強者と弱者
広い間取りの一室。
華美になりすぎない程度の調度品と、部屋の壁沿いに並べられた無数の本棚。床には絨毯が引かれ、単調にならないよう部屋に色を付けている。
総じてしまえば、上品な部屋だった。
その部屋の一角に存在する十字に区切られた背の高い窓からは、正午過ぎの淡い陽日が差し込んできている。
その光を背に受けながら、机に向かう獣人の姿があった。
かりかりとペンを走らせる音と、紙が擦れて捲れる音だけが室内の静寂に水を注している。長時間の机上作業で疲れているせいか、ただでさえ鋭い目つきは今や不機嫌なほどに尖っている。それが精悍な獣人の顔つきを悪印象に変えてしまっていた。
ライガ=エネスベルク。
それがこの部屋の主の名前であり、聖獣団の長の名である。
白い制服越しからでも分かるほどに鍛え上げられた、屈強な身体。
使い古した表現かもしれないが、その両腕は丸太と言って良いほどに太い。そんな太腕で彼の指よりも細い筆を握って小刻みに動かしているのは、どこか滑稽ではあったが。
聖獣と称される白虎の獣人であるライガはすでに四年もの間この学園で、聖獣団を纏め上げている。今やっている書類作業もその一環であった。
黙々と作業を進めていると、獣人種であるライガの鋭敏な五感が部屋に近づいてくる者の気配を感じ取った。
ノックも無しにがちゃりと扉を開ける音が聞こえ、次いで鈴のような声が響く。
「報告が来たわよ」
現れたのは美しい少女だ。
薄暗い部屋でも分かるほどに耀く銀色の髪に、深い蒼を湛える海色の瞳。
悪目立ちすることの多いこの聖獣団の白い制服も、彼女が身に纏うと恐ろしいほどによく馴染んでいた。彼女の持つ清楚さも合わさって、まるで白いワンピースを纏っているようだ。
椅子に座る所作一つ取って見ても、気持ちが良いほどに姿勢がいい。紅茶の一つでも啜っていれば、それだけで絵になることだろう。ヒト種の女性にしては高い身長も相まって身体の起伏は若干薄く感じるが、それを欠点と感じさせない美しさが彼女にはあった。
それでも敢えて難を付けるならば、彼女の表情がどこか彫刻のように無機質的なところだろうか。もし彼女が綻んだならば、それこそ異性の誰もが目を引きつけられるだろうに。
「鬼は〈クラス=アルームノ〉に匿われているそうよ。クラスに入ったかどうかまでは分からないけど、あのクラスの性質上どちらにしろあまり違いはないでしょうね」
「そうか」
ここで初めてライガは机の書類から目を離して顔を上げた。
気配で分かってはいたことだが、目の前には良く整った、見慣れた顔がある。
フィリ=アメテュストス。
それが聖獣団のもう一つの頭である、この美しい銀髪の少女の名前だった。
深い海色の瞳に見据えられながら、じっくりと考えを巡らせる。
まさか偶然一緒に行動していただけというわけでは無いだろう。〈クラス=アルームノ〉はあの鬼種を自分達の仲間として迎え入れたということだ。
ライガは中等部から、彼のパートナーであるフィリに至っては小等部から、この学園に在籍している。当然のように〈クラス=アルームノ〉の存在も知っていた。
彼のクラスのやってきた目を疑うような経歴も、すでに慣れたつもりだ。
故に今回の件で〈クラス=アルームノ〉が絡んでくる可能性は決して低くないとは思っていた。学園内で大きな騒動が起きた際、あのクラスは常にその中心近くに存在している。
今回の件は聖獣団だけではなく、学園の公的機関である執行部すらも敵に回しかねない事柄だ。だというのにたった一人の生徒のためにこうまであっさりと行動を起こすのは、相変わらず常識的な尺では計れない判断である。
「それで、どうするのかしら」
銀髪の契約者が訊ねてくる。
平坦で冷えついた氷のような声音はいつも通りだったが、その中に僅かな喜悦が含まれていることをライガは感じ取った。
「……嬉しそうだな」
「そう?」
