フェルミ=マルケニカ
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喧噪が鳴り響いていた。
溢れんばかりの人の声に紛れて、食器がぶつかり合う音も混じっている。
アルコールの匂いこそしていないが、まるで夕方のかき入れ時の酒場のような惨状である。
ここが世界に有数の契約者を輩出している学園の食堂だと言って、果たして何人が信じられようか。毎年、何も知らずに入ってくる新入生はこの惨状に目を丸くする。特に貴族や高位市民階級の出自の者にとって、雑多と言っても目に余るこの光景はたいそう受け入れ難いらしい。
ここの食堂は最大収容人数千名を超す、この学園島で最大の食堂である。食堂は学園の敷地内にあるので、実質この学園の関係者以外は使えないようなものだ。
時分は昼。
エテュディアン学園最大の食堂は今日も腹を空かせた亡者どもで活気づいていた。これだけの人数。特に新入生がまだ入ってきたばかりのこの時期、例え学園最大の食堂といえど少しでも後れを取ってしまえばこの過酷な戦場で勝つことは出来はしないのだ。
「うわ、どうしようハル。人でいっぱいだよ」
「あー、一足遅れか……」
そしてここにも哀れな敗残兵の姿が二つ。
空きっ腹を治めるために食堂に訪れたハルとフェルミの二人は、周囲を見渡して頭をかいた。
模擬戦の後始末に手間取って、本来の予定よりも遅れてしまったのだ。予想していたとはいえ、完全に出遅れてしまったようだった。
目につく席は何処も埋まっていて、ハル達と同じように食堂の片隅で呆然と立ち竦む姿も少なくない。これでは二人分の席を確保するのには難儀しそうだ。どうやら亡者の仲間入りをしてしまったらしい。
「むー、お腹空いてるのに……」
桜色の薄い唇を尖らせながらフェルミがぼやいた。
両手でお腹辺りを押さえながら、ぺたりと両耳を伏せてしまっている。
見ればスカートの中から垂れる黒い尻尾も、力なくぶら下がっていた。
ハルは困ったように肩を竦めた。
喜怒哀楽の感情表現が素直な元来の性格も相まって、獣人であるフェルミは口以上に明白に耳と尾がものを言う。
その姿は愛らしくもありハルも結構気に入っているが、あまり放置しすぎのも良くない。
この獣人の少女は先の模擬戦で充分すぎるほどの戦果を上げてくれた。大勲章と言っても良い。その仕打ちがこれでは、あまりにも申し訳ない。
何か手は無いかとハルが食堂内を見渡していると、視界の隅に机席でこちらに向かって手を振っている人物が映った。
ハルはほっと一息ついて、フェルミ手を引きながらその人物の元へと向かった。
「よう。模擬戦、ご苦労さん」
労ってくる男子生徒の席周りには二つ分の空席と、律儀にも三人分の定食が置いてあった。
「ありがとうな、斬正。正直食いっぱぐれたかと思ったぜ」
「気にすんなよ、別に大した手間でもない。それに」
予想もしていたしなと、付け加えてくる。
どうやら模擬戦の後片付けに手間取ることを想定して、この男は席取りをしていてくれたらしい。それをしてくれる程度には付き合いがある。
斬正は剣身種という種族なのだが、獣人種やリザードマンと違って外見的な特徴はヒト種と変わりない。一見するだけだと目つきの細い、薄い刃のような印象を受ける男だが、笑ってみると意外と愛嬌のある顔をする奴である。
「ついでに、これは奢りだ」
斬正はそう言って、保持しておいたらしい定食をハルとフェルミの前へまわしてくる。
塩気の効いた大雑把な味付けをなされた鶏の胸肉を中心に据えた、質よりも量を重視した定番メニューだった。
斬正の隣に腰を下ろしながら、ハルは訝しげに見やった。
「へえ。それは嬉しいんだが……、随分と景気がいいな。何か裏があるんじゃないだろうな?」
「安心しとけ、毒は入ってないぞ」
「当たり前だ」
クラスメイトからそんなもの入れられてたまるか。
憮然とするハルとは対照的に、ハルの隣の席に腰を下ろしたフェルミは特に気にした様子も見せずに、早々に鶏肉へ齧りついた。遠慮とか警戒というものは一切感じられない。
それを呆れながら横目で確認しつつ、ハルは斬正の様子を窺う。
「そんなに疑うなって。ちょっとした謝礼みたいなもんだからさ」
