聖獣団
4
結論から言うと、ハルの予感は的中した。
失敗したと、言い換えても良い。
太陽はまだ昇ったばかりで、窓からは朝日が差し込んできている。
起きたばかりでやや重い瞼を持ち上げながら、白い光に照らされる室内を見やり、ベッドの上にある小柄な少女の姿を認めてハルは溜息をついた。
「まあそりゃ、いるよなあ……」
結局昨晩、とうとう雲雀を追い返すことは叶わずに一晩を明かしてしまった。元々は学生二人分の相部屋である。幸いにしてベッドは二つあったので寝床には困らなかったのが唯一の救いか。
ハルは白毛布から抜け出すと、伸びを一つした。
もう一つのベッドではまだ雲雀が小さく寝息を立てている。初めて会った時もそうだったが、この少女は眠るときに身体を畳む癖があるらしい。
膝を畳んで丸めるように身体を小さくしながら自らの緋色の髪を引いて眠る様は見ていて微笑ましいものだった。布団の端から覗かせている陶磁器のような白い手足も、相手が子供だと思ってしまえば気にもならない。
ハルは先に自分の身支度を終えてから、未だに眠りぱなしの少女に声をかけた。
「おい雲雀、起きろ」
そう言ってぞんざいな仕草で小さな身体を揺する。
まだ彼女とは会って一日と経っていない間柄だったが、既に遠慮とかそういう気遣いは無くなっていた。そんなものが必要ないことは、昨晩のやり取りで充分に理解している。
暫くして雲雀の目がうっすらと開いた。
「……おはよう」
雲雀はゆっくりとした動きでベッドから抜け出してそう挨拶をしてくるが、意識がまだ覚醒していないのか半眼を向けてくる。
それよりも問題なのは、彼女の服装だった。
どうやら寝るときに制服は脱いだらしく、彼女は下着しか身につけていなかった。
陶磁器のように白い肌の全身がハルの視界に収められる。自己主張の少ない小ぶりな胸も、腰から臀部に続くしなやかなラインも、へそから足の爪先にかけての細い肢体も、その全てが余すとこ無く晒される。
「……服を着ろ」
出来る限り平静を装って、ハルは近場に畳んであった雲雀の制服を投げつけた。
疲れたように一つ大きく息を吐き出しながら、内心でこの少女の発育が未成熟でよかったと思う。もしももっと雲雀の肉付きが豊満なものであったならば、ハルも露骨に狼狽えていたことだろう。
どうやらこの少女、朝に弱いらしい。
しばらくは投げつけられた制服を身体に引っかけたままぼんやりとしていた雲雀だったが、次第に意識がはっきりしてきたらしい。
灰色の瞳に光が灯る。
「……おはよう」
雲雀は二度目の挨拶をする。恐らく一度目のことは覚えていないのだろう。
「……いいからさっさと服を着てくれ」
ハルは肩を落として後ろを向いた。
暫く衣擦れ音が聞こえてくるが、鳴り止むのにさして時間はかからなかった。
ハルが振り向くと、昨晩と変わらぬ雲雀が学園の制服を着た姿で立っていた。窓から差し込む朝日が緋色の髪を照りつけて、きらきらと耀いて見える。その幻想的な光景に不覚ながらも目を奪われた。
「ハル?」
雲雀の怪訝そうな声にはっと意識を取り戻す。
「ああ、いや何でもない。……それより、目は覚めたか?」
雲雀は窓の外を見やって、今がまだ朝とも言えない早い時間だと知って不機嫌そうに目を細めた。
「ハル、こんな時間に何故起こしたの? 返答の内容次第ではあなたの名前は一生ポチになる」
「それは止めろ……」
溜息をつきながらも、雲雀の気持ちは分からなくも無い。
何せ今はまだ太陽が昇り始めたばかりの時分。早朝とも言いがたい、朝と夜の間のような時間帯である。
小等部より戦闘技科に在学するハルは短い睡眠でも行動出来るよう訓練を重ねて慣れていたが、入学したばかりの雲雀には辛い時間帯だろう。
無論、こんな時間帯に行動するのには理由がある。