言われて初めて意識したのか、フィリは首を傾げてみせた。そんな何気ない所作ですら、彼女は絵になってしまう。それがフリなのか素なのか、ライガには判断することが出来ない。フィリとは契約して既に二年になるが、未だに何を考えているのか分からないことがある。
今回の件のように思わぬ慈悲深さを見せたかと思えば、目的を達成するためには他者を踏み躙るのを厭わない面もある。
そういう意味では色々と扱いに難のある契約者ではあったが、ライガは特にフィリに対して不満を持ったことは無かった。何を考えているかは分からない事も多いが、頭の回転は悪くない。彼女のフォローは聖獣団という集団を纏める上で大いに助かっている。
――そして何よりも、契約者の質という点においては絶対的な信頼を置いていた。
「……〈クラス=アルームノ〉の介入はある程度予想できていたことだろう。どうせ大した問題は起きていないのだろう?」
「ええ」
「ならいい」
フィリが頷くのを見届けて、ライガは再び机の上の書類に目を通し始めた。
今回の件は故国であるシンツェルトの上層院より直接指示された最重要任務だったが、かといってそれだけに専念するわけにもいかない。組織の長たるライガには、やりたくも無い面倒な仕事が山ほど存在している。
伝えるべき事は伝えたからか、近くにあったフィリの気配も遠ざかっていく。
ライガとフィリは契約を結んだ間柄ではあったが、日常的に行動を共にすることは少ない。必要以上に接触を持たないのが、ライガとフィリのお互いの距離感であった。そしてライガもフィリもお互いにそれを疑問に感じたことはない。
フィリの気配が部屋から消え去り再び静寂となった一室で、ライガはさっさとこんな茶番は終わりにしたいものだと溜息交じりに呟いた。
3
未開拓部。
それが、学園島内において一切の手を加えられていない自然地帯の総称であった。
一口に未開拓部と言ってもその範囲は広い。
未開拓部の全域にまたがって森林地帯が広がり、学園から離れた奥地には険しい山岳部や深い洞穴も存在しており、学園関係者でもその全域を把握している生徒はエフェメール=アンセスタを除いて存在しないだろう。
未開拓部は今回の臨時選択科目のように、時々戦闘技科の実習訓練に使われたり、錬金学科の素材集めに利用されることが多い。
基本的に平時であろうと学園側から学生の出入り制限を行ったりはしていないが、肉食の猛獣や捕食植物の群生地である。年に何人かはこの無法地帯で行方不明者が出ている。それでも学園側からなんの音沙汰もないのは、自分の身ぐらい自分で守れということなのだろう。
その杜撰な対応に子供を預ける親たちは唖然とするらしいが、そもそも入学の案内には在籍中に死亡の可能性もしっかりと明記されているので文句は言えない。そうでなくとも最強種にして学園の長、エフェメールに大して堂々と文句を言える者などいるはずもなかった。
乱雑に生えた草木を踏みならしながら、ハルと雲雀はその未開拓部の奥に向かって足を進めていた。先頭がハルで後ろに雲雀が続くかたちだ。これは身体能力の高い雲雀よりも、在学期間が長いハルの方が勝手が分かっているからだった。
探索を始めてからそろそろ半日というところだろうか。
ハルは右手に覆い茂っている植物に目をやって、足を止めた。
「雲雀、そこの三角形の葉っぱのやつ」
「これ?」
「そうそれ。収集リストにあるやつだから、根っ子ごと引き抜いて適当に詰めとけ」
指示に従って雲雀が葉を摘み取り始めるのを見守りながら、懐から収集リストを取り出した。
事前に言い含められていたとおり、新年度初の臨時選択科目ともあってリストに載っているものの殆どが未開拓部の学園付近で手に入れられるもので、大して労せずに見つけられるものばかりである。いま雲雀が採取しているものも含めても、必要なものは残り僅かだ。
もう暫くすると日も沈み始めるだろうから、今日はどこかで野営をして明日の朝を迎えてから学園に戻ることになるだろう。
「終わった」
「よし、じゃあもう少し進んだら野営しやすい場所があるからそこに向かう。比較的学園に近いと言っても、暗くなると厄介だからな」
