告白
2
無論、楠葉に頼んだからといって何もしないという考えはハルには無かった。
楠葉と分かれた後、ハルが独自に調べたところによると、新入生達が入学してからこの一月余り、雲雀は授業関連には一切出席していないようだった。それどころか寮にも全く姿を現していないらしい。一度、雲雀の寮の部屋を見に行ってみたが、雲雀のルームメイトであるらしい銀孤の獣人の少女がいただけだ。少し話をしたが、その少女はルームメイトである雲雀とは一度も顔を合わせたことが無いらしい。
エフェメールの話では雲雀は学園島に来てからずっと聖獣団に狙われているらしいから、確実に監視の目がいっているであろう寮の自室には一度も訪れていないのだろう。
楠葉と違ってもともと大した情報源など持っていないハルにはここで打ち止めで、雲雀に繋がる情報は一切手に入らなかった。
「あー、どうするかなあ」
黒い前髪を弄りながら思わず空を仰ぐ。
時間はあっという間に過ぎ去って、既に日は沈みかけていた。
早いところ雲雀と合流したいのだが、その足掛かりも掴めていないのが現状だった。たった一人の生徒を見つけるには、この学園島は広すぎる。このまま当てもなく探し回ったところで彼女を見つけるのは不可能に思えた。
現実的に考えるならば、今ハルに出来ることは何も無く、大人しく楠葉の連絡を待つしかないのだろう。
しかし、こうしている間にも雲雀が聖獣団に追われているのかもしれないと思うと名状しがたい焦燥感に襲われる。今朝の聖獣団の雰囲気からして穏便に済むような用件では無いのだろう。自分の与り知らぬところであの少女が苦しんでいる可能性を考えると、どうしても落ち着いてはいられない。
一緒にいた時間は僅かと言ってもいい程合いではあったが、それでもハルはあの少女のことが気になった。
そんな自分の思考に気がついて、ハルは苦笑いを漏らした。どうやら自分で思ってた以上に自分はあの緋色髪の少女に肩入れしているらしい。
それだけにハルがその日の探索をとうとう諦めて自室に戻ったとき、
「あ、お帰りなさい」
のんびりと我が物顔で椅子に腰掛ける緋色髪の少女に出迎えられたときには、思わず額を押さえてその場にしゃがみ込んでしまった。
「……? どうしたのハル? そんなところでしゃがんで呻き声を上げて」
「……ああ、いや別に。ただ少し、自分の愚かしさに嫌気がさしただけだ。……そうだよな、そうだった。お前はそういう奴だよな……」
道化とはこのことだろうか。
彼女の身を案じて学園中をしらみ潰しに探索していた今日の自分を全力で殴ってやりたい気分だ。
意気消沈して項垂れるハルを見て雲雀は不思議そうに小首を傾げたが、ふと優しげに目を細める。
「ハル、散々探していた人物が実際には自分の部屋にいて、あー今日の俺って一体何だったんだろうだなんて思っても無駄にした時間は戻ってこない」
「為になる助言、どうもありがとうよ!」
己の内心をずばりと言い当てられて、捨て鉢気味にハルは叫び声を上げた。よくよく見れば雲雀は部屋にいるばかりか、戸棚にしまって置いたはずの茶菓子も食べている。やりたい放題だった。
「くそ……、大体、お前どうやってこの部屋に入ったんだ?」
今朝出るとき、確かに鍵は閉めたはずである。
ハルの疑問に雲雀はお茶菓子を口に運びながら答える。
「ハル、私がこの部屋に入る為の手段は決して多くない。一、鍵を壊す。二、昨日寝ている間に合い鍵を作った。三、寮管室にあるマスターキーを盗む」
「どれにしろろくでもねえな……。もう少し穏便なものは無いのかよ……」
「正解は四、窓硝子を割って入る」
「やりたい放題か!?」
慌てて見やれば確かに、申し訳程度についているベランダへ続く窓の一部分が割れて無くなっていた。ちなみに、寮室の破損があった場合、その修繕費は基本的に部屋主の自腹である。
最早何も言えずに頭を抱えるハルに、雲雀はこくりと小さく頷く。
「ハル、頑張れ」
「お気遣い、どうもありがとう……!」
雲雀の応援にハルが青筋を立てる。
「あー……もう、お前は本当に……!」
「ん?」
いい加減文句の一つでも言ってやらねばなるまいとハルは口を開きかけたが、もぐもぐと小さく口を動かして茶菓子を摘まむ雲雀の姿を見て止めた。
ざっと見たところ、雲雀に怪我は無い。自分と分かれた後、聖獣団に襲われたということもなさそうだ。