「悪いけど、ここは男子寮だ。女子の侵入が規則では禁止されてないとは言っても、女子がうろついてるところはあんまり見られたくないんだよ」
ましてや同じ部屋で一晩を過ごしたなどと誰かに知られれば、面倒事が起こるのは目に見えている。実際に何も無くとも、話の種を蒔くこと自体が問題なのだ。
そうならない為にも、まだ人が出歩いていないにこの時間帯に寮の外へ出ておきたかった。
「それに昨日の晩飯で食料が無くなった。朝飯は外で取る必要があるからな」
材料があればずっと部屋に閉じこもってもいることも考えられるが、それが出来ない以上は人の少ない時間帯に移動する必要がある。
ハルの話を聞いて雲雀も一応は納得したのか、その小顔を僅かに頷かせた。
「わかったなら、行くぞ。時間が経つほど危険だからな」
「うん」
ハルは廊下に誰もいないことを確認してから、雲雀と共に自室を出た。
それと同時に、がちゃりという音と共に隣室の扉が開く。
「え」
まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで、隣の部屋から顔立ちの整った金髪の少年が姿を現した。隣室ということもあって何かと付き合いのある、エルフ種の少年である。
「ん? やあ、ハルおはよう。今日は随分と早起きなんだ……、……ね?」
エルフ種の少年はハルの姿を認めると気立て良く挨拶をしてきたのだが、途中で気がついたのかハルの後ろに隠れるように佇む雲雀に視線を向けた。
雲雀がハルの背後に隠れたのは隠れるところの無い廊下での苦肉の策だったのだが、第三者から見れば親しい人に寄り添う姿にも思えなくもない。
隣人は暫く眺めた後に再び、その整った顔を上げてゆっくりとハルを見やった。
「ハル、君……」
「あー……、お前が何を想像したかは大体分かる。けど、違うんだ。俺達は別に」
お前が想像しているような関係ではないと、そう続けようとしたのだが、それを遮るようにしてエルフ種の少年が慌てたように手を振った。
「き、気にしないでいいよハル! まあ学園には年頃の男女がいる訳なんだし、まあ、その、なんだ。そ、そういうこともあるさ!」
「おい、ちょっと落ち着け。落ち着いて人の話を聞いて……」
「は、恥ずかしがることはないさ。愛し合う二人がいる以上、君たちの行為は自然な行為だよ! む、寧ろ、なんだか僕がごめんね! どうも間が悪かったみたいだ! 邪魔者は去るから、心配しないでくれ……!」
「無駄に寛容な態度を見せるな! そうじゃなくてな、俺がお前に言っておきたいのは」
「大丈夫大丈夫、君の言いたいことが分からないほど僕も野暮じゃあないさ! そこら辺の配慮はしっかりとしているつもりだよ!」
「話を聞けよ!」
ハルの懇願にも近い叫び声には取り合わずに、エルフ種の隣人は顔を赤くしながら再び自室の扉を開いて引き籠もっていった。
「ハル」
最後の去り際、不意にエルフの隣人はハルに向かって真摯な眼差しを向けると、
「大丈夫、フェルミちゃんには黙っておくから安心して……!」
そう言い残して、隣室の扉は閉まった。
「……」
結局ハルは伝えたいことを何一つ伝えられずに廊下に取り残されて、閉じられた隣室を呆然と見やるしか無かった。その後ろで雲雀が一つ頷く。
「なるほど、これが既成事実」
忌々しいことに、何も否定出来なかった。
†
その姿を斬正が見つけたのは全くの偶然だった。
「へえ、これはこれは……」
時間にして早朝とも言いがたい時間。
まだ太陽が差して間もないこの時間帯はまだ空気も冷え込んでおり、おおよそ過ごしやすいとは言えない気温である。
普段、斬正がこんな時間に起きていることは殆ど無い。
今日起きていたのも特に理由があるわけでは無く、ただ目が覚めてしまっただけだった。どうにも二度寝する気分にもならず、時間潰しも兼ねた眠気覚ましに適当に外を散歩しているときに、斬正は遠くから偶然その人影を見つけた。
