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遺書  作者: 山城木緑
釣糸
3/7

3

 水野は片足を引きずりながら久しぶりに会社へ出向いた。


「長い間、ご迷惑おがげしまじた」


 必死に声を出し、深々と頭を下げる水野へ、職場は苦笑いで応えた。


「水野、ちょっと良いか」


 整然と冷たいデスクに腰掛け狼狽えていた水野の背中に、上司が声を掛けた。ひょこひょこと足を引きずり、応接室へ向かう。


「水野、大変だったな。よくリハビリして頑張ったと思う。けどな、今は印刷業界も厳しい。この七ヶ月、お前の頑張りに対して僅かだったけど、給料も払ってきた。払ってきたんだけど、やはり今日のお前を見て、今後……その、難しいと思う」


 上司は言いにくそうに、ちらりと水野へ目線を寄越した。悟ってくれと。


「……そんな。いえ、わだじは、入院中までぎゅうりょうだじでもらって、感謝じでます。何とかどりがえじだい。恩返しじだいです。復帰したてでず。チャンスをぐだざい」


 上司は首を横に振った。


「悪いが、今期末までだ」


 上司は適当に広げていた手帳をぱたんと閉じた。


「いっじょうげんめいやりまずがら」


 そう水野が食い下がる。水野は本当に会社へ感謝していた。死に物狂いで仕事をすると決めていた。そして、リハビリに献身してくれた和美を必ず幸せにするのだ。


「……お前、畑野さんとお付き合いしてただろ。派遣に手出して入院中に給料払われただけでもありがたく思え。じゃ、そういうことだから」


 応接室の扉が水野の背中で重く閉じた。



「久しぶりの職場はどうでしたか?」


 帰宅した水野を和美が晩飯を作りながら出迎えた。水野の表情は重い。ひょこりひょこ、と台所に立つ和美の背後に立った。


「どうしました?」


 和美が驚いて振り返ると、水野は優しく笑った。


「か、がづみ。おまえはきれいだ。おばえ、まだ誰とでも結婚でぎるよ。俺と別れてぐれ。じあわせになっでくれ。誰かにじあわせにしてもらってぐれ」


 これくらい格好よく言いたかった。言葉にしたくとも、口から出る言葉はうまく発音できない。水野は流したくない涙を止めることができなかった。口の端から、まだ涎が垂れる。和美に見られないように拭った。


「じあわせに……なっでごい、かづみ」


 和美は水野に訪れた今日という一日を察したようだった。濡れた手を軽く布巾で拭き、ぶんぶんと大きく首を振った。


「ううん、誰のところにも行くもんですか。私も頑張りますから、また違う人生のスタートにしましょう」


 水野は対抗するように首を振った。


「おばえを不幸にじだぐない」


 水野がそう言った刹那、優しいウールが水野を包んだ。


「不幸じゃないですよ。ほんのり幸せが私の理想なんです。プロポーズしてくれませんか」


「……人生を台無じにするぞ」


「そうは思わないから言ってます」


 水野は右腕で和美を強く抱き寄せた。こんな素晴らしい女性がどこにいようか。和美がそこまで願ってくれるのなら、この身体で命を賭して和美を幸せにしようじゃないか。


 和美を抱き締めながら、机の隅に目が向かった。原稿用紙がよれて立てかかっている。


 はっ、と小さな声を水野は漏らした。


 この身体でも少しの可能性があるのではないか。学生時分から目指していた物書きの道へ向かえないだろうか。簡単ではないだろう。それでも、こんな自分を愛してくれる和美のために。命を筆に乗せてみようじゃないか。


「諦めてだまるが。おれ、作家になるぞ、がづみ」


 うんうんと、和美は首もとで頷いてくれていた。

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