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作品は一次、二次、最終と残っていった。水野はそれでも和美には黙っておいた。これだけ迷惑をかけた妻になんと失礼な話か。とても言い出せなかった。
だが、何の因縁か、その作品は現実と繋がる。痩せ細っていた和美が倒れたのだ。乳ガンだった。
痩せ細った和美が、大丈夫よと病床で何度も言った。何も気にしないでと言う。
気にしない訳がない。まともに保険にも加入できておらず、水野は医療費の資金繰りに奔走した。負担を減らす制度を利用して凌げるものの、高額な療養費は借りられない。和美は日に日に弱っていった。
「先生、何どが妻を……よろじぐおねがいじまず」
医者は慣れたように笑みを浮かべ、「全力を尽くします」と、足を引きずる水野の横を颯爽と通り過ぎていった。
晴れた日だった。晴れているのに、きんと冷えた空気が晴れ晴れと感じさせてくれない小さな冬の日だった。
「ふふ、作品と同じですね。私は私が初めて登場したようで嬉しかったですよ。盗み見たようでごめんなさい」
ふと、ぽつり。和美はそう言って目を閉じた。
死とは無常であり、無情なり。枯れ葉が落ちる季節。枯れ葉が宙を舞い落ちるように、はらりと和美は生を終えた。
何も、してやれなかった。水野は涙さえ忘れ、つんざく冷えた風走る家路へついた。家の中は和美の香りがした。穴が開いたセーターが綺麗に折り畳まれてある。水野はセーターをそっと撫でた。和美の香りが狭い部屋に広がった。和室に壊れた小さな鏡台がある。そこだけが和美の僅かな場所だった。櫛と安い化粧品、数冊の擦りきれた本が置いてある。水野はふっとその立て掛けられた本に手を伸ばした。小さな紙切れが見えていた。
そこには和美の手紙があった。隠すように。和美らしく、しおらしく。和美は自分の命がもう短いことを知り、和美は遺書として水野に残したようだった。
『あなたへ
お身体の調子ははいかがですか?
あなたはいつも一生懸命。身体にはくれぐれもご自愛くださいね。
覚えてますか? いつかあなたが何故僕なんかを……と言いましたね。私は分からないと答えました。でも、今、思うのです。一生懸命に生きること、人に優しく生きること、当たり前のようで人はなかなかできないものです。私はそういう人の側にいたかったのです。
あなたはいつもごめんと謝りました。いいえ、私は幸せでしたよ。私の幸せは立派な家や豪勢なご飯ではありません。一生懸命な人を応援することだったからです。あなたが一生懸命書く物語がどうか本になってたくさんの人に読まれますように』
手が震えた。寒いからではない。一枚の紙から和美という存在が熱く込み上げてきた。本当に何もしてやれなかった。せめて、セーターを買ってあげたかった。橙色のセーターを。