ハルトディエス=プライルード。
斬正とは数少ないクラスメイトの一人でヒト種の少年だ。
ハルは世界中から突出した才能の集まるエテュディアン学園に小等部から在籍する、生え抜きのエリートだった。本人は謙遜なのか自覚が無いのかその事実を否定しているが、少なくとも斬正はハルのことをそう認識していたし、実際、この学園に入学試験として行われる契約者としての適性試験でも最高評価を下されたと聞いている。
戦災孤児で死にかけていたところを今の養父に拾われたと以前言っていたから、恐らくはそれなりに複雑な事情を抱えているのだろう。当人は笑いながら言っていたが、その人生は決して楽しいことばかりでは無かったはずだ。
非凡な人物なのだろうと斬正は思う。
だが、今はそんなことはどうでも良い。そんな事よりももっと気になるものがある。
ハルの横に並ぶように立つ一つの人影。
斬正には見覚えの無い少女である。
やけに背丈が小さくもしかして小等部の生徒かとも思うが、身に纏うその制服は間違いなくこの学園の高等部のものである。遠目で詳しい容姿は見えないが、側頭部に生えた小さな角からして有角種だろうか。何よりも、腰下まで伸びた長い緋色髪が見る者に鮮烈な印象を与えていた。
逢い引きという単語が斬正の脳裏に浮かび上がるが、さて、それは斬正の知るあの少年とは少々人物像が会わない。あのハルという少年が自分に寄せられる好意というものにとんでもなく鈍感だということは、一年以上の付き合いを通してよく知っていた。
ハルとその緋色髪の少女は並んで歩いていく。
向かう先は学園の外、恐らくは港方面だろうか。
「ふむ、早起きは三文の得ってことかね」
昔聞きかじった言葉を口に出して呟いてみる。確か、極東出身のクラスメイトから教えて貰った言葉だったか。偶然目が覚めたお陰でこんなに楽しめそうな機会に恵まれるのだから、根拠の無いことわざと言えど馬鹿には出来ないものだ。
まあなんにせよ、
「事態を楽しむには情報が欲しいよなあ」
早急に何かしら知っていそうな人物から話を聞きたいものだ。そう例えば、ハルの隣室の住人などはどうだろうか。
面白いものを見つけたと口元に笑いを浮かべる斬正の中には、見たものをそっとしておくなどという無難でありきたりな選択肢は存在していない。
頭の中で目標を見定めて斬正は一人、口の端を釣り上げた。
†
「……流石にこの時間帯は人がいないな」
殆ど人の姿の無い大通りを見やって、ハルはもの珍しげに呟いた。
学園暮らしの長いハルだったが、流石にこの時間帯に街に来たことは殆ど無い。すぐ隣では緋色髪の少女が同じように周囲を見渡している。
今二人がいる場所は学園の正門を出て、港側に進んだ場所である。
この学園島には基本的にエテュディアン学園と、唯一の外界の接点である港しか無い。
エテュディアン学園の学生も教員も基本的には学内の寮で生活しているので、港付近は学園外で唯一人達が生活している場所だ。
港付近には住居の他にも、船乗り達のための宿屋と酒場、学生向けの雑貨店やカフェなどそれなりに充実している。この学園には貴族の学生も多いため、それなりに実入りは良いのである。ただしここで営業している店は全て学園側から認可の下りたものだけだ。無許可の出店は重い罰が科せられることになっていた。
「ハル、朝食なんてどこで食べるの」
雲雀が閑散とした通りを見やって剣呑な視線をやってきた。
ハルも肩を竦めて、周囲を見渡す。
時間はまだ早朝だ。
太陽がまだ上り始めたばかりのこの頃では、当然ながら店など開いていない。昼時ならば少ないながらも露店も存在していたりするのだが、やはりその姿は無い。