「ハル?」
途中で台詞を止めたハルを見て雲雀が首を傾げる。その憎たらしくもあどけない仕草に、ハルはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「はあ……、まあいいか。一応確認しておくが、雲雀、お前、怪我は無いんだな?」
我ながら甘いと思ったが、今更怒る気にもなれない。仕方が無しにハルが訊ねると、雲雀は少し驚いたように目を丸くした後、首を縦に振った。
「うん。お陰様で私は平気だった」
「そうか」
ならば、良いのかもしれない。
大事もなくこうして再び話をできているのだから、時間を無駄にしたことも、窓を割られたことも気にしなくて良い。戸棚にしまっておいた茶菓子が消えたことなど、それこそ些事であろう。
ほうとハルが安堵の息を吐き出したのを見て、雲雀がくすりと笑みを零した。
「……」
ハルは不覚にもその姿に見惚れてしまった。
港でも彼女の取り乱した様子は見ることが出来たが、笑顔というのを見るのはこれが初めてのことだった。普段から表情の薄い少女のものだけに、その感動も一押しだ。
緋色髪の少女が見せたその儚げな笑みにハルが目を奪われていると、不意に雲雀の表情にどこか寂しげな影が差し込んだ。
「ハル、あなたはお人好し」
「……ん、そうか?」
「そう。いきなり現れた素性も知れない私にご飯を作ってくれて、追い出すこともせずに一晩泊めてくれて、今日も守ってくれた」
「うーん……?」
そう言われてみてハルは首を捻る。確かに事実なのだが、どれも特に考えて行動したわけでは無いので言われてもいまいちぴんとこなかった。どちらかというと、状況に流されたという方が的確な気がする。
しかし雲雀には違って見えたらしい。
「今もこうして私なんかの心配をしてくれている」
そう言った雲雀から真っ直ぐな視線を向けられて、ハルは前髪をくしゃりと手で弄りながら視線を反らした。自分がお人好しかどうかはともかく、こうまで正面から言われると照れが出てくる。
そんなハルの仕草を見て雲雀はもう一度頬を緩めると、不意に姿勢を正した。
「ハル、少しだけ聞いてほしい話がある」
その灰色の瞳に宿った真摯な光を受け取って、ハルも意識を切り替えた。
「……何をだ?」
何も世間話を聞いてほしいという訳でもないだろう。
「出会ってそんなに時間は経っていないけど、私は貴方のことを私なりに信頼している。だから聞いてほしい」
「……わかった。俺でよければ話せよ」
雲雀は緊張した趣のままこくりと頷くと、そのまま何も言わずに俯いた。
正面に座りながらも押し黙ってしまった雲雀に対して、ハルはそれを急かすこともなくただ待つことを選んだ。静寂に包まれた寮の室内で、徐々に時間だけが過ぎ去っていく。夜もそろそろ深くなっていく時間だ。
雲雀はそうして暫く逡巡していたあと、切り出した。
「ハル、あなたは世界を呪ったことはある?」
予想していなかった問いかけに、ハルは咄嗟に答えることが出来なかった。
眉をひそめて、なんと答えるべきか答えを求めて視線を彷徨わせる。その反応に緋色髪の少女は寂しげな笑みを浮かべて見せた。
「私はある」
†
今から四十年ほど前、『三十年戦争』と呼ばれる大きな戦争があった。
「ハルは三鬼を知ってる?」
「そりゃ、知ってるに決まってる。『三十年戦争』で大暴れした鬼種達の中でも強い力を持つ血族達のことだろ」
有史以来最大規模の争乱。
二つの強国から端を発したはずの戦争は時間と共に相手も目的も変わっていき、三十年の時を掛けて世界中に飛び火した。滅多なことでは実世界に干渉することの無い最強種たる竜や精霊も介入し、その災禍の爪痕は終戦して十年近く経つ今でも世界中に深く刻まれている。
そんな『三十年戦争』において、三鬼を中核とした鬼種達は『魔王』と呼ばれる者を中心に軍を編成して戦火に身を投じていた。
雲雀は小さく首肯した。
「ハルは私を有角種だと思っていたようだけど、違う」
ここで少し雲雀は言い淀んだあとに、言った。
「私は三鬼で……、剛鬼の血族」
思わずして告げられた事実にハルは目を丸くする。
そうしてからまじまじと、目の前の少女を見やってしまった。無遠慮に下から上までその華奢な矮躯を見直して、頬を搔く。
「……こう言っちゃ何なんだが、とてもそうは見えないな」
