未契約者
1
疾風。
一陣の風が戦場を駆け抜けた。
勢いに煽られて細かい土埃がはじけ飛ぶ。
敵がいる。
だが、その姿を視界に納めることができない。ただ突風が駆けた後に残る爪牙の痕と炎のように鮮烈な戦意が、敵が今この場にいることを示していた。
「っ……!」
呻きを上げる少年の横で、再度、猛烈な勢いで踏み抜かれた大地が破裂する。迂闊に動けば自分自身がこうなるのだろう。自身の皮が裂け、肉が千切れ、骨が砕ける。それはぞっとする想像だった。
「フェルミ! まだかっ!」
その少年は堪らずに、大声で相方の名を呼んだ。
少年、ハルトディエス=プライルードは中央大陸北西部の国の出身である。
若干の硬質さを感じさせる黒髪に赤褐色の瞳。親しい者達からはハルなどという愛称で呼ばれたりする。随所に若干の幼さが残るものの整っていると言っても良い顔立ちは、今現在、余裕の無い焦燥感で溢れていた。
それもそのはずだ。
手に持った剣で相手を切り裂き、命を奪い合う場所。気を抜けば首が飛び、間合いの外から襲い来るマナで全身が砕かれる。
ここは、戦場だ。
「おいっフェルミ……、うおっ!?」
悲痛な叫び声の返事代わりに飛んできたのは、相対する敵からの岩よりも重たい拳の洗礼だった。
鈍い風切り音を発して、顔面めがけて鉄拳が襲いかかってくる。当たれば最後、ハルの顔面はひしゃげて見るに堪えない惨状となるのは間違いない。
辛うじて、ハルはその一撃を転がるようにしながら躱した。
みっともないと思うが形振り構っている場合ではない。そんな余裕などとうに無くしている。
土埃に塗れながらもどうにかいったん距離を取ることに成功し、ハルは乱れた息を整えながら相手を見据える。
「おほほほっ、ただのヒト種の分際でなかなかに粘るじゃないですの! 褒めて差し上げますわ!」
余裕の無いハルの様子に、正面に対峙する相手が嘲笑する。口の隙間からは鋭く尖った犬歯がちらちらと見え隠れしている。
ヒト種では平均的な体格であるハルよりも一回り小さな体躯の持ち主である。小柄な割に胸はでかい。幾重にも巻いた長い金髪を揺らすその少女は、嘲りの混ざった視線を隠そうともせずに向けてきていた。
明黄色の中にある、縦に細長い瞳孔。そして何よりも特徴的なのはその両腕の側面にうっすらと紋様のように浮かび上がった、硬質な色合いで黒光りする漆黒の鱗。
対峙する少女は、リザードマンと呼ばれる種族に連なる者だった。
頑強な肉体と鋼よりも固い鱗を生来より持ち合わせた、西欧諸島東北部の山岩地帯に母国を持つ屈強な種族である。
その生まれつき備え持った牙や爪だけでもヒト種であるハルにとっては十二分に恐ろしいものだったが、この種族達には他にことさら警戒しなければならないものがある。
「未契約の分際で近接戦闘は出来るみたいですが、これでもまだ無事でいられますかしら?」
「……まずっ!」
不意に、敵の纏う気配の色が変わるのを察知してハルが目の色を変えた。
目の前に対峙するリザードマンの全身が淡い光に包まれていく。漏れ出た光の粒子は初めは穏やかであったが、次第に嵐に吹かれたかのように暴れ始めていった。
「おほほほ、マナを持たないというのは不便なものですわねえ!」
「うっせえよ!」
マナ。
それがこの世界において、ヒト種以外の種族が生まれつき持っている力の総称である。
マナの最も基本的な効力として身体能力の飛躍的な強化があげられる。元々の能力差も相まって、ヒト種とそれ以外の種族ではその身体能力にまさしく天と地の差が存在する。
それだけではない。マナにはさらに、種族や個人によって備えている特性に差異があった。
身体能力の向上も充分に危険だが、異種族と対峙するときにはこのマナの特性を利用した手段を最も警戒しなくてはならないのだ。
