戦うべき相手
頬めがけて繰り出された拳を左手で流しながら、右手を逆に相手の腹へと持っていく。しかしその右手は相手の腹には入らず、空を切った。
相手は身軽に後ろへと跳躍すると、態勢を立て直しながら不気味に笑った。
「まだやり続けるっていうのか?いくら倒そうが、俺は何度だって立ち上がる。受け入れたほうが楽になれるぜ」
それは何度となく聞かされた言葉。
そう、何度倒しても奴は起き上がる。自分という存在がいる限り……。
いつの頃だっただろうか、あいつの存在に気づいたのは。
いや、元々気づいていたのだ。気づいていても自分はその存在を認めたくなかっただけ。
そう、あいつはもう一人の自分。怒り、嫉み、憎しみ、欲望……。今まで抑えられてきた感情の姿があいつだ。
そしてあいつは俺が弱ってくると必ず現れる。
抑えてきた感情を吐き出せと。抑えることなんかない、全て出してしまえと。
でも俺はそんなことはしない。今まで抑えていられたのだ。これからだって抑えてみせる。
あいつが何度立ち上がってこようとも、俺自身を保つため絶対に倒れたりなんかしない。
そう決めていた。
何度立ち上がられようとも、自分を失わないとそう決心していた。
しかし、今回ばかりはきつかった。
今でさえ呼吸は乱れ、あいつを見る瞳にも力が入らない。
それを知ってか、あいつは楽しそうに笑っている。
「いい加減抑えるのを止めろよ。分かってるだろ?今回のでお前はボロボロだ。俺には勝てないよ」
高慢なあいつの言葉は、いつも俺を揺るがす。今となれば尚更だ。言葉だけでも、今の俺には相当なダメージを与える。
それでもあいつには負けないよう、視線を上げ睨み付ける。
「お前みたいな奴、誰が受け入れてやるものか。お前が立ち上がるのと同じように、俺だって何度も立ち上がって見せるさ」
ただのはったりだ。ほとんど限界に近く、立っているのさえ辛い。
それでもそんな表情を見せないよう、必死に虚勢を張ってみせる。
冷静に判断すればこちらが不利であることに簡単に気づかれていただろう。だがあいつは俺の挑発に乗ったようだ。
俺の態度が気に食わなかったのか、言葉が気に食わなかったのか。もしかしたらその両方かも知れない。
あいつは先ほどまでの余裕ある態度から一変、怒りにその身を震わせている。
「ほぉ〜。言うようになったなぁ。お前が何度立ち上がろうが関係ねぇが、俺がいなけりゃとっくのとうに死んじまってんだぞ!!」
その通りだ。あいつの存在を完全に受け入れないというわけにはいかない。
あいつの存在が俺の支えになったことも1度や2度ではない。あいつがいることで何度も救われてきている。それでも……。
しかし俺の思考はそこで止まった。
あいつが戦闘を開始したのだ。
態勢を低くし、一気に俺との間合いを詰めてきた。
俺は一瞬反応が遅れてしまった。
あいつは俺の懐まで一気に詰めると、左脇腹目掛けて蹴りを繰り出してきた。
何とか左腕で受けるものの、衝撃を完全に殺すことはできなかった。俺は蹴りの反動で逆方向へと飛ばされた。
障害のないこの空間では、思っていた以上に遠くへと飛ばされていくようだ。
これを利用しなるべくあいつとの距離を開けるべく、俺は飛ばされるがままに身を任せた。衝撃を少なくするよう受身を取ったものの、何度か床を跳ねてしまったせいで体のあちこちが軋んだ。しかしこれのお陰で、あいつとの距離はかなり稼げている。
あいつは追撃するつもりがないのか、その場から動いていない。
俺はふらつきながらも立ち上がった。態勢を立て直し、あいつがいつ来ても対処できるよう身構える。
しかしあいつは先ほどの動きが嘘のように、一歩一歩ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。その表情は何かを堪えるかのように歪んでいる。
「どうしてお前はそんなになってまで、俺を拒むんだ?あんなことがあったんだぞ。辛くないのか?苦しくないのかよ!どうしてそんなにボロボロになってでも俺を拒むんだよ!!」
俺は咄嗟に俯いてしまった。
苦しそうに吐き出された言葉。この言葉こそ、あいつが出てきたことを表している。
辛いことがあった。苦しくて悔しくて、憎みたくもなった。だが俺はその感情を抑え込んだ。出してはいけないと頑なに拒んだ。
そしてあいつは、その抑え込まれた感情の塊そのもの。許容範囲を超えようとするたびにあいつは俺に牙を向ける。
あいつも限界なのだ。俺が持て余した感情を引き受け、なおかつ吐き出す機会さえも与えられない。
負の感情で出来上がってしまったあいつは、何よりも負の感情に敏感だ。だからこんなにも苦しそうなのだろう。
本当なら吐き出させてやりたい。あいつにごめんと謝りたい。苦しい思いをずっとさせてきているから。
しかしどんなにあいつが辛くなろうが、これは抑え込まなければいけない。一度開放すれば、自分を取り戻すのが困難になる。
だから俺は……。
「辛いよ。お前の言うとおりすっごく苦しいさ。お前を受け入れてやれたらどんなに楽かも分かってる」
「だったら……」
「だがな」
俺は顔を上げ、あいつに視線を戻す。
もう迷わない。俺は強くなると決めたんだ。
「どんなに苦しくても、俺は絶対に逃げない」
あいつの表情が徐々に怒りに塗りつぶされていくのが分かる。
そう、それでいい。俺の中で感情を吐き出せばいい。どんなに怒ろうが憎もうが、俺はそれを受け止める。どんなにボロボロになろうとも。
だから
「お前にだけは負けねえ…」
絶対負けない。負けてはいけない。この均衡を崩してはいけないのだ。
俺の言葉を聞いてすぐ、あいつは行動した。どこかで分かっていたのかも知れない。
迷いも余裕も、躊躇もなくあいつは踏み込んできた。
手か足かどちらが先に出るのかは分からないが、一方的にやられてなんかやらない。
あいつが出すよりも先に、俺はあいつの頭目掛けて蹴った。しかしそれはあいつの腕によって受け止められてしまう。
足を掴まれないよう引くと、態勢の立て直らない俺に向かって拳が飛んでくる。
俺は片足のまま、後ろへと跳躍した。片足のためあまり間合いを取ることができなかったが、降りた足を軸にもう一度蹴りを繰り出す。
つま先があいつの顔を掠り、頬に小さな傷を付けた。
あいつは手の甲で血を拭うと、不敵に笑った。
「俺だって、お前にだけは負けてやらねぇよ!」
この戦いはずっと続くだろう。
俺が存在する限り、感情というものがある限り。あいつは必ず出てくる。
それでも、俺は戦い続ける。
飲み込まれないよう、負けないよう、俺は立ち続ける……。
初めて戦闘シーンというものを書いてみました。
結構微妙だったかも知れません。
今回は、心の中での戦いという感じで書いてみました。
自分の感情との葛藤というのを表せてたらいいなと思います。
実際にこんな戦闘してたら大変ですね。心が疲れちゃいそう……。
自分の暗い感情を抑え込むのが大変なんですね。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。