未開拓部は戦闘技科の授業でも使われることが多いので、小等部よりこの学園に在籍するハルはその勝手をよく知っている。
雲雀は特に異論も無く頷いた。
辺りは背の高い樹木が多く、未だ昼間にもかかわらずやけに薄暗く感じる。肥えた地面は踏むと若干沈んで着実に体力を奪っていくが、だからといって歩きやすいような固い土を選ぶことはしない。地面が固いと言うことはそれだけ踏みならされていると言うことだ。この人気の無い森でそれが意味するのは、野生の生物の通り道ということである。
対して雲雀は鬼種としての身体能力の高さ故か、未開拓部の歩きづらさも大して苦には感じていないようだった。
ざくざくと道無き道を歩いていると、不意にぴたりとハルの足が止まった。示し合わせたかのように、横合いからきちきちと歯がこすれるような音が聞こえてきた。
「ハル?」
突然立ち止まったハルに、後ろから続いていた雲雀が怪訝そうな声音で声をかけてきた。しかしハルはそれには答えずに、手の平を出して動きを制する。
次の瞬間、ハルの目の前を横切るようにして影が飛び出してきた。
それに対する行動は速かった。腰に吊した鞘から獲物を抜き放ち、躊躇無く振る。
軽い、僅かな手応え。
鋭い風切り音とともにギギ、という錆びた歯車が擦れるような音を残して地面に落ちたそれを、ハルは見下ろす。
捕食植物である。
長い蔓の先には八枚の花弁がついている。花弁は雪のように白く、直径は成人男性の手のひらほどもある。それだけならば奇麗だとも思えなくもないが、花弁の内側に並び立つまるで肉食獣の牙のような棘を見てしまえばたいていの人物は意見を変えてしまうだろう。
この乱立した棘を牙のようにして獲物の肉を削ぎ落し、長い蔓を伝って養分にし、地中深くにいる本体に送り届けるのである。
恐ろしいのはこんな危険な植物が、この学園では比較的危険度が低いものとして扱われていることだった。
ハルは地面に落ちた真っ白な花の花弁を手早くバラバラに解体すると、持ってきておいた保存用の袋に詰め込んだ。
「これで人食い草の花弁は目標枚数に達したか?」
「まだ。あと三枚必要」
力なく転がる捕食植物の茎を見やりながら、雲雀は首を振った。
収集リストの中には、この捕食植物の花弁も含まれていた。こんなものを一体何に使うのかハルには皆目見当もつかなかったが、錬金学科には何かしら用途があるのだろう。
「……さっきから気になってたけど、どうして分かるの?」
この未開拓部に入ってから捕食植物の襲撃は、今ので四度目である。
その全てをハルが事前に察知し無傷で切り抜けた事が、緋色髪の少女にはどうにも腑に落ちないようだった。
「匂いとか?」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ……」
「ポチ?」
「完全に犬扱いだよな!?」
見当違いの推論にハルは溜息を吐きだす。
「地面に注目するんだよ。この捕食植物がいる辺りは根が張っているから地面が固いんだ。それと、土が不自然に盛り上がってる場合も多い」
今言った捕食植物の察知方法は戦闘技科の一番最初の授業で教えられる、謂わばこの学園の学生達にとっては基礎知識にも等しい情報だ。
雲雀はこの臨時選択科目が初めての授業なので知らないのは当然で、それは理解していたつもりではあったが、こうして実際に目の当たりにすると改めて事の大きさを実感する。戦闘技科としての知識が無い雲雀には、先輩である自分が色々と教える必要がありそうである。
「ハル、ハル」
「ん?」
「地面が盛り上がってるって、それはこんな感じの?」
「そうそう、そうな感じの……って、おい!?」
いつも通りの薄い表情のまま盛り上がった地面を無造作に爪先で突いている雲雀を見て、ハルは思わず声を上げた。
「雲雀! 左だ!」
ハルが警告を発するや否や、雲雀のすぐ脇の茂みから影が躍りかかった。