まさしく今がその状況だった。
「くっそ!」
大慌てで、その場から真横に向かって跳躍する。
リザードマンの少女の周囲を渦巻くマナが前面で凝縮されたかのように収束し、次の瞬間。
真っ赤な熱線が嘗めるようにしてハルがさっきまでいた場を焼き払う。
黒く焼き焦げた地面が発する異臭が鼻につき、ハルの顔が強ばる。ヒト種であるハルにとって、マナを利用した攻撃は脅威以外の何物でも無い。
逡巡している暇は無い。
ハルは意を決して駆けだした。
ハルが手にしているのは反りの無い両刃剣だ。ブロードソードと呼ばれる、この世界でもポピュラーな武器である。何にせよ、この銀色の刃が届く範囲にいなければ勝負の土場にすら上がれない。相手よりも身体能力で大きく劣るハルが接近戦をこなすのは無謀とも言える行為だが、このまま遠くからマナの炎で嬲り殺しにされるよりは、自分にも反撃の手段のある近距離のほうがましだと考えたのである。
両刃の剣を手に距離を詰めてくるハルの姿に相対する少女はにやりと口の端を上げて拳を構え、迎え撃つ体勢に入る。
リザードマンの少女にとって、身体の力で大きく劣るハルに自分が負ける道理など無いと思っているのだろう。
目を細めて、ふっ、と短く息を吐き出す。
「……舐めるなよ!」
柔よく剛を制す。
極東の格言だ。
伸びてきた拳の側面を滑らすようにして、銀色の刃を添える。
力で弾くのでは無く、その軌道をそっと矯正してやる。
銀色の刃との摩擦で赤色の火花を撒き散らしながら、岩をも砕く剛腕はハルの横を過ぎ去っていった。
「なんですって!?」
その妙技に、相手の少女が驚愕に目を見開く。
後の先を取ってきた相手の拳をハルは見事にいなして見せた。両名間に横たわるの身体能力差を考えればそれだけでも驚嘆に値する芸当だったが、それだけでは済ませはしない。
「はあああ!」
無防備に伸ばされた腕へ向かって、下から上へ白銀の刃で線を引く。
狙うのは頑強な鱗と鱗の隙間。
「ぐっぅ……!」
同時に少女の口から苦悶の声が漏れた。
一枚の鱗と血飛沫が高く宙を舞い、予想外の事態に周囲から歓声が湧き上がる。
ハルとてしてやったという思いはあるが、あまり状況は芳しくない。
相手はリザードマン。たかだか鱗一枚と僅かな切り傷で倒せるほど甘い相手ではない。
それを証明するかのように、至近距離でハルを睨む明黄色の双眸は怒りに染まっていた。ヒト種であるハルに傷をつけられて自尊心が傷ついたのだろう。そこには、先程までの余裕に溢れた姿はない。
ごうっ、と少女を取り巻くマナが荒れ狂った。
今までは遊びだったと言わんばかりに、先程の熱線を放った時とは比べものにならない量のマナの奔流が周囲一帯に巻き起こる。不意の突風に煽られてハルの動きが硬直した。
「くっそ……! 大人げねえぞ、こいつ……・!」
「お黙りなさい! 未契約者如きがよくも私に傷を付けてくださいましたわね……!」
少女の右手の甲に刻まれた光る紋章が否応なしに目に入る。
それは相手が契約の力を発揮した証であった。契約者の力によって、少女が持っている本来のマナが数倍にも増幅されていっているのだ。マナの増幅は、そのまま実力の増幅に直結する。
竜巻の如く吹き荒れるマナに晒される中、少女が握り込んだ拳を振り下ろした。
正確には、そう感じたというだけだ。
ハルにはその動作を見ることなど出来なかった。
契約によってマナを増強されたリザードマンの少女の動きは最早、ヒト種であるハルの動体視力の限界を優に超えていた。
まさに一撃必殺。
防ぐことも避けることも不可能な、種族間に広がる身体能力差による理不尽な一撃。
例え小手先の技術で相手を上回ろうと、それを嘲笑うかのように一瞬で帳消しにする、マナの有無による圧倒的な基礎能力の差。理不尽だと嘆こうとも、ハルにはこの状況に足掻く権利を持ち合わせていない。