そうハルが思ってしまうのも無理ないことだ。
剛鬼、炎鬼、吸血鬼。
鬼種の中でも三鬼と称されるこの三つの血族は、その強大な力で広く知られている。三鬼の混血児たる『魔王』などは『三十年戦争』において最強種たる竜の一柱を殺すにまで至っている。
混血の『魔王』は別格としても、小等部と見間違えかねない目の前の少女と、三鬼と呼ばれ畏怖される血族はどうにも結びつかない。
「ハルが私にどんな感想を抱いているかは知らないけど、私が三鬼なのは事実」
「……そうか」
実際、見た目と本人の能力は全く関係ないと言うことはハルも知っていた。
この世界中から才能の集まるエテュディアン学園内において突出した才能を持つフェルミでさえ、見かけだけで言ってしまえば愛らしい少女でしか無いのだ。それを考えれば、見た目の印象など何の意味も持たないのかもしれない。
「聖獣団が狙っている理由はそれが原因なのか……?」
数多の種族が生まれ暮らすこの世界において、種族間の問題が無くなることは無い。世界中から人が集まり一つの島で共同生活をするこのエテュディアン学園でさえ、種族を理由に問題が頻発している。
鬼種達は『三十年戦争』において戦火を拡大した主犯格として見られており、戦争が終結し戦後となった現在では迫害される立場にある。それは『魔王』の傘下に加わらず戦火を逃れた鬼種達も例外では無い。
鬼種、それも三鬼である雲雀が、今までの人生でそういった問題と無縁だったとは考えられなかった。鬼種達は迫害の手を逃れるようにして隠れ里に住んでいるという。同族以外に仲間は居らず、人の目を逃れて暮らす生活。信用出来るのは同種のみの閉じられた環境。
ハルには想像もつかないが、それは決して楽なものではないだろう。
世界を呪うとはそういう意味だったのだろうか。
しかし、ハルの予想を裏切るかのように雲雀は自嘲気味に笑みを漏らした。
「そうだったらよかった」
「……どういうことだ?」
雲雀の零した言葉の意味が把握出来ずに訊ね返したハルを見て、緋色髪の少女は寂しげな笑みを浮かべた。
「私は、鬼種達の中ですら許されない存在だったから」
雲雀の記憶にある最も見慣れた風景は、襖で閉じられた六畳の小部屋だった。
そこが少女の世界の全てだった。
「いくら力のある鬼種達と言っても、回り全てが敵となっては生きていけない」
また『三十年戦争』において主軸になっていた力のある三鬼の数は大きく減少していたことも、鬼種達の立場に影響を与えていた。
「恐らくは郷の鬼種達も限界だったんだと思う。周囲から迫害され続けながら、見つからないよう山奥の隠れ郷に籠もる日々。世界からの鬱屈とした視線に耐えるには、捌け口が必要だった」
そしてその対象として、私は選ばれた。
「……」
そう言い終えた雲雀にハルは何も返すことは出来なかった。
はたして郷の鬼種達がこの小さな体躯の少女に何を行ってきたのか。その詳しい内容を雲雀は口にはしなかったが、ハルも聞きたいとは思わなかった。
追い詰められた者達が取る行動など、おおよそまともなものなどではない。
耳が痛くなるほどの静寂が寮室に訪れる。
ハルは何か言おうとして、しかしすぐには声を出せなかった。
世界を呪う。
世界から疎まれ、同胞達からも虐げられて生きてきた少女が持つに至ったその感情は、決して軽いものではない。そんな黒い感情を心に秘めた少女に対して、今の自分が何を言えるのだろうか。
現在のハルには故国があり、義兄妹がいて、義父が存在している。一口に幸せと言えるような人生ではなかったが、少なくとも今のハルは不幸だとは思っていない。
そんな今の自分が、彼女に言えることは一体何だろうか。
――彼女の辛い境遇を慰めることは出来るだろう。
――彼女を貶めてきた者達に憤ることも出来るだろう。
――或いは、世界を呪うなんて間違っている。この世界は悪いだけではないと、嫌気がさすような正論を言うことだって可能だ。
しかし、何を口に出したとしても大した意味など無いだろう。少なくとも、目の前の緋色髪の少女にそれで何かを伝えられるとは思えなかった。
それでも、ハルは雲雀に何かを伝えようと声を絞り出す。
「なあ、雲雀」
「……なに?」
じっと、無機質な灰色の瞳が見つめ返してくる。
その姿に、かつての自分の姿が重なった気がした。
記憶の中に蘇るのは赤い、過去の風景。