正直、寮を安全に抜け出すことしか考えていなかったので、店がまだ開いていないことを失念していた。それでいてしっかりと隣室の住人に目撃されているのだから、どうしようもない。
ともあれ、この時間に活動しているものなどそれこそ船乗りくらいのものだろう。
「……ああ、そっか。そうすればいいか」
と、そこでハルは簡単なことに気がついたとばかりに声を漏らした。
その思いつきを実行すべく、雲雀の手を引いて歩き出す。
「……人攫い?」
「違うわ!」
無表情のまま不穏当なことを呟く雲雀だったが、別段抵抗することも無く大人しくついてくる。その辺、この少女なりに一応はこちらのことは信用してくれているのかもしれない。
ハルが向かった先は港である。
通りを抜けて港に辿り着くと、予想通り船乗り達が船と陸地の間を行き来していた。船乗り達はこんな時間でもしっかりと活動しているのである。巨大な船とそこを行き来している船乗り達を興味深げに雲雀は眺めていたが、ハルの目的は違う。
ざっと辺りを見渡して、火を囲んで座り込む休憩中の水夫達を見つけた。
雲雀を連れ立って彼らに近づいていく。
「すいませーん」
声をかけると火を囲んでいた水夫達が振り向いてくる。
有角種、獣人種、魚人種と、三人の水夫はそれぞれ種族が異なっていた。何れも海を跨ぐ益荒男とあって逞しい体つきをしている。
魚人種は身体の一部にヒレを持つ種族で、マナの恩恵で水中でも活動出来る希有な者達だ。
「ん? なんだ学園の生徒か。こんな早朝に珍しいな」
不思議そうに首を傾げる有角種に続いて、獣人種の水夫が手を繋いでいるハルと雲雀を見遣って口元を緩ませる。
「なんだなんだ、もしかしてデートか。おいおい、羨ましいじゃ……」
そこで一旦言葉を句切り、ともすれば小等部とも見間違えそうな雲雀の姿をじっと見て、
「いや、そんな羨ましくもないか」
前言を撤回した。
「……」
雲雀は無言ではあったが、身に纏う空気がずんと重くなったのをハルは感じ取っていた。ハルと繋がった手に力が入り、ハルの手が悲鳴を上げる。
そんな空気を察したのか、魚人種が獣人種の水夫を窘めた。
「おい、その言い方は彼女に失礼だ」
「ん? おお、悪い悪い。別にあんたに魅力が無いって訳じゃ無いんだ。ただ俺の好みからはちとばかし外れてるってだけで」
「想い人がいる相手にお前の好みは関係ないだろう。大体、お前にはちゃんと美人の奥さんがいるだろうが。……それで、私たちに何か用かな? 残念ながら、恋人達を楽しませる芸の持ち合わせは無いんだが」
何やら完全に誤解されていたが、学園の生徒と違ってこれからも付き合いがあるわけでは無い。とりあえず問題は無いので放っておくことにした。
「いや実は俺達、朝飯をまだ食べてなくてですね……」
そこまで言うと、水夫達もハルの用件を察したようだった。表情を破顔させて席を勧めてくる。
「なるほど、彼女連れでそれはいけないな。大したものはないが、食べていくと良い」
そう言って有角種は囲んでいた火を指さす。
そこには香ばしい匂いを立てる魚や貝など、海の幸が炙られていた。
それからは暫く三人の水夫達に混じって雲雀と一緒に海の幸を味わった。
魚も貝も大きく食べ応えがあって、特別な調理などは何もしなかったが、海藻を焼いた灰塩をまぶして口にするだけでも充分に美味い。
それは雲雀も同様だったらしく、美味しいと小さく呟いたのを水夫達が耳ざとく聞き取って破顔していた。ハルと雲雀の関係を勘違いした水夫達に色々と冷やかされながら、水夫達が仕事の時間だと言って立ち上がるまでのんびりとした時間を過ごした。
こういった状況には慣れていないのか、雲雀の口数が異様に少ないのが意外だった。初対面の印象からてっきり物怖じしない性格なのかと思っていたが、そうでもないらしい。