襲いかかる捕食植物に対して雲雀は咄嗟に腕を掲げて身を庇う。
無防備に掲げられたその腕に、捕食植物は獲物に飛びかかる肉食動物のように獰猛に食らいついていく。
ハルの呼吸が止まる。数秒後に緋色髪の少女の柔肉が鋭い棘によって無残に食い裂かれ、赤い血飛沫が周囲に飛び散る凄惨な光景を幻視した。しかし。
ガキッ。
肉を裂くには明らかな異音。
花弁の内側に並び立てられた無数の棘は雲雀の細い白腕に突き立てられたが、鉄が重なり合うような硬質な音と共に花弁は無力にも弾かれていた。
予想とは大きく違った光景に、ハルは目を見張る。
捕食植物はなおも諦めずにぎちぎちと棘を擦らせて雲雀の腕に食い下がっていたが、まるで通用していない。
「ん」
雲雀はまるで何事も無いように己の腕に食いつく花弁を見やる。そのまま無造作に捕食植物の長く伸びた茎の根を両手で掴むと、さして力を込めた様子も見せずに引き千切った。
ぶちぶちぶちと、植物の繊維が無残に音を散らす。
鋼鉄に匹敵する強靱な身体と圧倒的な怪力。三鬼と呼ばれ怖れられる鬼種の血筋の一つ、剛鬼の特性だった。
繊維が音を立てて破けていく様を見て、ハルが表情を強ばらせる。
雲雀は千切った花を見遣り、動かなくなった茎を地面に放り投げると残った花弁を差し出してハルを見やった。無表情の中に若干得意げな色が見えるのは気のせいではないだろう。獲物を捕ってきた犬のような雰囲気がある。
「これで達成」
自分には決して真似できない荒技に、ハルは顔を引き攣らせる。
三鬼というのは伊達ではない。
例えばフェルミだったら今の雲雀と全く同じ事が出来るだろうが、それは契約者にも劣らない莫大なマナで自分の肉体能力を強化しているからだ。対して、雲雀はいまの動きの中でマナを殆ど使用していない。マナを使って著しく肉体の防御力を上げているフェルミと違って、鬼種の少女は自身そのものの肉体能力だけで今の荒技を披露して見せたのだった。
三鬼の一つ、剛鬼の身体能力の高さと頑強さは知識としては聞き及んでいたが、こうして目の当たりにするとやはり凄まじい。
「おまえ、無茶すんなよな……」
「む?」
雲雀本人は自分が傷つくことはないと分かっていたうえでの行動だったのだろうが、端から見ているとぞっとするしかない。
「大丈夫。この人食い草じゃ私は死なないというのはこの一ヶ月で実証済み」
「そういえばそんなこと言ってたな」
自分と出会うまでこの鬼種の少女は、この未開拓部の森を拠点にして聖獣団から逃れていたと以前言っていたのを思い出した。ついさっきまで捕食植物の発見の仕方を知らなかったことを鑑みるに、きっと幾度無く今と同じような目に遭ってきたのだろう。
「ここでの生活には一日の長がある」
むん、と自信ありげに手を握りしめる微かに対して、ハルは笑いを零す。
「ぬかせ。こちとらガキの頃からこの学園にいるんだ。入学して一ヶ月ちょっとのお前に遅れなんかとるか」
「む」
その言葉に雲雀が若干不満げに唇を尖らせた。
だが、ハルは小等部の頃からこの学園に在籍している。義父親の実家に戻るのも、年に二度ある学園の長期休暇の間だけのことだ。正直なところ、実家よりもこの学園で過ごした時間の方がハルは長いのである。学園の敷地内の知識において、入学したての雲雀に後れを取る理由はない。
「なるほど。つまり、ポチは滅多に家にも帰らない親不孝者、と」
「一応は気にしてるんだからそういうこと言うのは止めろよな!」
どんなときでも口が減らない緋色髪の少女に、ハルは溜息をつく。
「ったく……。ちなみに参考までに聞くが、雲雀が森に居るとき他にどんな生物と遭遇した?」
「ん……、角の生えた兎、牙を持った梟、一つ目の狐」
そう言って雲雀が羅列していくのはどれも未開拓部でも比較的学園の近くに生息する、危険度の低いものたちだった。ヒト種のハルにとっては楽観視出来る相手でもないが、捕食植物の牙を跳ね返した雲雀が傷つくことは出来ないだろう。
この少女はこの森の中でも案外、安全に過ごしていたのかもしれない。そう思ってハルは僅かに安堵した、が――
