感謝
二つ、夢を見た。
一つは男の子の夢。
自分の夢。
幼い頃の記憶。
まだ自分の年齢が十にも満たないころの、今よりも幼いときの光景だ。子供の頃の自分はただ呆然と、その地獄に立ち竦んでいた。
もう一つは、女の子の夢。
さして広くない部屋にその女の子が一人で座り込んでいる。
部屋の中には何も無い。
ただそこにはその少女が能面みたいな無表情を貼り付けて、じっと視線も動かさないまま微動だにせずに座っていた。
その少女は何も感じていなかった。
喜びも悲しみも、嬉しさも苦痛も。
何年も何の変化も無く、延々と時が過ぎていく。
この小さな部屋がこの少女の全てで、この少女だけしかいない世界。
何年も何年も変化が訪れること無く、時間が積み重なっていく世界。
無為に積み重ねられていくその光景を見つめながら、ハルは理解した。
ああこれは、あの少女の――
4
不意に胸に何か詰まるような圧迫感を感じて、ハルはそれを吐きだした。
「うぶっ……!」
近くから悲鳴が上がったような気がしたが、良くは聞こえなかった。今のハルの身体は鉛の如く重く、冷たく、指一本動かせる気がしない。目を開けているはずなのに、何も見えない。
「お願い、起きて----」
誰かの声が聞こえた気がしたが、やはり良くは聞き取れなかった。意識が酩酊し、状況が分からない。そのうち、何かがハルのひび割れた唇に触れた。口内に広がる生臭さに、ほのかに甘い香りが混じる。
次の瞬間、ハルは再び何かを吐きだした。
「ぶえ……! ま、また吐きかけて……!」
今度はハッキリとその声を聞き取ることが出来た。
暗闇に包まれていたハルの視界が開けてくる。
「……ハル? ハル!? お願い、起きて!」
眼前で必死に叫び声を上げているのは、どうやら雲雀らしかった。なぜか、その顔を真っ赤な血で染めている。
「う、あ----?」
何か言おうとして、その口から漏れたのは朽ち果てた枯れ木のような呻き声だった。
どうやら雲雀に膝枕をされているらしいということまでは分かったハルだったが、なぜそうなったのか理解が及ばない。焦点の定まらない視界で、いまいち思考が纏まらないまま、ぼんやりと目の前の雲雀を見つめる。
「まだ足りないの……? あんまりやりすぎると、これ以上は……。でも、このままハルが死んじゃったら……」
反応の朧気なハルを見て取った雲雀は何事か暫く逡巡していたが、何か決意したように一つ息を吸うと、長く美しい緋色髪をかき上げて、そっとハルの眼前に顔を近づけた。
「……?」
何をされているのか分からず、ただ唇に触れる柔らかい感触を受け入れる。
不意に。とろりと、鉄臭い口内に甘みが加わった。
意識せずに与えられたそれを嚥下し、どくん、と己の心臓が大きく脈打つのをハルは感じた。体内に熱が灯る。
直後、ハルは大きく噎せ返り、眼前にあった雲雀の顔面に向かって血を吐きかけていた。
「ふぎっ」
顔面から返り血を滴らせた雲雀が悲鳴を上げる。
胸に苦しさを覚えたハルは雲雀の膝の上から転がり落ち、固い地面の上に俯せになって、咳き込むと同時に胸に詰まっていた血を全て吐き出した。
「ハル!? 大丈夫!? 生きてる!?」
「ああ、なんとかな……」
「でもまだいっぱい血吐き出してる!」
これまでの能面が嘘のように緋色髪の少女は狼狽し、声を震わしている。そんな様を見せる雲雀が少し面白くて、内心で苦笑した。ハルは大きく深呼吸をして、身を起こす。
「……大丈夫だ。多分、今吐き出した血は肺とか器官に溜まってたやつだ。それを吐き出したってことは、身体が正常に機能してるってことだろ」
起き上がると同時に身体が僅かにふらついた。それをどうにか持ち堪え、ハルは腕や足を曲げながら身体の調子を確認していく。
気分は最悪だった。身体の節々は痛むし、動作すると違和感を感じる。口の中には鉄の臭いと味がこびりついているし、肩口から下へ大きく切り裂かれた箇所にはじくじくと焼けついた鈍痛が残っている。万全などとはほど遠い、満身創痍の身体だ。
しかし、ちゃんと動く。
生きている。
「まあ、少なくとも命に別状はなさそうだな……」
今もなお、不安そうな表情を向けてくる雲雀に向かってハルは手を伸ばした。その動きはまだ少しぎこちない。しかし緋色髪の少女を落ち着かせるには充分だったようだ。頭をゆっくりと撫でられて、雲雀の表情も僅かに緩む。
「……よかった」
「それは良いんだが、それでここは……」
妙に喉の乾きを感じながら、ハルは周囲をゆっくりと見渡した。