ハルはお礼にいくらかの代金を払おうとしたが、そんなものはいらないと受け取っては貰えなかった。
別れ際に獣人種の水夫から、
「いいか、女心って奴は時化の海よりも読めねぇんだ。女のことはしっかりと観察して、怒り出したらとりあえず謝っとけ。心当たりが無くっても謝るのが長続きの秘訣なんだ。そんでもってプレゼントの一つでも送れば笑顔が戻ってくるって寸法よ」
とやけに実感のあるアドバイスを送られてきて、ハルは苦笑交じりに受け取った。きっと、あの獣人種の水夫は奥さんの尻に敷かれて日々を過ごしているのだろう。
水夫達と分かれた後、ハルと雲雀は再び通りに戻った。
時間は既に早朝から朝になっている。来るときは無人だった通りにも、疎らに人々の姿があるし、露天なども商売を開始しているようだった。
「そろそろ良い時間だな。雲雀この後のことだけど……」
連れ人に今後の予定を聞こうとして振り返ると、雲雀はじっと通りの片隅に目をやっていた。釣られて見やると、一つの露天が目に入る。山羊乳と小麦粉を溶いて焼いた菓子店だった。丁度焼き終わったらしく、鉄板からは食欲をそそる甘く香ばしい匂いが漂ってきている。
「食ったばっかだろ。意外と食い意地張ってるのな、お前」
ハルが呆れたように呟くとそれが気に障ったのか、雲雀は無表情のままぎゅっとハルの爪先を踏みつけてくる。
「いででででてて! 止めろ、折れる折れる折れる!」
「ポチのくせに生意気……!」
「止めろ! 踏みにじるな! ……分かった、悪かった! 奢るから勘弁してくれ!」
ハルがそう叫ぶと、ぴたりと雲雀の攻撃は止まった。
やっぱり食い意地張ってるじゃねえかとハルは内心で思ったが、流石にここで口に出すような愚は起こさない。
後で気がついたことだが、図らずも獣人の水夫に別れ際に言われた助言通りになってしまっていることに気付いて、ハルは愕然とした。
雲雀とのやり取りを見ていた露天のおっちゃんに幾らかおまけをして貰い、袋詰めされた菓子を雲雀に渡す。ハルの分は無い。食べたばかりというのもあったし、朝から甘いものを食べる気にならなかったからだ。
雲雀は受け取った紙袋から焼き菓子を取り出すと、興味深げに眺めた。基本的に表情の薄い少女だが、何となく喜んでいるということは、付き合いの短いハルにも分かる。
一口、焼き菓子を口に含み、
「……!」
今までの無表情が嘘かと思うほどに、目を輝かせた。
「すごい……! 美味しい……!」
そうしてまた一口口に含み、恍惚とした表情を浮かべる。
「嘘みたい……! こんな食べ物が世界に存在するなんて……!」
「え、あー、……え?」
硬質さを含んでいた灰色の瞳も今は緩んでいて、表情の薄かった今までの印象を全て木っ端微塵に打ち砕く勢いだ。思わず、あなた誰ですかと訊ねたくなる。
今までに無い様子の雲雀に、ハルは恐る恐る声をかけた。
「お、おーい……、雲雀、さん?」
「外はカリカリしていて中はしっとりふわふわ。表面は卵とミルクがしっかり染みこんでいて香ばしく味わい深く、バター、それに隠し味に蜂蜜が加わった風味が口いっぱいに広がって美味しい……。私はこの世界にこうにも甘くて美味しい食べ物があることを初めて知った。こんな 素晴らしい食べ物を生み出した者は偉大。崇め奉られるべき……!」
「なんか変な解説始めた! ほんとに誰だお前!」
我を失ったように話し出す緋色髪の少女の姿に、ハルはどん引きである。本当に目の前にいる少女は、あの雲雀なのだろうか。
――それから暫くして。
以降も道端で延々と恐ろしい痴態を演じ続ける少女を見て、もうこの少女はここに捨て置いてさっさと帰ろうかとハルが真剣に検討し始める頃になって、雲雀はようやく正気を取り戻したようだった。