「あと、大きな鎌を持った虫」
「――何?」
その言葉にハルが息を止めて、雲雀を見遣った。
「ハル?」
不意にハルの様子が変わったことに気がついて、雲雀が怪訝そうな声を漏らした。しかしハルはその事には取り合わなかった。最悪の想像がハルの脳裏に過ぎる。
「……雲雀、その虫って言うのは二メートル以上あるでかい奴か?」
「そう。緑色の大きな蟷螂。動きが速くてしかもしつこくて厄介。私が森から出てきたのもあれに遭遇したから」
雲雀の返答を聞いたその瞬間、ハルは己の最悪の想像が的中していることを知り苦々しく表情を歪めた。
「雲雀、急いで戻るぞ」
「ハル……?」
「急げ、森に来てから半日以上経ってる。気が付かれてる可能性が高い」
ハルは緊張の趣のまま、雲雀を促した。状況が分からないながらもハルの真剣な表情に雲雀も頷き、荷物を纏めあげる。
しかし、少しばかり間に合わなかった。
ザザザザザ――
草木を掻き分け何かが進む音が聞こえた。
何か巨大なものが移動するような物音に、神経を張って周囲を警戒していたハルはすぐに気がついた。大きく舌打ちを漏らし、乾いた下唇を舐める。
「くそ、遅かったか……!」
音は急速にこちらに近づいてきている。既に雲雀も気がついて、警戒するように音のする方向へじっと視線を凝らしていた。
そうしてついに音の発生源が姿を現す。
その高さは二メートルほどもあるだろうか。
草葉を切り分けて現れたその巨大な体躯に、覚悟していたとはいえハルは目を見張った。深く覆い茂った森の緑葉に紛れるような若草色の身体。節くれ立った細長い四本の脚で細長い胴体を支え、背中から生えている二つの腕には鋸のような棘のついた大鎌が鈍色の光を放っている。三角形のその頭部には厳つい形をした顎が並んでいて、粘液に塗れたその場所からギチギチと不快な音が漏れ出ていた。
「レヒトマンティス!」
世界から優秀な才能が集まるこのエテュディアン学園においても危険指定されている、第二種大型害獣である。
レヒトマンティスは未開拓部の森に生息する種ではあるが、本来であればこんな学園近辺の場所で出会うような生物ではない。もっと学園から離れた山岩地帯と森林地帯の境目に付近に縄張りを持つ生物だ。
しかしレヒトマンティスの最も怖れられる特徴の一つが、自分が狙った獲物は縄張りを出てまでしつこく狙ってくるという習性だった。過去には未開拓部の森を抜けて学園の敷地内まで乗り込んできた事例もある、獰猛な生物である。
強襲してきたレヒトマンティスは高い位置にある三角形の頭を僅かに動かし、その複眼が小柄な少女の姿を捕らえた。
「雲雀!」
「ぬ!」
レヒトマンティスの狙いはやはり雲雀だった。過去に逃した獲物である雲雀が再び森に戻ってきたのを察して現れたのだ。
その巨体を持った相手は、その鋭利な大鎌の片方を緋色髪の少女に向かって躊躇無く振り下ろす。雲雀は上から迫り来る大鎌を咄嗟に両腕で受け止めた。
がんっ! と大質量の物体が叩きつけられる音が雷鳴の如く響き渡る。
自分の身の丈以上の大鎌が生み出す重圧に、雲雀を支えていた地面がひび割れ陥没した。
捕食植物を相手にしたときのように、雲雀の身体が相手の攻撃を弾くというようなことはなかった。剛鬼の鋼のような強靱な肉体と、レヒトマンティスの大鎌が音を立てて互角に鬩ぎ合う。ぎぎぎとまるで金属が擦れ合うような硬質な音が、未開拓部の森に鳴り響く。
しかし、そのまま硬直状態とはならなかった。レヒトマンティスの大鎌は、二つある。
「横からくるぞ! 避けろ!」
ハルは咄嗟に叫んでいたが、それが無理なことだと分かっていた。
地面が陥没するほどの重圧だ。大鎌で上から強烈に押しつけられていて、雲雀は身動きがとれない。少しでも力を緩めれば、そのまま押し潰されてしまう。そんな雲雀に、襲い来る二つ目の刃を対処する余裕など無かった。
次の瞬間、血飛沫とともに雲雀の身体が吹き飛んだ。
「……あ」
