかもしれないと、イーリスは感じ始めていた。
昨日行われた、ディパル王国からと思われる、敵からの襲撃。
あれが今後どのように関わってくるのか。
小説「エクサヴィエンス」の中で、ディパル王国はどう関わっていただろうかと考える。
確か大して本筋には関わらない、モブ国のような扱いだったはずだった。
けれど、だからと言って対して気にしなくても良い国だとは、到底思えなかった。
最悪、私が何もしなかったとしても、ディパル王国が暗殺を企てて、それをピュレル王国の仕業だと偽装されることだってあるかもしれない。
もしもそんなことになりでもしたら、結局は小説通りの全滅エンドに向かってしまうかもしれないのだ。
「イーリス姫、不安は分かりますが、今回は我々の騎士達もしっかりピュレル王室の皆様をお守りいたします。卑劣な襲撃者などに、決して手出しはさせません。」
「ゼフィール皇太子殿下…、」
馬車を見送る私の顔が不安そうなのが気になったのだろう、ゼフィール皇太子が安心させるように話しかけてきてくれた。本当に優しい人だと思う。
「ありがとうございます。両親のことは心配しておりません、ただこれからのことについて…、色々考えなくてはいけないことが多いな、と思ってしまっただけですわ。」
「それはその通りだね。貴女は聡明な人だ。私が貴女にこの国を助けて欲しいと思っているのを、もう理解されている。」
困ったように笑う皇太子に、私もつられて苦笑した。
「私では力不足と承知しております。でも微力ながらできることがあれば、何でもいたしましょう。」
「そんな心掛けを持って貰えることが、何より一番ありがたい。」
ゼフィール皇太子の差し出す手にエスコートされて、私は城下に向かう馬車へと乗り込んだ。
今日はひとまず皇太子と一緒に、馬車だけで城下をぐるりと巡る予定だった。
石で舗装された城下の道は、馬車でも非常に走りやすく、煉瓦と漆喰でできた家は、赤茶と白のコントラストがとても可愛かった。時折ある、青い屋根の建物と、こんもりとした木々の緑が良いコントラストになって、本当に美しい街並みを作り出している。
「綺麗……、」
馬車の窓から景色を見ながら、私は正直な感想を洩らした。
行ったことはないけれど、多分北欧の街並みと似ているのではないかと思う。
けれど気候はポカポカと温暖で、イメージとしてはイタリアやギリシャに近いと感じる。前世ではどこにも旅行には行っていないので、全てイメージではあるのだけど。
「この気候なら、果物も良いですわね、葡萄、レモン、オレンジ…、どれでも良く育ちそうですわ。」
「果物…、それは名産にするには適しているね。」
「単価は安いですが、沢山作ることができれば、強みにできます。……でも、」
でも、本当に果物程度で、この戦争に傷ついている人々を助けられるだけのカンフル剤になるのかと考えると、やはり少し弱い気がした。
「やはり、まずは胡椒が、孤児院の子供達には良いのかも…、でも…、」
果物は収穫してすぐに食べられ、子供達も大好きだという利点がある。けれどその分労働力も多く、それ以上の利益は望めない。
その点胡椒は、収穫してすぐに子供が喜ぶ甘味になるわけではないけれど、少ない労力でそれ以上の利益を望めるので、空いた時間を子供達の教育に宛て、また利益で子供達の生活を向上させることができるだろう。
「そうだね、オレンジは孤児院に一本あれば良いだろう。利益を望むなら、まずは胡椒が良いと、私も思う。」
馬車が通るのに気がつくと、街の人達は皆、道の端に避けて、深く頭を下げていた。
私が何より気になったのは、その人達の表情が、どれも、どこか暗く沈んでいたことだった。
「これは…、」
問題がある、この国には、目には見えない大きな問題が、人々の暮らしにまだ多く潜んでいるのだ。
「貴女に、隠し事はできないね。」
そんな私の表情を見て、ゼフィール皇太子は困ったように笑った。
「そう、この国はまだ、戦争の痛手から立ち直っていない。民はまだ傷ついたままだ。私は彼らに、少しでも幸せな生活を取り戻させたい、その手伝いを、貴女にして欲しいと思っているんだ。」
「ゼフィール皇太子…、」
愛でも恋でもなく、共に仕事をする相手として認めているのだと、しかもそれは、国作りという何より大切な大事業において。
これ以上光栄なことが他にあるだろうかと思う。
下手に甘い言葉でプロポーズされるよりも、この言葉の方が、イーリスにとっては何千倍も嬉しかった。
「光栄です…、どうか私に、手助けさせてくださいませ。」
私は差し出された皇太子の手を取った。この国を、バイエル王国をどこよりも住みやすい国にしよう、そうしてピュレル王国と仲良く貿易できる国にしよう。
ゼフィール皇太子に手を握られながら、イーリスはそう心に誓ったのだった。