自分が冷静じゃ無かったことは本人も自覚していたようで、こほんと、わざとらしく咳払いを一つすると、
「……まあまあ、美味しい」
「いやいやいや、今更取り繕っても何の意味も無いからな?」
むしろ恥の上塗りだった。
心なしか顔を赤くする雲雀を見て、ハルは苦笑を一つ漏らすとぽんと彼女の頭の上に手を下ろした。
「まあ、美味いもん食えて良かったんじゃないか」
「……ん」
子供あやすようなハルの態度に思うところがあったのか、雲雀は僅かに憮然としていたが、少ししてこくりと小さく頷いた。
どうにも常識離れした言動の多い雲雀だが、悪いやつではないとハルは考えている。付き合い始めてからまだ半日程度だが、それくらいにはこの少女のことを気に入り始めていた。
「それで、これからの予定なんだけどな。もうそろそろ学園に戻った方が良い。これから授業があるだろ? 一体何の授業をとってるんだ?」
空を見れば、白い太陽も完全にその姿を現している。
エテュディアン学園は生徒が前期後期の始めにそれぞれ自分で取りたい授業を選択し、単位を取得していく制度だ。学園側が定めた単位数を習得することで卒業試験を受ける権利を手に入れることができ、その試験を合格出来れば晴れて卒業となる。
小等部よりこのエテュディアン学園通っているハルは既に卒業試験を受けるための必要な単位は既に習得済みで、高等部からは必修授業以外は殆ど受けていない。
逆に雲雀のような入学したばかりの新入生達は、基本的に朝から午後まで授業を取っているのが普通だった。
てっきり雲雀もそうだとハルは思っていたのだが、ハルの何気ない質問に対して雲雀は少しの間言い淀んだ後、
「その、私は……」
「ん?」
今までの少女らしからぬ物言いに、ハルが首を傾げる。
雲雀はなおも口ごもっていたが、僅かな間を置いてから意を決しように顔を上げた。ハルを見上げるようにして向けてくる灰色の瞳には、今までに無い真摯な光があった。
「……ハル、私はね、本当は」
「見つけたぞ」
雲雀の台詞に覆い被せるようにして、冷たい一言が響き渡った。
雲雀は言葉を切って慌てたようにそちらに目をやる。ハルも反応して振り向くと、そこには険しい顔つきをした者が五人、ハル達を射竦めるように睨んできていた。
頭上部についた耳と臀部より垂れる尻尾。彼らは何れも獣人種だった。
「……なんでこいつらがいるんだ」
ハルは隠すこともなく露骨に顔を顰めた。
背中に一本の芯が入ったように背筋を伸ばし、厳格な雰囲気を身に纏う厳格たる態度。そして一般生徒達とは違う、原形をとどめる程度に改造された白制服。
その姿を見て彼らが何者なのか分からないのは、入学したての新入生ぐらいのものであろう。でなければ寮の自室に引きこもっている不登校児だ。この学園島であんな白服を纏っている連中など二つとしていない。
「聖獣団が何の用だ?」
聖獣団。
簡単に言ってしまえばエテュディアン学園内の獣人達によって自治運営されている、学園非公認組織である。非公認ながらもその人数と規模は執行部を凌いでいて、エテュディアン学園内でも最大と言ってよい。無論、学園に在籍している全獣人種達が聖獣団に所属しているわけでもなく、獣人でありながら彼らを毛嫌いしている生徒も少なからず存在してはいる。ハルのクラスメイトであるフェルミなどはその尤もたるところだ。
先頭に立つその獣人は険しい表情のまま、ハルを見下ろしてくる。
肩幅も身長もハルより二回りは大きい巨漢で、筋骨隆々とした肉体には圧倒されるものがある。同じ獣人種と言えど、華奢な体付きをしたフェルミとは似てもにつかない。
真っ正面から睨み返してくるハルを見てその獣人は短く息を吐き出すと、面倒だと言わんばかりに口を開いた。
「……貴様に様は無い。その新入生をこちらに引き渡せ」
「雲雀を?」
ハルはますます顔を顰める。
