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遺書  作者: 山城木緑
釣糸
2/7

2

 和美は会社で人目のつかないところを見計らい、時折話しかけてくれた。他愛もない話ばかりだったが、水野は嬉しかった。同時に、ずっと疑問を抱いていた。


「畑野さん、何で俺に話しかけてくるの? あんまり他の人とも話さないのに、よりによって俺なんか」


 ふと、水野はそう和美に訊ねた。


「何でなんでしょう? 私も分からないんです。迷惑ですか?」


「いや、迷惑なんて……」


 いつからか、水野と和美は手を繋ぐようになった。どちらとも愛の言葉を送った訳ではない。それでも、自然と二人は体温を重ねるようになった。


 髪を後ろで束ねて和美が小松菜を切っている。ぼんやりと灯る台所の蛍光灯に照らされる和美を、水野はやはり綺麗だと思った。ずっと一緒にいたいと思った。喉元まで出かかるが、その言葉をコップの水で飲み込んだ。俺と結婚しても和美は幸せになれない。そう思ったからだ。水なのにやけに喉に引っ掛かった。


 


 水野には目標ができた。和美を嫁に迎えることだ。だが、今のままでは和美を幸せにできない。このままうだつのあがらない会社人生に和美を巻き込みたくない。水野はこつこつと地道に仕事を頑張る男であったが、その目標が水野を変えた。


「そのプロジェクト、私もメンバーに入れてもらえませんか」


 水野は上席にそう自分を売り込んだ。その日を機に、水野は仕事に打ち込んでいった。一番乗りで出社し、終電で帰る日々が続いた。その分、和美と話す時間も少なくなったが、一生一緒にいられることを思うと、身体は軽く動いた。苦しいとも辛いとも思うことはなかった。


「ここのところ大丈夫? 無理……し過ぎなんじゃない?」


「大丈夫だよ」


 そう言って水野は笑った。頬が痩けていて、皺が寄った。


 かの日、和美は嬉しそうに小松菜を切っていた。水野はその背中しか見えず、和美が満面の笑顔でいたのを知らなかった。


 水野は和美を幸せにすることしか頭になかった。相変わらず身体に鞭を打ち、仕事に打ち込んだ。


「水野、最近ほんとすごいな」


「水野さん、なんだか鬼気迫るものがあるよね」


 社内であまり目立たなかった水野への評価がみるみると変わり始めていた。


 和美はそんな声を聞き、ひっそりと不安に苛まれていた。私のせいだろうか。そう思うと、自責の念に駈られ腹の底が痛む。終電で心身からがらに帰宅する水野へ、無理しないでと何度も愁訴した。それでも、水野は「大丈夫、ごめん」と謝るのだ。その優しさだけでいい。何度そう言っても、水野は大丈夫だ、と疲れた腕で和美を包み込み、そのままぐうぐぅと寝息をたてるのだった。


 


 ある夜、待てども水野は帰宅しなかった。午前三時を過ぎ、和美が作った晩飯はすっかりと冷えていた。和美は心配になり、会社に電話をかけたが、虚しく留守電のメッセージが流れるだけだった。いつの間にか和美は目を閉じていたが、眠りの中でも水野の帰宅を感じることはなかった。


 新聞配達のバイクがアパートを騒々しく横切り、和美は目を覚ました。小さな朝陽がカーテンの隙間から部屋を照らし始めている。やはり部屋に水野の姿はなかった。不安のまま会社に行くと、会社は慌ただしい様相を呈していた。不安で和美の脳が揺れる。


「水野さん、倒れたって」


 一日中、和美は仕事にならなかった。上司が見舞いにいくため、会いにも行けない。


───丸一日が過ぎた。やっと和美は水野の見舞いに行くことができた。同じ派遣の同僚が一緒に行こうと誘ってくれたからだ。


 病室は静かだった。


「脳梗塞だとよ。まだ二十七歳だろ? こりゃ麻痺とかも残るぞぉ。可哀想にな」


 先に見舞いに来ていた上席がそう言った。和美は誰にも気付かれないように太股をつねってやり過ごしていた。上席のそのものの言い様はあまりにも無機質で、動かず横たわる水野はあまりにも不憫だった。


 命はとりとめたが、水野には左半身の麻痺と言語障害が残った。だらしなく開いた口から涎が垂れる。和美の前で照れるように必死で涎を拭った。腕も指も震えている。


 水野にとって絶望の壁が目の前に立ち塞がる。黒く、厚い壁だ。それにめげず、水野は懸命にリハビリに励んだ。仕事をしなければ、早く復帰せねば、と毎日強く念じていた。


 和美は水野のリハビリに付き添うようになっていた。休職となっていた水野の上司がふと、リハビリする水野を訪ねた時、和美が隣で支えているのを見て驚いた。


「どうしたの、畑野さん。え? もしかして水野と畑野さんって、そういう仲だったの?」


 上司は少し笑みを浮かべて和美に訊ねた。


「ええ、私、水野さんとお付き合いさせていただいてます」


 上司は、ふうんとだけ言い、封筒を水野に手渡し帰っていった。


「ば、ばが。がづみ、そんなごど……いっだらお前が、かいじゃ居づらぐなる」


 水野は出しにくい声でそう和美を叱った。和美は首を振った。


「本当のこと。そうなるならそれでいいわ」


 それからの和美は会社で執拗な虐めを受けるようになった。「あの人、水野さんと付き合ってるらしいわよ」「でも、水野さんってもうダメなんでしょ?」「何かあの二人って暗いし、お似合いなんじゃない?」


 そんな陰口を叩かれているうちに、やがて和美は派遣を切られた。和美はそれでいいと思った。水野には派遣が終了したとだけ告げた。


 和美は水野が復帰するまでのリハビリを献身的に支えた。和美に寄り添われ、水野は一層リハビリに励んだ。


 水野が意識を取り戻して半年。やっと左手をほんの少し動かせるようになり、二人して泣いた。

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