故に、
「お、ま、た、せえぇぇぇ!」
救いの手は外部から差し伸ばされる。
声が響き渡った。
殺伐としたこの場に置いて、明るいその声はあまりにも場違い。しかし、ハルにとってはよく聞き慣れたものである。
声に反応して、リザードマンの少女がはっと宙を見遣る。
が、その判断は少しばかり遅い。
少女が振り向くと同時に、その顔に強烈な一撃が叩き込まれる。太陽を背にして現れた新たな人影の足の裏が、その顔面に深くめり込んだ。
「てい、やあっ!」
「きゃあああぉ!?」
屈強な肉体を持ったリザードマンの少女が、悲鳴を漏らしながら吹き飛んでいく。まるで蹴玉のように勢いよく吹き飛ぶその姿には構わずに、ハルは怒声を上げた。
「遅いぞフェルミ! あと少しで八つ裂きになるところだっただろうが!」
相手を蹴った反動を利用して空中でくるりと一回転すると、黒髪を揺らしながら少女は音も無く着地する。フェルミと呼ばれた少女はあまり反省の感じさせない快活な表情で詫びを入れてきた。
「ごめんー、少し遅くなった。結構手こずっちゃって」
「……ん? 手こずった……? ……まさか、そっちは終わったのか?」
驚きと共にそう言うと、少女は得意げにびしっと戦場の片隅を指さした。
釣られるようにしてハルが見遣ると、そこには一人のヒト種の男が傷だらけで倒れ伏している。息はしているようだが意識は無く、戦闘不能なのは間違いない。
その惨状にハルは状況も忘れて、呆れとも感心とも取れる息を漏らした。
ハルと同じくフェルミも誰とも契約を結んでいない未契約者である。契約者を持っていない身である少女が契約者を倒すなど普通ではあり得ない事態だが、それだけの力をこの少女が持っていることをハルは知っていた。
相棒の大殊勲にハルが舌を巻いていると、爛々と目を輝かせながらフェルミが何か期待するように見つめてくる。
短めのスカートの中から伸びた尻尾がくるくると小さな円を描いているのは、これはこの少女が褒めて欲しいときに見せる癖だった。
ハルが何か言おうと口を開き駆けたしたその瞬間、咆哮が響き渡った。
「……余所見してるんじゃありません! 戦いはまだ終わっていませんわよっ!」
体勢を直したリザードマンの少女が咆哮を上げながら突っ込んできた。
全身に濃厚なマナを纏いながら、リザードマンの特長である鱗が浮かんだ腕を振り抜く。狙った先は、無防備にも背中を向けているフェルミである。しかし卑怯とは言えない。少女が口にしたようにまだ戦いは終わっていないのだ。鋼よりも固い鱗に包まれた拳が、音を超える速度で突き上げられた。
衝突。
周囲一帯に重音が響いた。鈍い音と同時に、生じた空気のブレが衝撃となって地面に牙をむく。衝突しあった場所を中心にゴッ、と空気が渦となり高く巻き上がっていく。
思わず片手で顔を覆ったハルとは対称的に、フェルミはただ忌々しげに背後を見やっていた。
「そんな……こんな馬鹿なことがありえますの……?」
豊満なマナによって強化され、助走をつけ勢いに乗ったリザードマンの少女の一撃を、相手の身の丈より更に小さい少女の細腕があっさりと受け止めている。
「……邪魔だなあ」
フェルミから漏れた言葉は静かだったが、そこには確かな不機嫌さが滲んでいた。
まるで獣に首元に牙で食いつかれたような錯覚を覚え、ぞくりと、リザードマンの少女の背筋が凍りついた。
「……く、そんな脅しで屈する私ではありませんわよ!」
纏わり付く冷気をを振り切るように、リザードマンの少女は契約によって増幅された全身全霊のマナを巡らせて力を込めた。今まで以上のマナの粒子が吹き荒れ、その恩恵によってリザードマンの身体能力は限界まで増強されていく。