聖獣団という学内最大組織が、この有角種の少女に一体なんの用があるのだろうか。一見して、接点など無いように思える。
ちらりと緋色髪の少女の様子を窺うと、雲雀は僅かに後退ってその小さな肩を震わせた。その灰色の瞳に宿るのは、恐怖の色だ。
それだけで、この場でのハルの取るべき行動は決まったようなものだった。
雲雀を庇うようにハルは一歩前に出ると、自分よりでかい獣人を真っ正面から睨みつけた。
「生憎と、俺は命令されるととりあえず逆らいたくなる性分なんだよ。大体、何だって雲雀を連れてく? 人様からデートの相手を連れて行こうって言うんだから説明くらいあるんだろうな」
「知らん。そんなことは俺も聞かされていない」
その返答にぴくりと、ハルは不機嫌そうに眉根を釣り上げた。
「……それじゃ何か? お前らは理由も知らずに雲雀を連れて行こうっていうのかよ?」
「命令されれば実行する。それが組織というものだ」
「……」
この獣人の言い分はある意味で間違ってはいない。
エテュディアン学園の生徒達は全員優れた資質の持ち主であり、いずれは母国の騎士団に従事する者が大多数だ。そうなった時には上官からの命令は絶対であり、逆らうことも疑問に持つことも許されない。そんなことを考えては、組織は機能しないからだ。複雑な連携も陣形の維持も、上位の命令を忠実かつ迅速に実行する下位があって初めて成り立つのである。
だがしかし、それと雲雀を引き渡すことは、ハルには何の関係も無いことだ。
背後にいる雲雀の様子を見れば、彼女がどうしたいかなど確認するまでも無い。
「お前らの要求ははっきりと断る。さっさと帰れよ。授業に遅れちまうぞ」
「ふん。悪いが、そういうわけにもいかないのでな……!」
その言葉が合図だったかのように、周囲を取り巻く獣人達のマナの圧力が高まっていく。彼らから滲み出る淡い粒子の光を見て取って、ハルは目を見張った。
「おいおい……、お前ら正気かよ」
学園の内外に関わらず、事前に学園側に届け出の無い決闘及び私闘行為は学園規則で禁止されている。それは例え聖獣団であろうとも例外では無い。ましてやここは学園島とはいえ、無関係の人間もいる港付近である。乱闘など起こせば最悪退学も有り得る事態だ。
降って沸いた剣呑な空気に、ざわりと周囲から響めきが広がった。
既に時間は早朝を過ぎて朝である。疎らながらも人の姿は彼処に見受けられる。
しかしその誰もがこれから起こるであろう荒事の気配を前にして様子見を決め込んでいるらしく、介入してくる気配は無い。
ハルは内心で舌打ちをする。
ハルはただのヒト種でしかなく、その身体能力は獣人に遠く及ばない。ましてや今の相手は複数人。雲雀の実力は未知数だが、この状況を覆すほどのものでは無いだろう。
この状況を覆すことが出来るのは契約者か、或いはそれに匹敵するだけの規格外のマナを備えているような――、
「ほんとに聖獣団は昔から変わらないよね」
ざわめきの広がる通りの中で、聞き覚えのある声が耳に届いた。
人の隙間を縫うようにして、フェルミが腕組みをして現れる。その横では斬正がいまいち締まらない笑みを浮かべて立っていた。
予期せぬクラスメイトの登場に、ハルは安堵より先に疑問が勝った。
「……なんでお前らがここにいるんだよ?」
朝の港通りなど、用が無い限り学園の生徒は来たりしない。
剣呑な威圧感を放つフェルミに変わって、斬正が微妙に言い辛そうにしながら答えた。
「んー、いや、ある匿名希望の情報筋から報告があってな。何でもとあるヒト種が小さな女子生徒と一夜を明かした挙げ句、早朝デートに向かったとか」
「あの、馬鹿エルフめ……!」
話を聞いて脳裏に浮かんだのは寮の隣室にすむ顔の整ったエルフだった。
何が安心しろだ、思いっきり吹聴してるじゃねえか……!