養父に拾われる前の、地獄としか思えないあの光景に身を浸していた自分。希望は無いのだと一人理解し、怨嗟の声を一身に受け止めて立ち尽くしていた。
もしかしたら、雲雀はハルの返事など求めてはいないのかもしれない。だとすればハルの言葉など煩わしいだけだろう。だがそうだとしても、この少女には世界を呪ったままでいて欲しくはなかった。かつて世界は地獄だとしか思えなかった自分ですら、今はこうして学生として暮らしているのだから。
「……学園で過ごす俺が口にする言葉だけなんて説得力の欠片もないかもしれない。学園や周囲の人間に恵まれた俺がなんでそんなこと言えるんだって、自分でも思う。……けどな雲雀。俺はお前に――」
「ハル」
その言葉を遮るようにして声を重ねられて、ハルは押し黙った。
やはり、自分の言葉ではこの少女に届かないのだろうか。ただ一言「この世界も悪いところだけじゃない」と伝えたいだけなのに、そんな単純な言葉が彼女には届かない。
そんなハルの胸中を察したかのように、雲雀は首を振った。
「勘違いしないでほしい。私はこの世界を呪いたいほどに恨んでいるけれど、ハルみたいな人がいることも知ってる。きっとこの世界には優しい人達がたくさん居て、笑いながら生きているんだろうってことも想像は出来る」
でもね、と雲雀は言葉を繋げた。
「そこに私の居場所は無いから」
そうして鬼種の少女は珍しく、顔を綻ばせた。
薄く微笑む少女の姿にハルは思う。
なんて悲しい笑顔を浮かべるのだろう、と。
それは喜びの表情などではない。
その笑いから伝わってくるのは、ただただどこまでも続く、全てのものに期待することを止めた諦観の色だった。
そんな彼女を前にして、ハルは何も言うことが出来ない。今のこの状況で何を言えば少女の心に届くのか、ハルには分からなかった。
押し黙ったハルをどう受け取ったのか、雲雀は寂しげな表情のまま息を漏らす。
「私の話はここまで。……なんだか疲れたから、今日はもう寝る」
そう言って雲雀はハルの目も気にせずにさっさと制服を脱ぎ捨てると、隠れるようにしてベッドの中に入った。
そんな彼女を見ながら、果たして自分は正しかったのかとハルは自問する。
果たして、雲雀は自分に何を期待していたのだろうか。
自分は何か言うべきではなかったのか。
例え言葉を持たなくとも何か言わなくては、それは彼女の言葉を肯定したも同然だったのでは無いだろうか。
彼女の意識を変えるだけの言葉を持たない自分の無力さにハルがうんざりとしていると、不意に、ベッドに入った雲雀が声をかけてきた。
「ハル」
「……なんだ?」
自分が何を言うべきなのか、彼女が何を言おうとしているかも分からずに、ハルはただ訊ね返すことしか出来ない。
雲雀はすぐには返事をせずに、暫く沈黙を作った後にそっと囁くような声量で言った。
「…………………………、………………………………今日は、ありがとう」
その言葉にハルは呆然として、少女の方を見やった。
彼女の姿は布団に包まっていて見ることは出来ない。ただ小さな体躯を畳んで、長く美しい緋色髪を散らす様子が見えるだけだ。
一体それは何に対しての感謝だったのか。
港で聖獣団から庇ったことなのか、こうして身の上話に付き合ったことなのか。あるいは今までのを全て含めての礼なのか。ハルには分からない。
ただそれでも、雲雀のその言葉を聞いたとき、ハルは救われた気持ちになった。
幸せとは言えない過酷な人生を歩んできたであろうこの少女が、こうして今は目の前で普通に誰かに感謝することが出来るという、その事実にハルはどうしようもない安堵を覚える。
『三十年戦争』で猛威を振るった三鬼の血を引く少女。
彼女の事をハルはまだ殆ど知らない。
何故聖獣団に狙われているのか。
鬼種達の里にいたという彼女が何故この学園に入学してきたのか。
疑問は尽きないが、まあいいかと、ハルは思う。
出会ってから一日。
まだ、たった一日だ。
全てを打ち明けて貰えるほど信頼を得られているとはハルも思っていなかったし、別に焦る必要も無いと思う。何の縁かは知らないが、ハルと雲雀はこうして知り合ったのだから。
これから時間を掛けて知っていけばいい。
ハルは無言のまま布団に包まる雲雀を眺めながら、果たして自分はこの鬼種の少女に一体何をしてやれるだろうかと、考えた。