「謝礼?」
何かあっただろうか。
訝しむハルを見て、斬正はニッと愛嬌のある笑みを浮かべて一枚の紙切れを放ってきた。どこか気障ったらしい斬正の仕草はいつものことで、今更そのことについて何か言う気はない。
ひらひらと不規則に舞い落ちるそれをハルは難なく指で挟み取り、目をやった。
「お陰様でなー。さっきは一儲けさせてもらったぜ?」
「……ああ、なるほどね。そういうことか」
渡された紙切れの内容を見て、浮かび上がっていた疑問が氷解した。
何てことはない。それは午前中にあった模擬試合の賭け金や倍率の記された紙だった。
「よくやるな、全く」
呆れと感心混じりに言ったハルに、斬正はしししと笑った。
試合内容は契約者ペア対非契約者ペア。
つまりはハル達が先程リザードマンの少女達相手に行った模擬戦のことだ。
オッズは言うまでもなく、非契約者であるハル達のほうが圧倒的に高倍率である。大方の予想では契約者ペアに軍配が上がると予想されていたらしい。そして、隣に座るこの男は見事に大穴を引き当ててみせたということだ。
渡された紙切れには斬正が結構な額をハル達に賭けていたことが、数字という分かりやすい形で記入されていた。
先ほどの模擬戦決着後の紙吹雪を思い出して苦笑する。あの量からして、結構な額がやり取りされていたのは間違いないだろう。
あれは学園の公的機関が賭試合を取り仕切っているわけではない。だが、この学園島には学生が熱中するような娯楽施設が存在しないため、時々こういうことが起こる。よもや学園側も知らないわけでは無いだろうが、今のところ何らかの指導が入ったという話は聞いたことがなかった。
クラスメイトの要領の良さに呆れと感心の混じった曖昧な表情を浮かべていると、すぐ横で定食を平らげていたフェルミがハルの持っていた紙を覗き込んで声を上げた。
「あー、なにそれ! もしかして、みんな私とハルが負けるって思ってたってこと!?」
一瞬で紙の中身を見て事態を把握したらしい。
天真爛漫で幼さない印象が先立つフェルミだが、実際には頭の回転は決して悪くない。
「まあまあ、待つんだフェルミ。そのことに文句を言う前に何か一言、お前は俺に言うことがあるんじゃないか」
「ん?」
首を傾げるフェルミに、斬正がトントンと机の上を叩く。そこには綺麗になった食器が並んでいた。もう食べ終えたのかと唖然とするハルを余所に、斬正が説教するように言う。
「お前が食べたこれらのご飯は一体誰のおかげだ?」
「食堂のおばちゃん?」
「……」
渋面を浮かべる斬正に答えを間違ったらしいと悟ったフェルミは、再び考える。
「……あ、おじちゃん?」
「馬鹿、性別の問題じゃない! 奢ってくれた相手に、お礼の一つくらい言えと言ってるんだよ、俺は!」
「えー……?」
眉根を上げる斬正に、フェルミは露骨に不満げな表情を浮かべた。
「だって斬正は私たちの模擬戦のおかげで一儲けできたんでしょ? だったらこれは私とハルに対する正当な報酬じゃん。寧ろ、斬正が私たちに地面に頭をこすりつけてお礼を言っても良いんじゃない? 土下座すれば?」
「こんのバネ……! 相変わらずハル以外には露骨に態度を変えやがって……!」
ピキリと斬正の額に青筋が浮かぶが、フェルミはそっぽを向いて無視した。
もともと猫科の獣人は気に入った相手以外には愛想の無い態度を見せることが多いが、フェルミは特にその気が強い。興味の無いものに対しては容赦のないフェルミの姿勢は、まさに勝手気儘な猫そのものと言える。
ハルも自分を気に入ってくれているのは素直に嬉しいのだが、今回のような事態には度々苦心させられていた。
ちなみに斬正が口にしたバネとはハルの身内でのみ使われている悪口だ。馬鹿猫、縮めてバネである。
「はあー、まあ飯のことはもういい……。それと、オッズは高倍率様々で文句を言う所じゃないだろう。おかげお前もハルもこうしてタダ飯にありつけてるわけだしな」
「むー……」
一理あると思ったのか、フェルミは少し考え込む。
「……でもそれってつまり、私たちはあいつらより弱いって思われてたんでしょ? それってやっぱり納得いかない! 私とハルに掛かればあんな奴らちょいちょいよ!」
「いや、俺は死ぬところだったからな?」
