1
耳障りな音に集中力が削がれた。
窓の外でエアコンの室外機が震えていた。無理がたたっているのだろう。室内の温度も表示されている温度ほど暖まっていない。既に冷めきったコーヒーには小さな埃が浮いている。水野一希は猪口で酒を啜るようにコーヒーカップへ小さく口をつける。まずいコーヒーをちびり、と飲んだ。
アルバイトが終わり、時計が翌日を差した頃、水野は陽が昇る直前まで原稿用紙に筆をぶつける。書いて読み返しては、先ほど書いた自分自身の不甲斐なさに憤りを感じ、ぐしゃぐしゃと丸めて床に叩きつける。日によっては原稿用紙一枚すら進まない日もある。
ばかやろう、と自分自身に言い聞かせる。書けない、力が足りない、そんなことを思う暇などないのだ。
煌々とたかれる蛍光灯のもと、寒い日も暑い日も水野は傷みきった机に向かった。夜じゅう動くエアコンはガタガタと不安に震えている。時に水野は耳を塞いだ。不安で震える夜もある。
身体を翻すと、和室にちょこんと佇む小さな鏡台が目に入ってきた。たった四冊の読み古した文庫本と安い化粧品が鏡台に置いてある。それを見ると、不安で震えてなどいられない。小さな己を筆と紙に乗せ、必ずや物書きとして大成するのだという信念で、水野は自分の腕に噛みつき震えを止める。
エアコンは震えるのを止め、カビ臭い空気を部屋に流した。
「お茶漬けでもよそいましょうか」
そっと扉が開いて、妻の和美が声を掛けてくれた。ちょうど行き詰まる午前二時頃、和美はひと息入れるよう促してくれる。
昔はよく、邪魔をしないでくれと怒鳴ったものだ。それからの和美は水野の呼吸を読み、苦しい時に声をかけてくれるようになった。今思えば、いったい俺は何様のつもりだったのだと水野は思う。
和美とはお互いが三十歳のときに結婚した。その当時の水野は印刷会社で働いており、畑野和美はその会社の事務員として派遣されていた。和美は容姿端麗なほうであったが派手さはなく、どこかいつも物憂げで、黒と白の間に立っているような雰囲気を纏っていた。
ある日、会社の飲み会が二駅離れた街で行われた。一次会が終わると、水野は付き合いの笑みを浮かべながら盛り上がる同僚たちの輪からそっと離れた。
「水野さん、帰られるんですか? 駅まで一緒に歩きませんか?」
水野の後ろから細い声がして、振り向くと静かに和美が立っていた。
「ああ、うん。じゃあ」
決して目立つほうでない水野は、和美にそう声をかけられたのが夢であるように覚えた。あのときは身体じゅうに心拍が響き渡って、駅までの数分をぎこちなく歩いた。小さく浮かぶ月に笑われている気がした。