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和美はずっと同じセーターを着ていた。
出会った頃から、ずっと。
鮮やかな橙色だったセーターは、いつからか擦れて灰色がかっていた。
和美は昔から暖色を好んでいた。会社勤めの頃は、冬になると橙色か赤いマフラーをよく巻いていた。
「少し、温かくなる気がするでしょう?」
和美はよくそんなことを言った。和美の白い肌は首もとの温かい色にとてもよく映えた。
水野と一緒になってから、和美が纏う温かい色たちはだんだん色を失っていった。傾いた座卓で廃棄になる手前の弁当を頬張りながら、それでも和美は出逢った頃と同じように微笑むのだ。水野にはその笑みが苦しかった。
もう四十五歳になる。昨年、義父が亡くなった。危篤と聞きつけ病院へ向かうと、義父は和美の手を握り、呼吸器をつけて和美を見つめていた。声は出せないようだった。慌てて飛び込んできた水野を一瞥したが、それ以降一度も水野と目を合わせることはしなかった。ただずっと和美を見つめ、そのまま息を引き取った。
犯罪者と相違ない。和美の両親からすれば、水野はそんな存在だと自覚している。せめて天国から、長く待たされたが娘が幸せそうで良かったと。そう思ってもらえなければ、おちおち死ぬこともできない。
病院を抜け、足早に家へ急ぐ。机に向かうと、水野は痛みを感じない左手の甲にペンを刺した。筆が進まないなど言っている場合ではない。原稿用紙に血だけが滲んだ。
昼は動く右半身を頼りに、安い時給の軽作業に出向く。四十五ともなると、ただでさえ痛む身体はきしきしと壊れようとする。
「おい、しっかりしなよ、おっちゃん」
もたつく水野にひと回り以上も年下のリーダーから叱責が飛ぶ。水野が和美に飯を食わせるには、障害年金と、この軽作業の金しかない。
疲れはてて帰ると、やつれた和美が少ない米で夕飯を作ってくれていた。和美も身を粉にして働いている。ずっとこんな生活をさせてしまっている。幸せにしてやれないでいる。水野はいつからか罪滅ぼしとして原稿用紙と向かい合っていた。
「ごめんな」
通りを横切る車の騒音に合わせてつい、呟いた。
「何を謝るんですか。まるで悪いことでもしているみたい」
和美はそう言って笑う。ちゃんと水野の声を聞いている。
だが、和美がそう言ってくれても、水野は心の中でまた呟くのだ。悪いことをしているのだ、と。すまん、と。
物書きを目指して二十年が過ぎた。その間、一作書き終えるごとに、水野は決まって和美に作品を読んでもらっていた。和美は作品を卑下することを一切しない。良いと思うわ、楽しみね。決まってそう言ってくれていた。
思うところがあった。五十歳を迎え、水野は一作の長編を書き上げた。それを水野は初めて和美に読ませなかった。最愛の妻を不幸にし、妻はそのまま亡くなってしまうという話だった。読ませることはできなかった。