ハルは呆れた様子でぼやいた。
実際、先程の模擬戦でハルが出来たことは殆ど無いに等しい。
終始フェルミが暴れていただけで、ハルがしたことと言えば精々が時間稼ぎである。危険を冒した捨て身の反撃で一矢報いたとはいえ、大局的には何の影響も無かっただろう。
とはいえ、それは決してハルの責任では無い。
そもそもこの世界の常識で考えれば、未契約のヒト種であるハルが他の種族と模擬戦をしていること事態が考えられないことなのだ。
「我ながらよく無事でいるなって思うなあ」
例え模擬戦とはいえども、この学園では死者が出るのは珍しいケースでもない。
動けない相手へとどめを刺したりなどは禁止されているが、そういった明らかに故意と判断出来る以外の場合は容認されてしまう。無論学園が殺人を推奨しているわけではないが、特別な対策を施していないのがこのエテュディアン学園の実情である。
そして模擬戦闘での死亡率は圧倒的に未契約のヒト種が多い。
模擬戦の内容を振り返ってみてみれば、どれも危ういところばかりである。こうして呑気に飯を食べていられるのが奇跡のようにも思えた。
「思うなあって……。んな他人事みたいに言うなよな……。自分のことだろーが」
緊張感の欠けるクラスメイトの様子に呆れたように溜息をつく斬正だったが、気を取り直すように話を続ける。
「まあでも、今回のバイト代は結構はずんだんだろ?」
「それはそうだな」
ハルは肩を竦めて答える。
午前にハルとフェルミが行った模擬戦は、学園から来た依頼に則って行っていた。
依頼内容は契約者と非契約者による模擬戦闘訓練。
今の時期は新年度が始まってから一ヶ月ほどだ。
この学園に慣れ始めた新入生達に契約の重要性を知らしめ、このエテュディアン学園の存在意義をしっかりと認識させようというのが、あの模擬戦の狙いだったらしい。
そういう意味ではあの模擬戦は依頼者の意図とはかけ離れた結果になってしまったのだろう。契約の重要さを教えるはずが、未契約側が勝利してしまったのだから。しかし依頼内容には勝敗までは指定されていなかったので、そこはハルの関知するところでは無い。
依頼側もよもや、未契約のハル達が契約者を打倒するとは考えていなかったのだろう。この後どうやって取り繕うのか少し見物ではある。……まあ、そんな規格外の結果を出せたのも偏にフェルミのお陰なのだが。
「全く、フェルミには助けて貰いぱなしだな」
「にゃは、褒めて褒めてー」
尻尾をぱたぱたと振り回して、フェルミが頭を寄せてくる。
斬正は呆れたようにそう様子を眺め、ハルも苦笑しながら、その差し出された頭を丁寧に撫でつけた。
さらりと、撫で心地の良い柔らかな感触がする。
こうして直に触れてみると、この少女が先程の模擬戦で大暴れしていた者と同一人物だとは思えない。
ハルは何気なく、機嫌良さそうに目を細めるフェルミを観察した。
恐らくは見た目よりも動きやすさを重視した結果なのだろうが、肩口あたりで切り揃えた真っ直ぐな黒髪は良く似合っている。肩まで剥き出しの制服から伸びる腕は白くて細い。見る者にはか弱いとすら印象を抱かせるだろう。胸も大きくはないが、その存在は制服の上からでもはっきりと確認できる。
こうして改めて見てみると、可愛らしい少女にしか思えないのだが。
(でも実際は違うんだよなあ)
模擬戦の内容を思い出して、誠は感じ入った。
黒い旋風、という名称がしばしば生徒達の間ではフェルミに宛がわれる。
フェルミは身体能力の優れた獣人達の中でもとりわけ優秀な身体能力と、他には類を見ない程のマナに恵まれて生まれてきた。いかに身体能力に恵まれた獣人といえども、通常であれば契約者の動きについて行くことなど出来ない。
この世界には百の兵より三の契約者、という格言が存在する。
これは比喩でも何でも無く、かつて実際に戦場で起きた故事なのである。それほどに契約によるマナの増強の恩恵というものは凄まじいものだ。
だが、何事にも例外があると言うことを、フェルミと出会ってハルは思い知った。
生まれついて身体能力に恵まれ、天性の勘を有し、さらには未契約の身でありながら並の契約者達を上回るマナを秘めた獣人。
それが、フェルミ=マルケニカという少女だった。