瞬間、リザードマンの身体がくの字に折れた。
固い鱗に覆われマナで頑強に固められたはずの身体に、フェルミの細腕がめり込んでいるのがハルの目にもしっかりと見えた。
「が……、あ……?」
息を吐くことすらままならずに、相手の口からは掠れた呻き声が漏れる。それは両者の実力差を現した、まさしく有無を言わさぬ明確な光景だった。
言ってしまえばこの光景は、ハルとリザードマンの少女との戦いの焼き増しだ。
小手先の技術を全て否定し叩き潰し飲み込む、圧倒的なまでの基礎能力の差。その役者が入れ替わっただけの話だ。
未契約の身でありながら契約した者を圧倒する、天賦の才。
それが世界中から優れた才能が集結するこの学園の中でも〈黒い旋風〉と称され怖れられる、獣人種フェルミ・マルケニカの実力だった。
音を立ててリザードマンの少女が力なく倒れ伏す。
頑強な体躯も、黒光りしていた鱗も、ぼろぼろで今や見る影も無い。先程まで刃を交えていた相手の無残な姿にハルも思わず同情を覚えてしまうほどの惨状だった。
「いえーい、これでお終いだよね!」
しかし、少女にとっては邪魔者がいなくなった以上の意味は持たなかったらしい。
力がものをいうこの場に似つかわしくない、明るく無邪気な声を上げながらフェルミが背中にのしかかってくる。
「うお!?」
ハルとしては一体いつフェルミが背後に回り込んだのかも理解できなかったので、避けることなど出来やしない。柔らかなフェルミの身体の感触を背中で感じながら、倒れないように支えるだけで精一杯だ。
そんな無邪気なフェルミの姿が合図だったかのように、周囲一体に張り詰めていた空気も一斉に霧散したように感じられた。
「ねえハル、私大活躍でしょ? 褒めて褒めて。ねー褒めてよー」
などと言いながら尻尾を振る少女に、先ほどまで嵐の如くの苛烈さを纏って暴れていた黒獣の面影はない。頬を紅潮させてじゃれてくる姿は、年相応以下の女の子のものだ。
苦笑いを零すハルと無邪気なフェルミを余所に、会場は僅かに静寂。
次の瞬間、周囲を囲っていたギャラリーの間から歓声が爆発した。
熱狂的とも言える興奮。勝利した二人を讃える熱気と同時に、ギャラリーの各所から悲鳴と共に破り捨てられた紙が桜の花びらのように舞い散っていく。
恐らくは、当事者である自分達の与り知らぬところで非合法の賭け事でも行われていたに違いない。
この学園島の住人達の逞しさに少年が半分呆れながらも一応適当に手を振って歓声に応えると、いつの間に現れた司会者がフィールドに現れマイクを片手に叫びはじめた。
『試合、終、了っ! なんという大判狂い! 圧倒的な身体能力! 黒い旋風の前に契約者の二人が成す術も無く倒れ伏した! 契約者対未契約者というこの無謀な模擬戦の勝者は、未契約のフェルミ選手とハルトディエス選手だったああ!』
司会者の叫び声に呼応するように、周囲の歓声が一層大きくなる。そこに含まれているのは純粋な、力を持つ者への羨望と賞賛だった。
司会のその大袈裟な物言いに苦笑すると同時に、試合の勝者となったハルは荷が一つ下りたとばかりに深く息を吐き出し、泥塗れになっているのも構わずにじゃれついてくるフェルミを退かしながら空を仰ぎ見た。
白い掠れ雲と抜けるような青空。彼方から吹き抜ける僅かに潮の香りが混じったそよ風が、かいた汗に触れて心地よかった。
†
この世界で最も広大な海の上に浮かぶ島。
そこにあるのは国でも街でもない。
存在するのはただ一つの学園。
島の人口の八割が学園の生徒であり、島に住む九割が学園の関係者。
周囲からは学園島と呼ばれ称される陸路の断たれた孤島である。
彼の名はエテュディアン学園。
契約者としての素質。
学園が生徒に求めているものはただそれだけである。