実際には斬正が穏便ならぬ方法で無理矢理聞き出したのだが、今のハルがそれを知るよしも無い。
「まあそれで、その秘匿情報を得た俺は期待に胸を躍らせて……、じゃなくて、そのヒト種とやらがデート何をやらかすか楽しみに……、でもなくて、デートをちゃんと遂行出来るか心配で、とりあえずフェルミにその情報を譲渡してここまで辿り着いたって訳だ」
「節々に本音が出てる上に、とりあえずでフェルミを連れてくる意味が全く理解出来ない!」
何故わざわざ厄介事を増やしてくれるのか。どうせ訊ねたところで、面白そうだからと返事が返ってくるに違いないのだが。
「まあけど、悪くはないタイミングだっただろう?」
「それはそうかもしれないが……」
見たところ相手の五人の獣人の中で、契約している者は誰もいない。未契約でありながら契約者以上の力量を持つフェルミが来た以上、先程とは違って戦力差は逆転している。
現に聖獣団の獣人達はマナの燐光を発しながらも、行動に移すことはしていない。フェルミの放つ空気がそれを許していなかった。
普段感情表現が明快なはずのフェルミの表情が今は能面に近い無表情で、その身に纏う雰囲気の苛烈さは端から見ても明白であった。聖獣団の大半はフェルミの威圧的な姿を前にして、緊張したように身を強ばらせている。
そんな中で、唯一聖獣団の先頭に立つ獣人だけは剣呑な空気を纏うフェルミに怯むこと無く一瞥すると、忌々しげに呟いた。
「フェルミ=マルケニカか」
辺りの大気の温度が幾分も冷え込んだような錯覚を、その場にいた誰もが感じた。
「ほんと、聖獣団って昔から変わらないよね。組織のため、組織のためって、馬鹿の一つ覚えみたいに。他に考えることないの?」
「それは貴様のような半端物が言う台詞ではないな」
フェルミがぴくりと眉根を動かす。
「組織とは個の集まりであってはならない。組織は群体ではなく、組織という一つの生き物として動かなければ意味が無い。そして、組織を動かすのはごく一部の者であり、端末は疑問を持つこと無く動いてこそその機能を十全に発揮するものだ」
そこまで言った後、聖獣団の獣人は挑発的に犬歯を剥き出しに口端を吊り上げた。
「……まあ所詮、責任の重圧から逃げ出した貴様にはわからないのだろうがな」
その言葉を聞いた瞬間、ぞくりとハルの背筋が泡立った。察知したのは烈火のごとき苛烈な憤り。その発信源が誰なのか、考えるまでもない。
「止まれ、フェルミ!」
反射的にハルは叫んでいたが、意味はなさなかった。
「上、等っ!」
「馬鹿!」
完全に不意打ちだった。
屋外だということだけが、まだ幸いだったのかもしれない。
瞬間的に圧倒的なマナの奔流が発生し爆発したと、そう思った次の時にはフェルミは相手の懐に接敵を果たしていた。間髪入れずに相手の脇腹に強烈な回し蹴りを見舞う。
ハルを含め、その動きを最初から最後まで追えた者はこの場には居なかっただろう。
「ぐぉ、貴様ッ……!」
牙を剥き出しにして驚愕の声を上げる相手の獣人もまた、フェルミの疾風の如き動きに反応すらできていなかった。
フェルミの不意打ち攻撃を前に獣人の巨体は為す術もなく吹き飛び、通りの脇に並んでいた木箱に突っ込む。大きな音を立てて、積み重ねられた木箱が砕け崩れ落ちた。
組まれた木材が叩き割れる鈍い音と共に破片が辺りに弾け飛び、周囲に舞った。そこでようやく、今まで傍観していた周囲の者達から悲鳴が上がった。
「おいおい……、あのバネ、こっちから先に手だしやがったぞ」
脇で斬正が呆れたような視線を向けながら呟く。
だがそんなことには脇目もふらず、フェルミは相手に追撃をするべく身を低くして獣の如く駆け出した。ハルに一瞬だけ見えたその瞳は、溢れんばかりの怒りを露わにしていた。
「おいっ……、馬鹿猫ッ!」
ハルも迂闊な行動をとるフェルミを罵るが、その一方でそれも些か仕方がないとハルは思ってしまう。
相手にどのような意図があったにしろ、フェルミのプライドを最悪の形で侮辱したのは向こう側だ。獣人は誇り高い。己を貶めた相手に見ぬふりをするような者達ではない。
そこまで考えてから、ハルは顔を顰めた。
「くそっ!」
気がつけば、この場にいたはずの他の四人の聖獣団の姿がない。どこに行ったのかなど考えるまでもなかった。フェルミに襲われた仲間の援護に向かったのだ。
「斬正、そこにいる有角種の女の子を頼む……って、いねえしっ!」
いつの間にか隣にいたはずの雲雀の姿が無くなっていた。
慌てて周囲を見渡したが、遠目でも目立つあの艶やかな緋色髪の姿はどこにも無い。どうやら騒ぎのどさくさに紛れてこの場から離脱したらしい。憎たらしいほどに要領の良い奴だ。
「有角種がなんだって?」
「あーもう! どいつもこいつも……! ひとまずフェルミを止めにいくぞ!」
雲雀も気懸かりではあったが、今は考えている時ではない。
この状況にどこか呆れてるように肩を竦める斬正と並んで、ハルはフェルミの後を追うようにして駆けだした。