辺りは暗い。木々に囲まれた森の中は夕闇に包まれていた。そっと上を見上げれば、幾つもの星々と銀色の月が淡い光を落としていた。
未だ本調子でない身体で周囲を探りながら、ハルは今に至るまでの経緯を思い出そうとした。しかし側頭部辺りがズキズキと痛んで、上手くいかない。記憶が混濁している。
ハルは辺りに視線をやり、地面に横たわるその大きな影に気がついた。
緑色の巨躯。細長く伸びた胴体から生える節くれ立った四本の脚。そして、背中から生えている、二つの大鎌。三角形の頭部に備わる無数の複眼と、目が合った。
「――ッ!」
煩雑としていた記憶が一気に脳裏に蘇った。
直前の記憶が脳裏に焼き付いている。
銀色に光る鋭利な鎌が、ハルの身体を深く重く切り裂いた。肉が裂け体内の血が永遠と流れ出ていき、次第に身体が冷たくなり意識が重たい泥の中に沈んでいく感覚。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が空回りする。息が上手く吸えない。
「…………すぅ、はぁ」
ゆっくりと息を吐き出して、落ち着けと自分に言い聞かせる。
ハルは緊張しながらもう一度、大地に沈み込むその巨躯に視線を向けた。
既にその複眼に光は灯っていない。
冷静に見れば、レヒトマンティスは生前の恐ろしさが感じられないほどにぼろぼろだった。
硬い鈍器で殴打されたように陥没した箇所が全身に幾つもあり、胴体から伸びた脚も本来では有り得ない方向に曲がっている。最大の脅威であった二つの大鎌のうち片方は半ばで折れ砕け散り、残ったもう一方も蜘蛛の巣状にひび割れ無残な姿を晒していた。
「これをお前がやったのか……?」
マナを操る第二種大型害獣を、いくら三鬼とはいえ未契約の身で倒せるものなのだろうか。
そういえば、大鎌に切り裂かれ気を失う直前、最後に緋色髪が舞う姿を見た気がする。これを雲雀がやったというならば、あれは勘違いではなかったということだろうか。
いやそもそも、だ。
ハルはようやく、忘れてはならない重大なことを思い出した。
「――雲雀、お前! 傷は!?」
見間違いでも何でも無い。
雲雀は確かにあの瞬間、レヒトマンティスによって切り裂かれていた。
慌てて見れば、雲雀の格好もハルに負けず劣らず無残なものとなっていた。上半身の制服もインナーもズタズタに切り裂かれ、脇腹に掛けた部分など根刮ぎ無くなってしまっている。スカートも裂けてしまっていて、最早衣服としての機能はほぼ失っている。何よりも、雲雀の全身は泥と血で塗れていて、おおよそまともな状態ではなかった。
この分では身体には相当な傷を負ったのではと、ハルは慌ててしゃがみ込んで雲雀の傷口を確認した。大きく裂けた脇腹の部分を捲り上げて、様子を確かめる。
「ハ、ハル?」
雲雀が焦ったように身動ぎしたが、ハルは構わなかった。羞恥心など気にしている場合ではない。しかし、あるはずのものが無い光景を目の当たりにして、ハルは驚きに目を丸くする。
「……傷が、ない?」
捲り上げた服の裏から現れたのは、健康的な白い柔肌だ。身に纏う制服こそ凄惨な血色に染まっているが、その身体には傷一つ無い。
信じられないものを見るかのように、ハルはそっとその箇所を撫で上げた。上から下へ、ハルの指が雲雀の腰をつぅとなぞると同時に、ひうっ、と小さな悲鳴を上がる。
次の瞬間、ハルの頭に衝撃が落ちた。
「ぐお!」
勢いに負けてハルは顔面から地面に落ちる。
痛む箇所を押さえて顔を見上げれば、雲雀が顔を僅かに赤らめて拳を握っていた。
「何しやがる!」
「うるさい、ポチ。あなたこそいきなり何をするの」
「俺はただ傷口を調べてただけだろうが!」
「……嘘。なんか手つきがいやらしかった。これからは淫獣ポチと呼称する」
「するな!」
甚だ不本意な名称にハルは憤慨する。
確かにさっきの行動は少々迂闊だったかもしれないが、やましい気持ちは一切持ち合わせていなかった。そもそも、部屋に泊めたときには下着一枚の裸同然の姿を目にしているというのに、羞恥心など今更な話だ。
「……大体だな、お前なんかに欲情したらロリコン容疑で周りから何を言われるか分かったものじゃないだろ……」
「てい」
「うげ……っ!」
ハルの胴体に、雲雀の抉り込むようなブローが突き刺さった。
「次は、殺す」
「い、今まさに、死にそうなんですけど……?」