小さな体躯が、鮮血と共に宙を舞う。
残った二つ目の大鎌が雲雀の脇腹を薙いでいったのだ。剛鬼としての強靱な身体のお陰で胴体が二つに分かれることは無かったようだが、無防備な横合いから激突した大鎌はその肉の半ばまで食い込んだ。
「……ひ、雲雀?」
力なく血飛沫を撒き散らす雲雀の姿を、ハルは呆然と見遣った。
致命傷。
どしゃりと、壊れた人形のように手足を放り出して地面に叩きつけられる。
倒れ伏す雲雀から取り留めなく紅い血が溢れ出て、大地を濡らしてく。引き裂かれた胴体の間からは、内臓が無残にも溢れ出ている。
濃密な死の気配。
今はまだ、辛うじて生きているかもしれない。しかし、これから訪れるであろう結末は回避しようが無かった。
「……」
脳内が沸騰する。
息を吐けば、まるで炎のように熱の籠もった吐息が漏れ出ていく。
気がつけば、ハルはその手に剣を握っていた。
ハルの身体能力は雲雀に遠く及ばない。僅かに残ったハルの冷静な部分が、即刻ここから逃げるべきだと警鐘を鳴らしている。
ハルには獣人のように優れた五感も、有翼種のように空を羽ばたく翼も、剛鬼のように鉄をも弾く強靱な肉体も持ち合わせてはいない。
契約という技法を行わない限り、ヒト種はこの世界でも最も弱い種族だ。小等部から学園に在籍し戦闘の技術を修めようとも、所詮はヒト種の範疇を出ない。他種と争えば死ぬのが当たり前、少しでも抗うことが出来れば賞賛に値する。その程度のものでしかない。
だが、一度吹き出た感情の波はそんな冷酷な事実を全て流し去っていった。
「おおおおおお!」
足を前に踏み出す。ハルは気炎を吐き雄叫びを上げながら、レヒトマンティスに向かって駆けだしていた。
両刃の剣を引きずるように運び、一息でレヒトマンティスに斬りかかる。下から上への掬い上げの鋭い一撃は、若葉色の胴体を浅く切りつけるだけに終わった。
「くっ」
レヒトマンティスはその巨体に似合わぬ俊敏な動作で胴体を動かし、迫り来る斬撃を避けていく。その巨体が身動ぎする度に、何かが擦れるような耳障りな音がする。
第二種大型害獣。
第二種とはこの学園島に生息する生き物の中で特別種、第一種に次いで危険度の高いことを示す位階だ。通常であれば戦技科の生徒が数人がかりで対処すべき相手であり、単身で、それもマナも待たない脆弱なヒト種が立ち向かうべき相手ではない。
ヒト種の脆弱さを嘲笑うかのようにハルの攻撃を躱し、レヒトマンティスが大きく片腕を振りかざす。技巧も何も無い、野生の本能によって繰り出された単純な上段から振り上げ。ただしその速度はヒト種であるハルに回避という選択肢を与えはしない。
長年鍛え上げてきた洞察力で事前に相手の動きを察知したハルは、辛うじて長剣を水平に構えて受け止めようとする。だがそれは、ヒト種のハルにはあまりにも荷の重い選択でしかない。
第二種指定される害獣たちの、最大の特徴。
それは、彼らもまた、限定的ながらもマナを扱うということである。
振りかざしたレヒトマンティスの大鎌に、薄く淡いマナの燐光が灯った。
風が鳴る。
次の瞬間、ハルの身を守るはずの銀色の刃が粉々に砕け散った。
「あ、がッ……!」
噎せ返るような鉄の臭いが口内に充満する。
熱い。
ごぽりと、喉から血の塊が逆流してくる。
気がつけばハルは地面に膝をつき、そのまま無様に倒れ込んでいた。
痛みは無かった。感じるのは熱。ただただ全身が焼かれるように熱い。まるで全身に熱した鉄を押しつけられているようだった。
死ぬ。
あまりにも呆気なく、自分はここで死ぬ。
レヒトマンティスの一撃は長剣が間に挟まったことによって僅かに軌道をずらされはしたが、それは即死を免れた程度の効果しかない。あの一撃は肩口から下に向かって自分の身体を大きく引き裂いている。
かつて、これほどまで身近に死を感じたことはない。
初めての死。
意識が暗闇に沈んでいく。
――ゆっくりと視界が閉ざされていく中、ハルは最後に緋色髪の少女の姿を見た気がした。