絶対零度の視線を向けてくる雲雀に対して、膝をつき苦悶の表情を浮かべながらハルが呻く。現在の満身創痍の身体にとって、鬼の拳はあまりにも重たい一撃であった。
「ま……まあ、それだけ動けるなら、本当に大丈夫みたいだな」
鈍痛を堪えてどうにか立ち上がると、これまでの様子から雲雀の無事を確認してハルは呟いた。その言葉に雲雀は暫し目をしばたたかせた後、「……ん」と小さく頷いた。
「……それで、正直、俺はいまいち状況を飲み込めてないんだが」
ハルは前髪を掻きながら、ちらりと、地面に伏し最早物言わなくなったレヒトマンティスの遺骸を見やる。
自分が死にかけたことも、緋色髪の少女が目の前で引き裂かれたことも、夢というわけではないだろう。それは自分の身体に残る痛みが証明している。
一体何が起こったのか、それを知るのはたった一人の少女だけに違いない。
ハルは探るように雲雀を見遣った。
最早、この緋色髪の少女が鬼種だということ以外にも何かを秘めているのは明白である。そして恐らくは、その秘め事こそが少女が聖獣団に狙われている最大の要因なのだろうということも予想がつく。
しかし、雲雀はハルのその視線に気がつくと、ふいっと露骨に顔を逸らした。その仕草が暗に、事情を話すつもりはないと雄弁に語っていた。
一体何を頑なに隠しているのか。
雲雀が何故聖獣団に狙われているのか。根本を解決するにしろ、護衛するにしろ、その原因が判明すれば色々と動きやすくなるのは間違いない。
多少強引にでも聞き出すべきかと思案する。
このまま何も知らずに後手後手に回り続けていても、事態解決の目処は立ちはしない。今回の相手である聖獣団には手練れも多く、組織としての機能もよく整っている。事態解決の方法も分からないまま現状を延長していると、取り返しのつかない状況になる可能性もある。ならば遅かれ早かれ、雲雀には事情を話してもらう必要があるのは事実だ。
暫くの逡巡の後、
「…………まあ、いいか」
ハルが肩を竦めてそう呟くと、そのことに雲雀が驚いたように振り向いた。
「い、いいの……?」
絶対に問い詰められるだろうと思っていた雲雀は、信じられないものでも見るようにハルの顔を凝視した。
ハルは苦笑を漏らす。
「言いたくないんだろ?」
「それは、そうだけど……」
「ならいいよ。前に詮索しないとも言ったしな。……それよりも、今夜どうするか考えないとなあ。荷物は、あー……、こりゃ使えそうにないな。っと、課題の採取物が無事だったのは不幸中の幸いか」
ぼろぼろに引き裂かれた荷物の中身を見て、夜を越すのに何か役立つものは無いかと探り始める。こうして日が落ちた以上、今夜はここで野宿をするしかない。せめて火を起こすためのマッチや固形燃料が無事だと助かるのだが。
その光景を呆然と見ていた雲雀は、そっと顔を俯かせる。
聞きたいことなど幾らでもあるだろうに、それらを一切問いかけることすらせずにいてくれる少年の気遣いに、雲雀は身体を震わせた。
出会ってから今までこの少年は素性もろくに知れぬ自分を庇い、助けてくれていた。それは自分が鬼種だと告白してからも依然として変わりない。種族間の軋轢が深く存在するこの世界において、その価値観がどれだけ貴重なものなのか。
優しい人物なのだと思う。
この少年は自分が初めて一緒にいて嬉しいと、もっと一緒にいたいと想える相手だった。
――でもだからこそ、雲雀は真実を口にすることが出来なかった。
それを口にしてしまえば、きっと何もかもが終わってしまう。それが何よりも、今の雲雀には恐ろしく感じられた。
震える唇を強く噛みしめ、それでも堪えきれずに雲雀は呟いた。
「……ごめんなさい」
不意に聞こえてきた小さな声に、ハルは再度苦笑する。
「謝るなよ。そういうことはまず俺が言わなきゃいけないんだからな」
「…………?」
一体何のことかと首を傾げる雲雀に向かって、ハルは微かに笑った。
「正直、何が起こったのか俺は全く把握出来てない。だけど、これだけは分かってるからな」
星々だけが光を下ろす森の中で、ハルは感謝の言葉を述べた。
「助けてくれてありがとう、雲雀」
それは鬼種の少女がこの世界に生まれてから初めて、他人から送られた感謝の言葉であった。
ヒト種の少年にとっては特別な意味を持たない、感謝の言葉。しかし送り手の気持ちがどうであれ、その価値観を受け手側が共有するわけではない。
人気の無い闇夜の森の中で発せられた少年のその言葉は、確かな意味を持って鬼種の少女の心に何かを打ち込んだのだった。